530話 「森の賢者 その3『神様の正体』」
三人は森に入り、子供を捜していたマテオたちとも出会って進展を訊ねるが、結果は同じ。やはり子供は見つかっていないとのことだ。
一行は改めて、先日野盗と戦った場所にまで赴く。
野盗の死体はすでに片付けられており、血の痕跡もほとんど残っていなかった。
といっても特に親しい者でもない限り、死体は土に埋められて終わりだ。墓標の類も見られない。
迷惑ばかりかける野盗も死ねば大地に還るしかない。肉体を構成する要素は自然の中を循環し、迷える魂も闇の女神によって優しく抱かれる。
自分には見えないが、本の知識では白狼の眷属が魂を回収していくそうなので、行先はともかくとして彼らもきっと天に召されたはずだ。
(女神様からすれば彼らも同じ子供だ。与える愛の量は変わらないか。偉大なる者と呼ばれるだけはある)
「この先でいなくなったのなら、どう考えてもここよね」
ファビオが自然の営みに感嘆している間、ユーナは深部の入口に立って奥のほうを観察していた。
このあたりの心情の差は、実際に殺した者と伝聞として受け取った者の違いだろうか。
「常識的にはそうですが…本当にいるかどうか」
「行ってみればわかるわよ」
「本気ですか? さすがにこの面子で行くのは危険ですよ」
「大丈夫よ。そんな気がするから」
「ちょ、ちょっと! そんな無防備に!」
制止を払いのけて、ユーナは奥へとずんずん歩いていく。
彼女はいつもの外出着をまとっている程度で、装備らしい装備もしていない。魔獣がいるかもしれない深部に赴くには軽装すぎる。
「ファビオ、ユーナは言い出したら止まりません。諦めるしかないでしょう。それよりは護衛に徹しましょう」
「ディノがいないので無理はできませんよ」
「わかっています。危なくなったらすぐに戻りましょう」
キリポはキリポでずっと深部に行きたかったこともあり、ユーナの後ろを嬉しそうについていく。
一方、護衛を任されるファビオは気が気ではない。弓が基本兵装ゆえに前衛がいないと非常に分が悪いからだ。
野盗との戦いがあれだけ上手くいったのも、前で身体を張るディノがいたおかげといえる。
(みんな、死の危険に対して鈍感すぎる。いや、僕が臆病なだけなのか?)
そんなことを思いつつ進むと、今回も幸運なことに他の魔獣は出てこなかった。
魔獣の生息数自体が減っているのかとも思ったが、ハンターやレンジャーからの報告に特段の変化はない。
変わったとすれば森の深部のほうだろうか。
(深部には誰も行かないから情報が少ない。あの狼の生態もよくわかっていないんだ)
一瞬、記憶喪失も狼の能力かと勘ぐるが、どう見ても物理タイプの魔獣だ。
あくまで対峙した時の印象だが、もともと強いので、そうした搦め手を使う必要性は感じない。
では、狼ではないとすれば何が原因なのだろう。それもまたわからない。
(それにしても迷いもなく歩いていく。初めて入るはずなのに道がわかっているのか?)
周囲を強く警戒しているファビオとは対照的に、ユーナの歩みは止まらない。
まるで勝手知ったる庭のごとく、右に左にと淀みなく曲がっていく。
こうしてみると深部の地形は非常に複雑だ。植物の密度も高いせいか視界も悪く、獣道しかないので方向を見失いやすい。
前回は男が滅茶苦茶に荒らしながら逃げていったので追跡は容易だったが、静かに移動する者がいたら潜伏していても気づかないだろう。
「怖いところですね」
深部に初めて入るキリポも、独特の森の雰囲気に気圧されているようだ。植物の湿気と長距離の移動で汗が滲み、トレードマークの眼鏡も曇っている。
そして、逃げた野党を発見した場所に到着。
その時、妙な違和感を覚えた。
(気のせいか地形が違うような…)
前は行き止まりだったところが道になっており、ユーナはそこを通ってさらに奥に進む。
それを何度か繰り返すうちに、もはやファビオでさえ来たことがない深い地点にまでたどり着いていた。
その頃には方向も方角も不明。ここがどこかすらわからない。
まったく見分けがつかない茂みばかりなので、もし自分独りだったら確実に遭難していただろう。
もはやユーナだけが頼りといった様相で、ファビオもキリポも後ろをついていくのがやっとだった。
そうして進むこと十数分、ようやく広い道に出た。
そこで最初に目に付いたのが―――【巨大な樹】
(大きい…。こんな大樹があったのか?)
高さは軽く四百メートルを超え、横幅も五十メートル以上はある。
いきなり出てきたので、下から見上げれば完全に超高層ビルだ。
そびえ立つ大樹の枝葉からは淡い光が放射され、そこからこぼれた輝く粒子が周囲に満ちることで、深い森の中にもかかわらず真昼間のような明るさを保っている。
その光も至るところで乱反射するため、風呂場の湯気を彷彿させる幻想的な色合いが生まれていた。
あまりの美麗な光景に男二人は呆然と立ち竦む。
「キリポ、あんな樹…ありましたか?」
「い、いえ、初めて見ました」
「あれだけ高いなら村からでも見えますよね?」
「そのはずですが…角度の関係で見えなかったのでしょうか」
「二人とも、何をしているの。早く行きましょう」
「ユーナ、どこに行くつもりなのです?」
「あそこよ」
ユーナが指をさした先に、何か四角いものがある。
大樹の大きさに圧倒されて気づかなかったが、よくよく見ると樹の根元に『木造の家』が建てられていた。
魔獣は家に住まない。住むのは人間だけだ。
現実離れした光景にまだ頭の整理が追いつかない中、ユーナに引っ張られる形で家の前にまで歩いていく。
家は小さい。といっても、この大樹があるからそう見えるだけで、実際はペンション程度の大きさはあるようだ。
家の造りも悪くなく、思っていたよりも綺麗な外観でびっくりする。
「ここは何です?」
「さぁ、知らないわ」
「ユーナが案内してきたのでしょう?」
「こっちじゃないかなーと思って来ただけよ。私だって初めて見るもの」
「そのわりに迷いなく来ましたよね? いったいどうして―――」
「やれやれ、また迷い人か?」
家の前であれこれ話していると、扉が開いて一人の老人が出てきた。
薄汚れたローブを着ていて、顔や手はしわくちゃ。かなりの高齢であることが外見からうかがえる。
そのいでたちは、以前ディノから聞いていた『不審者』そのものだ。
「あなたは…誰です?」
ファビオが反射的に訊ねると、老人は少し不機嫌そうな表情を浮かべた。
「おぉん? まずはそっちから名乗るのが礼儀じゃぞ。違うか?」
「あっ、失礼しました。僕はファビオ・オルシーネと申します。外の村の一つで村長代理をやっています」
「ほーん。その歳で村長代理とはの」
老人は、ファビオをジロジロと眺める。
見た目はやわな少年なので、不審者が逆に不審がるという謎の現象が起きてしまう。
「で、あなたは?」
「ただのジジイじゃよ」
「こちらは名乗ったのですから名乗りましょうよ」
「べつに名乗ったらこっちも名乗るなんて言っておらんしなー」
「そんな屁理屈な」
「人生なんて屁理屈なもんじゃよ。というか、どこから来た? ここに迷い込むことは滅多にないはずじゃが…」
「普通に歩いてきましたけど?」
「また結界が壊れたのか? あれは直すのが面倒なんじゃがな。ん? その娘っ子は?」
「彼女はユーナです。汚い目で見ないでください。僕の妻ですよ」
「誰が汚いじゃ! これだから最近の若いもんは!」
「名乗らないほうも大概ですけどね」
「生意気な小僧じゃな。ん? お前もどこかで見たことがあるような…」
「おじいちゃん、誰か来たの?」
「これこれ、勝手に出てはいかんぞ」
老人の後ろから、ひょっこりと顔を見せたのは一人の『女の子』だった。
その顔は、似顔絵で見せてもらった【行方不明の少女】と同じだ。
それを真っ先に思い出したキリポが、老人を指さす。
「ファビオ、彼女ですよ! 攫われた子供、ファンジーです!」
「犯人を見つけましたね。誘拐に手を染めるとは、もはや問答無用です!」
ファビオが矢を向けると、老人は慌てて両手を上げる。
「待て待て! わしは無実じゃ! なんもしとらん!」
「じゃあ、どうしてその子がいるのですか!」
「お前さん、急に好戦的になったの。まるで別人じゃ」
「村長代理ですからね。殺してでも村の住人を守るって決めたんです。さあ、すぐに解放してください。そうしないと頭が吹っ飛びますよ」
「まったく、人の話を聞かんやつじゃな。しょうがない、立ち話もなんじゃ。中に入るといい」
「………」
「ファビオ、入りましょう」
ファビオの弓を押さえるようにユーナが前に出る。
「ユーナは無警戒すぎます」
「悪い人じゃないわ。たぶんだけど」
「また根拠が曖昧ですよ」
「何かあったら守ってくれるんでしょ? 私の旦那様だもんね」
「…やれやれです。守るほうの苦労も知ってください。ご老人、下手な真似をしたら撃ちますよ。グレネードもありますからね」
「物騒な小僧じゃの。人を信頼する心を忘れておる。誠に嘆かわしい世の中じゃ。まあいい、さっさと入れ。茶ぐらいは出してやる」
ここで対峙していても仕方ないので、警戒しながらも老人の後に続く。
中に入ると、外からは見えなかったが家は大樹と同化しているようで、所々に白銀の根の一部と緑が見える。
この様子から、家が建ったのは十年やそこらではない。
「いつから住んでいるんですか?」
「わしが来たのは五年ちょっと前じゃな。ここは間借りしておるだけじゃ。金は払っておらんがな」
「五年前…。では、やはりあなたがあの時の不審者ですか?」
「かー! 人を不審者呼ばわりとは失礼なやつじゃ! っと、前にもこんなことがあったの」
「五年前、狼の群れに囲まれていた二人の子供のうちの一人です。倒れていたほうです」
「あー、あの時のか! おったおった、そんなのがおったな。見た目が随分と変わっておったから、わからんかった。では、またおぬしが壊したのか」
「壊した?」
「あの時も結界を壊しおって。これは神殿でも上位の結界で―――とと、いらん話じゃったな。ともあれ、結界は直すのが面倒なんじゃぞ」
「そんな結界は知りません。少なくとも僕は何もしていませんよ」
「ならば、どうやってここに…」
「おじいさん、お茶はどこかしら? 喉が渇いたし、みんなで飲みましょう」
「なんで娘っ子も我が家のように馴染んでおるんじゃ。あー、生活用品はそこにある。勝手にせい」
「はーい」
ユーナはユーナで室内を好き勝手に漁り、茶葉を見つけて紅茶を淹れ始める。
思えば最初に出会った頃からガンガンくるタイプだったが、こうして外から眺めると、改めて怖ろしいほどアクティブな性格であることがわかる。
「あら、この容器、水を入れると勝手に沸くのね。不思議だわ」
「術具も多いから怪我をしないようにな」
「術具! 術具があるんですか!」
これに食いついたのはキリポだった。
すごい剣幕で老人に詰め寄る。
「なんじゃなんじゃ、術具くらいはあるぞ」
「このあたりでは珍しいのですよ。うちの店でも扱っていないくらいですからね」
「ふむ、そうかもしれんな。この地方はだいぶ寂れておるからの」
「ほかに術具はあるのですか?」
「あるにはあるが、そうやたら見せびらかすものではないし…」
「不審者、確保しました! これより連行します!」
「わかった、わかった! 見せてやるから興奮するでない! これだから外の人間は嫌いなんじゃ!」
キリポにせがまれた老人は仕方なく、いろいろな術具を取り出してきた。
さきほどの勝手に沸く容器や蛍光灯のように光る筒から、コッペパンでも売っていた身代わり人形やポケット倉庫といった一般的なものもあった。
その一つ一つにキリポは感激。
「これはすごいですよ! どれも貴重品です!」
「こんなもん、いくらでもあるぞい」
「本当ですか!? ください!」
「いや、さすがに配るほどあるわけではないがの…。つーか、お前さんも初対面のくせに図々しいやつじゃな」
「これでも商人の息子ですからね」
「べつに褒めておらんぞい」
(この老人、性格はアレだけど只者ではない。世間では術具は高級品と聞くし、結界も高難度の術式と聞く。なんだか、きな臭いな)
ファビオは老人から視線を外さない。それだけ彼が異質だからだ。
だが、その間にユーナが女の子から事情を訊いていた。
「ファビオ、おじいさんが助けてくれたみたいよ」
「その子をです?」
「ええ、放置されていたところを匿ってくれたみたい」
「では、野盗の怪我は?」
「あれは縄張りを守りに来た狼がやったものじゃよ」
術具をいくつか渡すことでキリポを振りきった老人が、ようやく椅子に座る。
すると、女の子がお茶を持ってきた。
「おじいちゃん、お茶あげる」
「嬉しいのぉ。これじゃよ、こういうのを求めておったんじゃよ。癒しじゃのぉ」
「わたし、いいこ?」
「うむ、いい子じゃぞ」
「えへへ」
女の子が老人に心を許していることから、助けたという話は嘘ではないようだ。
老人ももらったお茶を嬉しそうに啜っていた。その姿は、まさに孫を愛でる祖父に似ている。
「しかし、僕が行った時に狼はいませんでしたよ?」
「すでに隔離したあとじゃからな。この子だけ結界内に入れて、狼には出ていってもらったのじゃ。うろうろされると邪魔じゃしな」
「そんなことができるのです?」
「できておるから、今こうしてわしがここにおる。ここは結界で守られておるから外とは隔絶されておるのじゃ。狼とて簡単に入れはせぬよ。あの男が助かったのはたまたまじゃな。あとのことは知らん」
「あなたと狼との関係は?」
「べつに何もない。同じ森に住んでおるから隣人というだけじゃ。『赤刃狼』も面倒事は嫌じゃろうし、これくらいの距離感でちょうどええ。お互いに何もせぬ良い関係じゃな」
「あの赤い狼…赤刃狼とは何です?」
「この森の『聖獣』じゃろう? わしが来る前からおったぞ。あの様子からすると五百年は生きておるようじゃしな」
「聖獣なのですか? 魔獣ではなくて?」
「違うのか? やつは自分で『森の守り手』だと言っておったぞ。もしかして自称じゃったのか? 自称は便利じゃな。わしも今度使うかの」
「狼と話せるのです?」
「精神を通じて簡単な意思疎通程度はな。逆にどうして村人のお前さんがあいつを知らぬのじゃ」
「我々もあとからやってきたので詳しくはないのです。前にいた人たちもどこかに行ってしまいましたので」
「人は移ろうものじゃからな。残るのは古いものばかりじゃ。それも仕方あるまいな」
「この大樹は何です?」
「質問ばかりじゃな。まるで尋問じゃ」
「実際に尋問ですからね。返答次第では拘束しないといけません」
「かー、頭の固いやつじゃ。わしは無実と言うておろうに」
「では、答えてください。無実なら話せますよね?」
「ふん、大樹は大樹。『世界樹』じゃろうに」
「世界樹? あの絵本に出てくる? では、これも『魔獣』なのですか?」
「そうみたいじゃな。といっても、人を襲うようなものではないがの。赤刃狼が聖獣ならば、おぬしたちにとってみれば同じく聖獣といえるじゃろう」
この世界樹は、大きくいえば『植物型魔獣』の枠組みに入る。
アンシュラオンが火怨山の麓の森で倒した『聖檎樹』や、ハピ・クジュネに向かう途中で出会った『バジハローラー〈殺戮回転木蔦〉』といった植物系魔獣の最上位種の一つだ。
最上位種ということもあり、植物でありながら一定の意思を持ち、その力も『地帯』や『地域』に影響を及ぼすほど大きい。
また、世界樹という名前から世界に一つしかないように思えるが、種族なのでそれなりに数はいる。火怨山にもこれより巨大な世界樹が何本もあるくらいだ。
能力は『他の植物の生育』。
その溢れ出る生命力によって緑は活性化し、砂漠でも簡単に森が生まれるほど強力だ。
火怨山にあれだけ強力な魔獣がいても緑が枯渇しないのは、ひとえに世界樹のおかげといえるだろう。環境が破壊されてもすぐに再生してしまうからだ。
説明を受けたファビオは、ずっと抱いていた疑問が解けた気がした。
「では、この一帯だけが緑豊かなのは世界樹のおかげなのですね」
「うむ。ここの先住民は実りを与える世界樹を祀っておった。あの狼も守護者の聖獣として崇めておったようじゃ」
「なるほど、だから石碑に絵があったのですか。ですが、なぜ結界を?」
「こんな目立つもん、そのまま放っておいたら人が群がるじゃろうて。せっかくの貴重なものも食い尽くされて終わりじゃ。なぜこの一帯が不毛な荒野なのかを考えてみるとよい」
「それはたしかに…」
「というわけじゃ。もうええじゃろう。その子を連れて帰れ」
「待ってください。まだあなたが何者かわかっていません。それと、野盗が記憶を失っていた件についても、あなたがやったのではありませんか?」
「さあ、知らんな。もしそれができるのであれば、おぬしたちにもやるとは思わんか? その子にもそうするじゃろう?」
「それはそうですが…なにか怪しいですね」
「うるさいやつめ。そんなんじゃ、すぐに禿げるぞ」
「大きなお世話です」
「あら、立派な書物ね。これは何かしら?」
ファビオが老人に詰め寄っていると、ユーナが机に置いてあった一冊の厚手の本を手にする。
表紙にも美しい絵が描かれ、全体的な装丁の出来からしても値が張るものであることがすぐにわかる。
「あっ、それに触ってはいかん。わしの大切なものじゃからな。といっても触ったところで常人には―――」
「あら? 何か光ったわ」
ユーナの持っていた本が輝き、勝手に開く。
開かれたページには、ローブをまとった『鼠』が描かれていた。
それだけにとどまらず、絵が急に立体的になって【本から飛び出てきた】ではないか。
「ぶはっ! なんで発動しとるんじゃ!!」
これに驚いたのは老人。
紅茶を噴き出して椅子からひっくり返る。
「可愛いネズミさんね。ちょっと大きいから『ラット』かしら』
「それは『モルモット』じゃないですか?」
「そうなの? でも、面倒だからネズミでいいわよね」
キリポがネズミを観察して種類を推測。
大きさはモルモットサイズ、中型の猫くらいだ。
しかし、なぜか後ろ脚だけで立つ二足歩行スタイルで、なおかつローブをすっぽり被って木の杖を持った姿は、典型的な魔法使いをイメージさせる。
「キュッ!」
「この子、可愛いわねー」
そのネズミはユーナを気に入ったのか、彼女の足元にすり寄ってくる。
しかし、それにも老人は大慌て。
「すぐに引っ込めるんじゃ! そいつは危険じゃ!」
「こんなに可愛いのに?」
「こら! 本に戻れ! 命令じゃぞ!」
「キュイッ」
老人の声にネズミはそっぽを向く。
その様子から言語を理解していることがわかるが、何度話しかけられても老人の言葉には反応しない。
「なんで言うことを聞かぬのじゃ! 本当に支配権を奪われておるのか!?」
「せっかく出てきたのですもの。戻すなんてかわいそうじゃない」
「制御が利かぬ『使徒』など危険で仕方ない! 戻してくれ!」
「ははん、なるほど。ユーナ、そのままネズミを持っていてくださいね。絶対に渡しちゃ駄目ですよ」
ファビオが老人の慌てぶりを見て、にやりと笑う。
「お、おぬし! 何を考えておる!」
「どうやら大事なものみたいですね。返してほしかったらすべて白状してください」
「馬鹿者! そいつを放っておいたら危ないんじゃぞ!」
「どう危ないんですか? 事細かに説明してください」
「ぐぬっ…そ、それは…言えぬ」
「ファビオ、この本に書いてあるわよ。このネズミさんは『カナジー・レミンガル〈雲より生まれ既知と消ゆる使徒〉』っていうみたい。能力は『記憶操作』らしいわ」
「犯人、確保ですね」
「違うんじゃ! 話を聞いてくれ!」
その後は少しドタバタしたものの、なんとか落ち着くことに成功。
ネズミは戻したが、本を人質に取って老人から事情を訊くことになった。
よほど大事なものなのか、老人は諦めたように口を開く。
「それはわしの所有物じゃ。記憶操作の件も認める」
「これも術具なのですか?」
「術具よりも厄介な『呪具』、あるいはその上の『魔具』と呼んだほうがいいかもしれんな。どちらにせよ使い方を間違えれば危険な代物じゃよ」
「これを使って記憶操作をしていたのですね。なぜです?」
「ここを知られると困るからじゃ。結界が大きすぎるゆえに、お前さんたちのようにたまにすり抜ける者も出てくるからの。じゃが、それ以外に危害は加えておらぬぞ。記憶操作といっても、そいつができるのは数分から十数分程度の記憶を操作する程度じゃ」
「それでもだいぶ凄いですが…」
老人は森の深部に入ってくる人間に対して記憶操作を行い、追い返すことを繰り返していた。
普段はここから動かないが、稀に結界の誤作動があって迷い込む者も増えたそうだ。
最近になってよそ者の流入が増えたことも影響を及ぼしていると思われるが、一番の原因は違うところにあった。
「大きな結界の制御は難しい。お前さんが五年前に壊したせいじゃぞ。あれの再構築から調子が悪くなった」
「あれはまあ…不可抗力ですよ」
グラス・ギースの結界もそうだが、大きくなればなるほど細かい制御が難しくなり、古くなったり部分的に壊れたりするたびに不具合が出てくる。
実際にグラス・ギースの保護結界も穴だらけで最低限の効果しか発揮していない。それでも大型の魔獣はかろうじて防げるので妥協するしかないのだ。
エメラーダも宝珠の力を借りてようやく張ったくらいなので、彼女よりも能力で劣る老人が維持に苦慮するのは当然といえる。(エメラーダの本業が結界師ではなく錬金術師であることも影響している)
また、もともとは他人が張ったものなので、老人が得意とする術式とは多少系統が違うことも難しい理由だ。
たとえば日本語しか話せない日本人が、日本語ではなく英語で処理をしなければならないといった具合に、系統が違うと管理が一気に大変になる。
それを考えれば、これだけの規模の結界を単独で維持しているほうがすごいといえるだろう。やはり老人は凄腕の術者であった。
「女の子をすぐに帰さなかったのは?」
「人が多いところでこの子だけを結界から出すわけにはいかんし、かといって単独で帰すのも危険じゃ。となれば、そのまま匿うしかなかろう。どうしようか迷っていたところ、おぬしたちが来たのじゃ」
「僕たちの記憶も消すのですか?」
「今言ったように記憶操作の時間は短い。ここまで長く関わったら全部消すのは無理じゃろうな。それ以前に、なぜか本の制御を奪われておるしな」
「五年前の僕たちには記憶操作をしたのです?」
「いいや、その時は本を持っていなかった。突然のことで家に置いてきてしもうたからの。わしも引っ越したばかりで慌ただしかったことも原因じゃ。しかし、困った。この場所が知られたのは本当に痛手じゃ」
「なんでそんなに隠れたがるのです?」
「おぬしは力を持つ者が、いかに狙われるのかを知らぬ。隠れるのは自然のことじゃ」
「それは少し理解できますが…ほかにも事情があるのでは?」
「すまぬが、それは言えぬ。じゃが、けっして悪いことはしておらん」
「うーん…」
「ファビオ、いいじゃない。おじいさんは子供を助けてくれたのよ。悪い人じゃないわ。この場所のことだって私たちが黙っていればいいんでしょ。簡単なことよ」
「それはそうですが…」
「ファビオ、すごいですよ! こんなにたくさんの本があります!」
ユーナの提案に迷っていると、キリポがたくさんの本を抱えてやってきた。
その顔は知的好奇心が刺激されて激しく興奮している。
「僕はこれらの本が読めれば、なんでもいいですよ! 複製すれば村の発展にも寄与できます! 敵対するよりも友好的な関係を築きましょう!」
「キリポまで…。おじいさん、せめて名前は教えてください」
「タイスケじゃ。外では絶対に言うでないぞ」
(日本人みたいな名前だ。この世界にもたまにそういう名前の人がいるけど、日本との関係性はあるのだろうか? 文字だって普通に平仮名や和製漢字に片仮名まで使っているし)
アンシュラオンもハローワークやその他の出来事から、この世界が日本の風習によって構築されていることに気づいた。
ファビオも転生者ならではの知識から薄々とそれに気づく。
だが、目の前の老人は転生者ではないはずだ。確証はないが、なんとなくそんな気がした。
「タイスケおじいちゃんね。了解したわ。それと、私たちがここに自由に来られるようにしてね。あと、狼さんたちにも攻撃しないように伝えておいてくれる? その代わり、足りない生活物資があったら私たちが持ってくるわ」
「要求が多いのぉ。じゃが仕方ない、条件を呑もう」
「交渉成立! これからもよろしくね! 大丈夫よ、この本のことも秘密にするわ。むしろ、おじいさんが持っていたほうが安心だもの」
ユーナがタイスケの膝に、ぽんとさきほどの本を乗せると、女の子の手を握って入口の扉に向かう。
「そろそろ帰りましょう。みんなも心配しているわ」
「ユーナ、受け入れるのがいろいろと早すぎます」
「べつにいいじゃない。森にはやっぱり神様がいたってことでしょう?」
「世界樹のことです?」
「そうよ、立派な神様じゃない。みんなに言えないのは残念だけど、それがわかっただけでも十分よ。あとは改めて森の奥を『禁足地』に認定すればいいわ。巫女の私が言うのですもの。それでなんとかなるわよ」
「………」
(仮に世界樹が神様だとしても、どうしてユーナがその力を使えるのかは謎のままだ。タイスケさんに訊いても答えてくれそうにない…というか、知らない感じかな)
本の制御をユーナに奪われて動揺していたくらいだ。ユーナと出会うことも初めての彼が、そこまで深い事情を知っているかは微妙である。
結局、ファンジーを早急に送り届ける都合上、ここでのことは内密という話で落ち着いた。
ファンジーにも口止めはしておいたが、仮に何かを口走ったとしても信じる大人のほうが少ないだろう。
彼女も『意識不明で見つかった』ことにしておくので、夢を見ていたという話で終わるに違いない。
収穫としては、タイスケとの繋がりが生まれたことで新たな知識を得られたことだ。
彼が持っていた書物は専門書を含めて貴重なものばかり。西大陸や東大陸の成り立ちや情勢だけではなく、北大陸諸島や南大陸で昔あった戦いの歴史等々、さまざまな知識を得られた。
当然ながら歴史書だけではなく、一般生活に必要な技術や薬剤の本もあったため、それによってますます村が発展していくのであった。




