552話 「『ルキニド・ヴァキス〈聖火をくべる裁きの使徒〉』」
ファビオたちは壊れた北門から森の中に入る。
狼が森から都市側に侵入してきたおかげで、このあたりには誰もいない。他の魔獣も狼に恐れをなして逃げていた。
ファビオたちを見つけた神官騎士が何人か追ってきていたが、タイスケがトラップとして仕掛けていた術式が発動。
光の鎖が縛りつけ、彼らの身動きを封じてしまう。
これは『光鎖封奄』と呼ばれる因子レベル4の光の術式で、エメラーダがアンシュラオンに使った因子レベル6の『天極光鎖』の下位互換にあたる。
下位といっても元カーリスの高位術士が使うのならば、神官騎士でも自力での復帰はまず不可能だろう。
それ以外にも落とし穴や雷撃といった術式罠がたくさん仕掛けてあり、最初から森に逃げ込む準備が整っていた。
しかし、それを物ともしない猛者もいる。
「まずい。ジーギスが追ってきておる」
タイスケが後頭部を押さえながら呻く。
「わかるのです?」
「わしらには『聖印』と呼ばれる術印が刻まれておる。カーリスの思想を植え付けて洗脳するための術じゃ。自ら誓約したがゆえに完全に解除できぬ怖ろしい術じゃよ。それが反応して互いの位置がなんとなくわかるのじゃ。すまぬ、やつを引き入れたのは、やはりわしじゃな」
「今はそんなことはどうでもいいです。追いつかれそうですか?」
「このままではな。わしが足止めをする。おぬしたちは先に行け!」
「一緒に戦えば少しはもちます!」
「駄目じゃ。やつは強すぎる。少なくとも遺産を手にするまでは対抗できぬ! これ以上、カーリスに好きにさせてはならぬのだ! 行け、ファビオ! 行ってわしらの苦しみの連鎖を断ち切ってくれ!」
「タイスケさん…。くっ、わかりました。みんな、行こう!」
タイスケの言葉には、カーリスに翻弄されて人生を壊された者たちの願いが込められていた。
宗教は人を救うはずなのに、なぜか不幸になる者が多い。ドグマに囚われて多くの間違いを犯す。その実態を知れば知るほど誰もが宗教を否定したくなるものだ。
しかし、人そのものが霊的な存在である以上、そこから目を逸らすことはできない。
実際に女神は存在するし、霊も存在する。人の魂は永遠であり、いつか神人になるために地上人生が用意されていることも事実だ。
かといって、すでに真理は既存宗教には存在しない。欲望に汚染されて本来の目的と役割を完全に見失っているからだ。
(僕が、僕がやらなければ! 宗教に絶望し、信仰を捨てて戦った前世を持つ僕だけが、みんなをカーリスという邪悪から守ることができるんだ!)
もう後ろを振り返っている余裕はない。
ファビオは皆の希望を背負って黙々と前に進む。
その逞しい姿を穏やかな瞳で見送ったタイスケは、準備を整えて敵を迎え撃つ。
ベルナルドが追いついてきたのは、それから三分後。
百に近いトラップをすべて受けたにもかかわらず、彼はまったくの無傷であった。
ベルナルドはタイスケと対峙。
「あなたがタイスケ・ローランドですね。なるほど、かつての面影がある。私が幼かった頃は、あなたに憧れたものです。数千人の異教徒を火刑に処したカーリスきっての英傑ですからね」
タイスケはカーリスを抜けるまでは、バリバリの異端審問官として活躍していた。
その仕事ぶりは凄まじく、彼こそカーリス信徒の模範だと称されたほどである。それこそ一時は教皇になるかもしれないと噂されたほどだ。
だが、タイスケは自身の過去をばっさりと切り捨てる。
「なにが英傑か。ただの大罪じゃ。おぬしがやっていることも同じじゃよ。ファビオたちが命をかけて築いた都市を滅茶苦茶にしおって!」
「異教徒がどうなろうが知ったことではないでしょう。どのみち罪を犯すだけの存在ならば、ここで死んだほうがいい。そのほうが迷惑を被られる心配もなくなります」
「愚かな。そこに愛はあるのか。人は皆、女神の子じゃ。同胞を残酷に切り捨てる者に祝福は訪れぬ」
「たしかに人を殺すことを聖女は望まれません。しかし、より大きな罪を犯させないほうが大事です。我々には生まれ持った大罪があるのですから」
「贖罪だけしかない人生に何の価値がある。女神はそんなことを求めてはおらぬ。ジーギス、ドグマを捨てよ! それは災いを呼ぶ!」
「さすがはドグマに囚われ続けたあなたの言葉です。ずっしりと重く感じられますよ。ですが、今のあなたは咎人だ。ならば私も異端審問官として裁きを下さねばなりません」
「わかっておったが言葉は通じぬか。せめてファビオたちは見逃せ! 未来ある若者を潰すことは、わしが許さん!」
「すでに第一神殿は彼らの存在を知った。だからこそ大勢の神官騎士を派遣したのです。仮に私が止めようとしても無駄に終わるでしょう。彼らが恭順を拒むのならば排除するしかありません。管理できない力は危険なのです」
「人は誰しも母から産まれてきたのであろうが! なぜ思いやりを持てぬ!」
「問答は無用。時間稼ぎは明白です」
ベルナルドがタイスケに接近しようとすると、トラップが発動。
いくつもの光が瞬き、膨張して爆発する。
魔王技、『飽光核散』。
魔素を圧縮して生み出した光球を爆発させて攻撃する因子レベル4の術である。
飽和状態に陥った魔素が爆発する力に加え、光属性は精神体や霊体に対しても影響を与えるため、邪霊や悪しき精霊といった存在に特効を持つことも特徴の一つだ。
それを複数同時に爆発させたのだから、いくらトラップとはいえタイスケの術者としての能力が高いことがうかがえる。
がしかし、爆発のあとに出てきたベルナルドは無傷。『破邪顕生』によって術を無効化してしまう。
「まだまだじゃ!」
タイスケは数々のトラップを発動させながら新たな術式を構築。
タイスケの背後に二つの『念霊』が出現すると、それらが同時に術式を構築することで三つの術式を同時に発動。
さきほど使った『光鎖封奄』や『飽光核散』に加え、上空から光の雨が降り注ぐ因子レベル5の『天刑光玄』を放つ。
上下から襲いかかる何重もの光の攻撃には、さすがのベルナルドも『破邪顕生』だけでは対応できない。
ベルナルドは光の雨だけを消滅させると、跳躍して他の術から逃れようとする。
「逃がさぬ!」
タイスケは、またもや三つの術式を同時に発動。
一つ一つではベルナルドに対抗できないが、三つ同時に放つことで動きを封じようとする。
真言術奥義、【複韻】。
術を自動で構築するための『念霊』または『念体』を生み出すことで、複数の術を同時展開できる奥義である。
単純に火力を三倍にするものなので非常に高度な技といえるが、もちろん負荷も三倍以上。
通常の術消費に加えて念体の維持も必要になるため、BPが驚くべき早さで減っていく。演算処理も自動とはいえ相応の負荷を強いられる。
タイスケの術士因子が悲鳴を上げる。これ以上は無理だと叫んでいる。
だが、止めない。
ベルナルドにありったけの力をぶつけ、精神が焼き切れそうになっても魔力珠を展開して踏ん張り続ける。
「ぜーーぜーー! がはっ…げほっ!!」
「相変わらず見事な術式です。しかし、老体で無理はいけませんね。今のあなたでは私には敵わないと知っているはずですよ」
「さすがは強化人間…か」
これだけの術を受けてもベルナルドは無傷だった。
どうしてもかわせないものは『破邪顕生』を使うが、そのほとんどを『体術』で避けてしまっている。それができるのも彼が強化された人間だからである。
カーリスは禁術や魔具や呪具、あるいは薬物を使って人体実験を繰り返し、因子を強制的に引き上げることに成功していた。
要するにマングラスと同じ類の人種であり、それを人型のまま完成させていることから、その意味ではマングラス以上の技術といえるだろう。
だが、それはタイスケも同じだ。
「我々のような上級異端審問官は下級や中級とは質が違います。選ばれた存在なのです。かつてのあなたもそうだった」
「禁忌を犯して造られた者が、今度は禁忌を取り締まる側になる。なんとも滑稽ではないか」
「毒を以て毒を制す。極めて合理的ではないでしょうか」
「わかっておらぬな。それを傲慢を呼ぶのじゃ!」
ベルナルドの足元にネズミが出現。
赤い目が光ると同時に、周囲に真っ黒なモヤが生まれてベルナルドを包み込む。
タイスケの使徒である『カナジー・レミンガル〈雲より生まれ既知と消ゆる使徒〉』には【五つの能力】がある。
一つ目は、『忘却の既知』。
かつて野盗相手にも使った記憶を欠乏させる能力だ。対象が弱い場合は言語を忘れさせることも可能である。
二つ目は、『哀しみの既知』。
哀しい記憶を植え付けて戦意を喪失させたり、気力をなくして動けなくする能力である。
三つ目は、『怒りの既知』。
怒りで理性を失わせ罠にはめやすくしたり、同士討ちを狙う能力。
四つ目は、『親愛の既知』。
囚われのファビオの情報を得た時や都市を出る際に使ったもので、知らない相手にも友人だと思い込ませる能力である。
簡単にいえば、あったものをなかったことにしたり、ないものをあったように見せかける『既知』を一時的に生み出す力といえる。
この四つの能力だけでも使い方次第では強力な武器になる。相手の精神に介入する能力は総じて危険だ。
だが、このカナジー・レミンガルの真の怖ろしさは、五つ目の『絶望の既知』にこそあるだろう。
これは対象に絶望を与えて自死に追い込む能力である。既知は短期間での効果のため、衝動的な自殺願望を与えることで自害を促すわけだ。
これを受ければ、たとえ高レベル帯の武人であってもひとたまりもない。絶望とは、それほどまでに怖ろしいのだ。
タイスケはこれを使って数多くの異教徒を殺してきた。権力闘争に負けたカーリス教徒も殺したことがある。
一見すれば自殺なのか精神攻撃なのかわからないことから、かつての彼はカーリス内でもひどく怖れられていたものだ。
「ほぉ、これが噂の『カナジー・レミンガル〈雲より生まれ既知と消ゆる使徒〉』ですか。良い刺激です。しかし、いささか退屈ではありますね」
だがしかし、対象者が絶望を一つも抱いていなかったら?
そのすべてが一つの曇りもなく希望と自信に満ち溢れていたら?
「私は正義。私こそカーリスの剣にして盾。聖女のためならばいかなる所業すら怖れぬ者。そこに付け入る隙などないのですよ!!」
ベルナルドから強力な『ドグマ』が噴出し、逆に絶望のモヤを食いちぎる!
精神攻撃である以上、より強靭な精神力があれば対抗できるのは道理。ベルナルドには既知など必要ないし、入り込む余地もない。
なぜならば彼の意思や記憶の全領域は、一ミリの迷いもない『絶対信仰心』で満たされているからだ。
(ドグマは人を縛る。やつは悪行さえも正義にしてしまうのじゃ!)
ベルナルドがやっていることは、一般常識からすれば『悪』に該当するものだろう。
しかしながら己自身がそれを正義と確信していれば、心はいつも穏やかで清純なものとなり、だからこそ残酷にもなれる。
無実の人間を何万人殺しても何も思わないし、未来ある若者が犠牲になっても気に病むこともない。すべては世界平和のため。カーリスが統治する安定した世界のためなのだ。
タイスケの能力は強力だが、相手が完全耐性を持っていると何もできない。
これはアンシュラオンの支配下にあるサナたちも同じで、より強い者の精神支配を先に受けていれば、他者からの精神攻撃を受けにくいという現象である。
今回の場合はカーリスの支配のほうが強かったことになるが、ベルナルドほどの狂信者はそうそういないので、やはり相手が悪かったといえる。(ガジガやジャコブなら死んでいた)
「今度はこちらの番ですね!」
ベルナルドが駆けて一瞬でタイスケを捉えると、本を持っていた左腕を掴んで、へし折る。
「ぐあっ!!」
だが、これで終わらない。さらに力任せに捻じり続ける。
ブチブチゴキンと筋肉と骨が無理やり破壊される嫌な音が響き、ついには肩口から腕を―――引きちぎる!!
肩からは大量の血が噴き出し、剥き出しになったズタボロの筋組織が露わになった。
ベルナルドは本だけを奪い、ちぎった腕は無造作に放り投げる。
「これはカーリスの財産です。返してもらいますよ」
「カハハハハッ! そんなものはいくらでもくれてやるわい! だが、代わりにおぬしの足をもらう!」
「っ…!」
ベルナルドの足下から術式で作られたトラバサミが出現。
咄嗟に足を引いて回避するが、それ自体が陽動。
無防備になったベルナルドにタイスケが突進。首にかけていた数珠を叩きつける。
数珠は当たった瞬間にバラバラに散るが、一つ一つの珠が輝いて巨大な術式陣を構築。
ベルナルドが異変に気づき、抜け出そうとするが遅い。
弾けた珠それぞれが光の柱になって、一つの大きな円柱を形成。
封印術奥義、『十八珠・妙天色無陣』。
十八の宝珠に何年も魔素を込め続け、一気に解放することで非常に強固な封印結界を生み出す術である。アルが使った『匪封門・丹柱穴』の術版だと思うとわかりやすい。
色を失った世界ではあらゆる術式は構築されず、物理的な接触も無効化されてしまうため暴力の類は一切使えない。
いわば閉じ込めた対象に『物理無効』『銃無効』『術無効』といった、あらゆる無効効果を与えることで外界から遮断して無力化してしまう結界である。
タイスケも一緒に閉じ込められてしまったが、互いに何もできないのならば殺し合うこともできない。
「これが本命でしたか。自分ごと閉じ込めるとは恐れ入ります」
ベルナルドは結界を壊そうとするが、やはりびくともしない。
術が使えないということは術具の類も効果を失っており、牧師らしからぬパワーもここでは無意味だ。
「ぬはははっ! どうじゃ! 気まずかろう! 相容れぬ二人がいるだけで空気が最悪じゃ! 手出しもできぬのならば、なおさらよ! ここで一晩中、おぬしに愛を説いてくれようか!」
これはカーリスの追手に見つかった際に使おうと思っていたタイスケの奥の手である。
この言動からも結界の効果は最低でも一晩はもつと思われる。それだけの時間があれば、ファビオも余裕をもって遺産の継承ができるだろう。
「結界の効果が切れたら、わしはおぬしに殺されるじゃろう。じゃが、それでええ。満足。満足じゃ」
「秩序無き力は無法を呼び込むだけ。世界を混乱に陥れて何が楽しいのですか?」
「わからんかジーギス、それを人は『自由』と呼ぶのじゃ」
「過ちを犯すだけの自由に価値はありません。あなたも知っているはずです。人は愚かだ。大衆の大半は人の死を悦び、愉しみ、あまつさえ蔑ろにする」
火刑を行った時、人々はどうしただろうか?
たしかにベルナルドが反対勢力を鎮圧したせいもあるが、それで簡単に流されてしまい、人間としての品性を失ってしまうなど論外。
自分は安全な場所から石を投げつけて他者だけを罰し、何かを成す力もなく責任感もない者たち。
人はそれを『愚者』と呼ぶ。
「大衆に力を与えるなど愚の骨頂。自由など下劣の極み。すべてはカーリスが管理しなければなりません。聖女が示した贖罪の慈悲を粛々と遂行するのです」
「真なる原罪とは【初代聖女を殺した罪】にほかならぬ。しかし、その罪はわしらだけが背負うもの。他者に押し付けるものではなかろう」
カーリスの原罪には二つの意味がある。
一つ目はベルナルドがファビオに説いたもので、人が力を求めすぎた結果、摂理を逸脱して女神に罰せられたという話だ。
実際に空を飛べない等の女神の規制が存在することから、この話には信憑性があるものといわれている。あれだけの栄華を誇っていた前文明が滅びたことも事実だ。
しかし、禁書にしか記されていない二つ目の原罪が存在した。
それこそ初代聖女である【カーリスを殺した罪】である。
そもそも聖女カーリスは宗教組織を作ろうなどとは思っていなかった。ただ己の使命を果たそうと一般市民とともに暮らし、日々の苦しみと悩みを聞いていたにすぎない。
だが、それを快く思わない者たちがいた。施設の管理人であった司祭たちである。
そう、司祭とはただの建物の管理者であって、カーリスとは何の関係もない者たちだったのだ。
彼らは日に日に増えていく信者たちに目をつけ、施設に入ろうとする者から金を取ろうとした。また、聖女カーリスが生み出した真言術も独占すれば大きな利益になると考えた。
だが、聖女カーリスがそれに抵抗すると、あろうことか彼女を監禁して結果的に殺害。
しかも詫びるどころか聖女の身代わりを立てて、そのまま組織を乗っ取ってしまう。そのうえ殺した者の名前まで利用する悪辣さとふてぶてしさだ。
彼女自身は殺されても他者を恨まなかったが、その罪に耐えきれない者たちや、必死になって覆い隠そうとする者たちによってドグマが形成され、それが今の時代になっても負の遺産として引き継がれる事態に陥っている。
ドグマは年代を重ねるごとに強大になり、へばりついた泥のごとく腐臭によって塗り固められ、ベルナルドやかつてのタイスケのように多くの狂信者を生み出す結果になった。
これが真なる原罪。カーリス教徒が背負うべき大罪である。
「今のカーリスに初代聖女の意思は宿っておらぬ! お飾りの聖女になんの価値がある!」
「だからなんだというのか。聖女は人々の象徴として絶対に必要なのです。そして、聖女のために手を穢す者がアモンズでありましょう! もとより呪われた世界! 迷うことは何もない!」
「無駄じゃ。おぬしでもここでは何もできぬ。おとなしくして―――」
この時、タイスケは気づいた。
(本が…無い?)
タイスケの本のことではない。それはベルナルドが持っている。
しかし、彼自身の本はどこに行ったのか。
慌てて周囲を探すと、少し離れた地点に本が落ちているのがわかった。
それは結界の外にあり、しかも『ページが開かれている』。
「『ルキニド・ヴァキス〈聖火をくべる裁きの使徒〉』、私を解放しろ!」
攻撃は通さなくとも意思は通る。
開かれたページから使徒が具現化。
それは『二つの頭部』と『三本の腕』に『四枚の翼』を持っていた。
頭部は女性と虎、上半身と腕は人間のものだが、それぞれに剣と盾と火が灯ったトーチを持ち、下半身は獣で翼は白と黒が交差したものとなっている。
これがジーギスが所有する使徒、『ルキニド・ヴァキス〈聖火をくべる裁きの使徒〉』である。
(しもうた! 結界を張る前に使徒を展開していたか!)
ガジガやジャコブのような下級審問官は、本を持っていないと使徒が扱えないが、それは単に未熟なだけである。
本来この術具は所有者とリンクしており、直接操作である点は変わらないが、離れた位置からでも起動は可能となっていた。
しかし、遠隔起動を実際にやるには高い親和性と高度な術式操作が必要になるので、上級異端審問官の中でも限られた者にしかできない芸当だ。
具現化したルキニド・ヴァキスは、剣で結界を攻撃。
その斬撃の威力はガンプドルフ級のパワーであり、強固なはずの結界に少しずつ亀裂が入っていく。
封印結界は内側からの力には強い反面、核である宝珠が外側に設置されているので、そこを狙われると脆い。
そこらの術式武器程度ではびくともしないが、ルキニド・ヴァキスは非常に強力な使徒ゆえに宝珠もダメージを受けてしまう。
そして、使徒の強烈な一撃を受けて、ついに結界が崩壊。
ベルナルドが解放される。
「さすがは元上級異端審問官。少しだけヒヤリとしました」
「ぐぬぬ…行かせぬ! 先には行かせぬぞ!」
「使徒を使う時の私は自制心が少々利かなくなるのです。それゆえに滅多なことでは使わないようにしていたのですが、こうなっては致し方ありません」
ベルナルドの瞳が鋭く光り、獲物を狙うものとなる。
「タイスケ・ローランド、カーリスの反逆者として、あなたに審判を下します。判決は―――火刑! しかし、その前に痛みを与える!」
ルキニド・ヴァキスが剣でタイスケを攻撃。
次々と繰り出される剣撃が身体を刻んでいくが、わざと致命傷にならないように手加減しているので簡単には死ねない。
タイスケの身体から大量の血が噴き出し、見るも無残な姿になる。
だが、まだ刑の執行は終わらない。続いて剣の表面が赤に染まる。
『ルキニド・ヴァキス〈聖火をくべる裁きの使徒〉』の能力の一つ、『火剣の裁き』。
幾千度まで熱せられた剣で敵の武具ごと溶かしてしまう力だ。これだけの熱量の場合、戦車の装甲でさえ簡単に焼き切れるだろう。
こんなものが人体に当たれば、斬られた箇所が一瞬で炭化。タイスケの身体が黒に染まっていく。
それだけにとどまらず、自らの拳でも殴る!
「そらそらそら!! どうですか! 痛いですか! それは罪への罰! 罪を犯さないための痛みなのですよ!」
「っ……ごぼっ……ぐばっ…!」
ベルナルドの拳が容赦なく叩きつけられる。
そのたびに炭化した身体が欠損。タイスケが死に近づいていく。
(これが…鏡……か)
嬉々として他者に罰を与える姿は、まるで過去の自分そのもの。
ベルナルドは正気を保っているようでも中身は完全にドグマに支配されている。そうなるように設定されているからであり、自らもそれを強く望んでいるからだ。
この場合、むしろ異端者はタイスケのほうなのだろう。カーリスに逆らうなど彼らの価値観においてあってはならないのだ。
火剣で斬られ、拳で殴られた身体は、もうズタボロ。ただの肉のサンドバッグに成り下がる。
「ふははははは! 悪は滅びる! 聖なる者はいつでも正しい! さぁ、消えろ! 存在そのものを消し去れ!」
ルキニド・ヴァキスがトーチを振ると、火種がタイスケに付着し―――発火!
『ルキニド・ヴァキス〈聖火をくべる裁きの使徒〉』の能力、『聖火の裁き』。
剣を加熱しただけでも、あの熱量である。それを直接敵に放てばどうなるかは見ての通り。
『聖火』に包まれて肉も骨も着ている服も術具も、そのすべてが燃え盛る光になって消えていく。
(すまぬ…ファビオ。足止めも満足にできぬとは。おぬしたちは…生き延びてくれ!)
そこには断末魔すら残らない。
一瞬で消失してタイスケは絶命。
元とはいえ同じ上級異端審問官であるにもかかわらず、ここまでの差が生まれたのは、やはりカーリスの『聖印』が大きく影響を及ぼしたと思われる。
強化人間とその武器である使徒には安全装置、つまりはカーリスに対する忠誠心と信仰心が強ければ強いほど力を発揮する制約が存在する。
タイスケがカーリスの敵となった瞬間、彼の強化人間としての力は著しく減衰して使徒も弱体化。むしろ足枷となってしまったがゆえに、ジーギスに手も足も出なかったのだ。
これもタイスケがカーリスを過剰に怖れ、逃げ続けた理由の一つであった。
「浄化完了。死体は消えてしまいましたが、この本があれば報告だけで十分でしょう。さて、だいぶ離されてしまったようですね」
タイスケが命をもって時間を稼いだことで、この間にファビオはかなり先にまで進んでいた。
いくらベルナルドであっても森の中はアウェイ。このままでは追いつけない可能性があった。
「致し方ありません。これは広範囲に影響を与えるので、あまりやりたくはないのですが…逃がすよりはましでしょう」
ルキニド・ヴァキスから黒い煙が漏れ出し、それを翼を使って拡散。
この煙は熱量と毒性を持つ特殊なもので、触れた木々に次々と燃え移って森が火に包まれていく。
必然的に森の中にいた魔獣たちも煙を吸い込むことになり、次々と倒れて動けなくなる。動物も植物も虫も土も火煙に汚染されて、一瞬にして森は地獄絵図と化した。
この惨状に比べれば、森に侵攻したイノールなど可愛いものである。
「足手まといを抱えながら、どこまで逃げられますかね。はははは!」
火の中を猛然と進み、ベルナルドはファビオに迫っていく。