525話 「ディノ」
ある日の午後。
発明小屋に見知らぬ男がやってきた。
「おい、お前がファビオか」
男はノックもせずに扉を開けて、こちらを睨んでくる。
顔はまだ若いが身体は大きく、高校生くらいの年齢に見えた。
そんな青年にいきなり睨まれてしまえば、九歳の子供ならば震えてしまうところだが、そこはファビオもたいしたもの。
落ち着いた様子で対応し、じっと男を観察する。
前世での遊説で宗教批判をしていた頃などは、信者がすれ違いざまにいきなり斬りかかってきたこともあるし、銃をぶっ放してきたこともある。
それと比べれば、これくらいは日常茶飯事だ。
「うーん、知らない顔ですね。誰です?」
「俺様はディノだ!」
「そうなんですね。初めまして。仕事の依頼ですか?」
「違う」
「では、さようなら。扉は閉めていってくださいね」
「反応が淡泊すぎるだろう! もっとほかにないのか!」
「いや、初対面なんで。逆にどうやって会ってすぐに内面を知るのです? 僕はエスパーじゃないんですけど?」
「なんだこいつ! とっつきにくいぞ! しかもちょっとイラつく言い方だし!」
「そっちこそいきなりやってきて、その態度はどうかと思いますが。というか、お父さんなら森に行ってますよ」
「…お父さん? 一応訊いておくが、俺のことは何歳だと思っている?」
「え? 十八歳くらいですか? それとも二十過ぎてます?」
「ちげーよ! お前と同じ九歳だ!」
「HAHAHA! ご冗談を」
「なんだその笑い方!? ムカつくな!」
せっかくなのでアメリカンスタイルを披露してみたが、お気に召さないらしい。
贅沢な男である。
「本当に同い年なんですか? 偽ってません? 詐称するにしても無理がありますって」
「逆になんで俺を知らないんだ! こんなに目立つのに!」
「自意識過剰ですね。意外と皆、他人のことなんて見ていないですよ。そもそも本当に有名でも、需要がなくなったら捨てられる一過性のものにすぎません。そんなものにすがるなんて哀れですね」
「達観しすぎだろう!? お前こそ本当に九歳か!?」
ということで、何度も確認したところ本当にファビオと同じ九歳らしい。
体格が非常に良く顔付きもゴツいので、二回り以上は年上に見られてしまうタイプだと思われる。
もし地球だったならば、小学生なのに止められて大人料金を請求される姿が容易に想像できてしまう。
あるいは高校生なのに「お仕事、お疲れ様です」と、三十代に見られるタイプだろうか。
唯一のメリットは堂々とエロ本が買えるくらいだが、どちらにしても地獄である。
「あなたも苦労しているんですね…」
「勝手に想像して同情するな!」
「で、棍棒がいいですか? それとも槍? 大剣も作れますよ」
「なんで武器の話になってんだよ!」
「え? 違うんですか!? それ以外にあなたの存在価値なんてあります?」
「見た目だけで全部判断してんだろう! というか、なんで普通の武器まであるんだ?」
「最近は野盗も増えまして、そういう依頼が多いのです。子供に武器を作らせるなんて大人って怖いですよね。あっ、非殺傷型ならこちらの電気槍二号もお勧めですよ。人相手にも効果は実証済みです。先日も一人仕留めましたので」
「平然と人に試すお前のほうが怖いわ!」
「僕も好きで作っているわけではないですが、守るためには力も必要なのです。まあ、ほとんどは興味本位の実験ですけども」
ファビオはあくまで道具の発明がメインなので武器屋ではない。
武器類に関しては村に専門店があり、レベルが低いながらも金属装備が置いてあるところは、さすが南部であろうか。
それらは行商人から買い取ったり、村にやってきた鍛冶師が森で採れる材料から打ったりしているものが大半だ。
が、術符や魔石はやはり貴重で、それを扱える錬金術師もテンペランターもいないので術式武具は作れない。
通常の武器では十数人程度の野盗ならばなんとかなるが、五十人を超える中規模以上の盗賊団といった相手には分が悪い。
実際に一年ほど前、大勢の野盗が村にやってきたことがあり、何人もの犠牲者を出す大きな事件に発展した。
その際は数の力で対抗したが、強力な武人でもいない限りは無傷で撃退など不可能だ。
そこで注目されたのがファビオである。
彼が生み出すものは、まさに術具と同じ。それを組み合わせることで術式武具の類似品が作れないかと相談が来たわけだ。(すでに電気槍を作っていた実績がある)
あまり他者を殺傷するものに興味がなかったファビオだったが、たしかに治安を守るためには武器も必要だと納得して協力することになった。
そうした事情もあって小屋には大人の男もやってくるので、ディノもその一人だと勘違いしたわけだ。
「で、何か用です?」
「今度こそちゃんと聞けよ! 俺はディノ・ジェンロだ。村でガキ大将をやっている!」
「あっ、自分で言っちゃう感じなんですね。ガキ大将ってマイナスのイメージのほうが強い気がしますが、それってステータスになります? むしろ恥では?」
「いちいちうるさいやつだな!」
「話すのが好きなもので。用事があるなら簡潔にどうぞ」
「お前も俺様の子分になれ!」
「いいです」
「え? いいのか?」
「あっ、拒否のほうの『いい』です。日本語って難しいですね」
「こいつ!! ふざけてんのか! だったら俺と勝負しろ!」
「えい!!」
「ぎゃーー!! いきなり槍で刺そうとしやがったな! なんてやつだ!」
「勝負って言いましたよね?」
「何の勝負かは言ってないだろう!」
「こういうのは、だいたい喧嘩じゃないんですか?」
「槍の段階で喧嘩の範疇を超えてるだろう!? 殺す気か!」
「大丈夫。さっき言ったように電撃で気を失う程度です。頭から落ちたら後遺症が残るかもしれませんけど、それって不可抗力ですよね」
「こわっ! それがわかっていてやるのが怖ぇよ!」
「忙しいのでそろそろ帰ってもらえます? 僕も暇じゃないんで」
「いいから外に出ろ!」
「悪霊退散!」
「ぎゃーーー! 覚えてろー!」
とりあえず槍で突いて撃退に成功。
が、翌日の午後にまた来た。
「なんですか。営業妨害ですか。本当に刺しますよ」
「なんでイラついてんだ!? まだ何もしてないぞ!」
「なぜか毎日パンツを見せに来る女の子がいるので」
「パンツ!? 普通は喜ぶだろう!?」
「見たくもないものを見せられるのは不愉快です。それを言葉で伝えても逆にムキになって見せてくるのです。怖ろしい世の中になったものです。世界の終わりかもしれません」
「お前のほうが怖ろしいわ! というか、ユーナに手を出すな!」
「知り合いです?」
「もちろんだ。村で一番可愛い子だからな」
「へー、そうなんですね。ホジホジ」
「もっと興味を持とうぜ!? 何が不満だ!」
「うちのお母さんが美人ですし。もう見慣れているっていうか、むしろお母さんのパンツのほうが見たいです」
「大丈夫か!? 気をしっかり持て!」
「自分を一番愛してくれる母親を愛するのは当然のことでしょう? それとも僕のお母さんのパンツには価値がないとでも?」
「い、いや、そういうわけじゃないが…思っていたのと違うな。だんだん心配になってきたぞ」
「勝手に心配しないでください。僕は母親が大好きなだけです」
目がマジである。
思い起こせば母に対して異様な熱情を持っていたので、世間一般では『マザコン』と呼ばれる部類なのかもしれない。
が、自身を産んでくれた母に愛情を抱くのは自然なことでもある。
それが美人ならば初恋の人になってもおかしくはないし、仮に娘ならば同じく異性の父親に愛情を抱くものだ。
「で、今日は何の用です?」
「今日こそちゃんと勝負するぞ!」
「勝負しないと毎日来るんですよね? わかってますよ。じゃあ、勝負しますから僕が勝ったらもう来ないでくださいね」
「安心しろ! 俺が勝つのは決まっている!」
「なんで自信満々なのです?」
「俺がディノ・ジェンロだからだ!」
なかなかの希少種が現れたものだ。奇行種と呼んでもよいかもしれない。
が、毎日パンツを見せに来るほうがよほどの奇行なので、彼はまだまだレベルが低いのだろう。
仕方ないので外に出て勝負に付き合うことにする。
「ハンデをくれてやる! 大工勝負でどうだ!」
「人手もないですし、たいしたことはできないですよ」
「じゃあ、どっちがより多くの木を切れるかで勝負だ! お前の親父さんは木こりなんだろう?」
「それでいいならかまいませんが、勝手に木を切ったら怒られますから、お父さんたちに訊いてからにしましょう」
「ま、真面目だな」
「そりゃ大切な資源ですからね。無駄にはできません」
二人は木こりの仕事に出ているマテオのところに向かい、事情を説明する。
きっと駄目だろうと思っていたが―――
「おう! 友達か! あっちなら好きにしていいぞ!」
「お父さん、彼は友達じゃないです」
「出会ったらもう友達だ! 行ってこい!」
と、なぜか即答で許可が出る。しかも友達認定までされてしまった。
悔しい。恥辱の極みである。
某楽曲で「二回会ったら友達なんて嘘はやめてね」みたいな歌詞があったが、脳筋の父はガン無視である。
「こんな人、友達じゃないのに」
「お前! もうちょっと言葉には気を遣えよ! 傷つくだろうが!」
「ガキ大将のくせに小さなことにこだわりますね。では、ここの木を伐採するのでよろしくお願いします。お父さんの話では薪にするらしいので、雑に切ってもいいらしいです」
「よーし、やるぞー!」
ディノはその体格の良さから豪快に斧を振り回し、ガンガンと幹を削っていく。
「見た目通りの腕力と体力ですね」
「どうだ、すごいだろう」
「はい、すごいです」
と言いつつ、ファビオはノコギリを取り出して幹に押し付ける。
「なんだ? ちまちま削る気か? 日が暮れちまうぞ」
「大丈夫です。『電動』ですから」
ファビオのノコギリが回転を始め、小気味よい振動音とともに幹を削っていく。
斧は斧で便利な道具だが、当然ながら『チェンソー』のほうが早い。あっという間に木が傾いていく。
ちなみに電動と言っているが、風と雷の属性反発を利用したタイプなので電力は必要としない。
しかもファビオ製のものはエネルギーが尽きても、放っておくと回復する性質があるため、通常のチェンソーより何倍も優れている代物だ。
これらはマテオ組にも提供しているもので、なかなかの好評を博している人気商品である。
「あっ、そっちに倒れますよ」
「うわっ! ずるいぞ、ファビオ! そんなものを使って!」
「道具は同じものっていう条件はなかったですよね?」
「普通は同じもので勝負するんだ!」
「でも、そもそも体格が違いますし、その段階で僕はハンデを背負っています」
「そのために勝負の方法をお前に合わせたんだろうが!」
「僕は木こりじゃないんで。どっちにしろ釣り合いませんよ」
「ああ言えばこう言う! なんだお前は!」
「人を言い負かすのは得意なんです。女性には通じませんが…」
結果、当然ながらファビオが勝利を収める。
しかし、即座にクレームが入った。
「今日は負けた! だが、次は勝つ!」
「勝負は一回じゃないんですか?」
「誰も一回なんて言ってない!」
「たしかにそうですね」
「へへっ、今度はこっちが言い負かしてやったぜ! じゃあ、また明日な!」
と浮かれていたディノは、次の日は落とし穴にはまって来られなかった。
事前に彼が通る道を想定して穴を掘っておいたのだ。特別に三十メートルほどの深さにしておいたので、這い上がるだけで活動限界を迎えたらしい。
だが、懲りずにまた次の日にやって来た。
「ファビオ、やりやがったな! 汚い手を使いやがって!」
「また来たんですか? やっぱり槍で突いたほうがよかったかな」
「うるさい、勝負だ!」
こうして何度も勝負を繰り広げることになるが、だいたいはファビオが勝つことになる。
ただ、ディノがファビオより優れていたのが森での動きであった。
彼は危険を察知する能力も高く、魔獣を見つけると風下に回って上手く逃げていた。
「すごいですね。唯一の取り柄じゃないですか」
「唯一とか言うな! 俺の父親は『レンジャー』だからな。森の中は得意なんだ」
「あー、ハンターのジェンロさん。苗字が同じですね」
「いまさら気づいたのかよ! ほんと、お前ってなんかおかしいよな」
「そうやってレッテル貼りをするのはよくないですよ。悪質な印象操作です」
「小難しいことばかり言いやがる。へっ、だんだんお前ってやつがわかってきたぜ」
「そうですか? 僕はあなたのことがよくわかりませんが」
「ディノだ。ちゃんと名前で呼びやがれ」
「はいはい、わかりましたよ」
なんだかんだいってファビオも、ユーナやディノと付き合うにつれて外に出るのが嫌ではなくなっていた。
べつに引き篭もりだったわけでもなく、クラフト作業に夢中になっていただけだが、さすがにそればかりでは飽きることに気づいたのだ。
(外に出て刺激を受ける。それだけでアイデアが生まれるし、実際に生活する人にとって何が必要なのかを知ることもできる。盲点だった)
父親の仕事を手伝っているディノの動きは、ハンター目線ゆえに新しい発見も多い。
どんな魔獣がいて、どこに罠を仕掛けたらよいのか、どんな罠が有効なのかも知ることができる。
ハンターにとって何が必要なのかを知ることで、作る道具もさらに進化するに違いない。
また、ディノは村の他の子供たちとは違い、力強く明瞭で自分からガンガンいくタイプだ。それが内向的なファビオと上手く噛み合う。
これによってファビオは、初めての『男友達』を手にすることができた。
しかし今回、森にやってきたのは違う理由からであった。
「それでディノ、今日はどうするのです?」
「変なやつがいるって話、聞いてるか?」
「なんですそれ?」
「最近になって森のほうで『不審者』が何度か目撃されているんだ。村では噂になっているぜ」
「また流れ着いた人です?」
「それなら村のほうに行くだろう?」
「たしかに。このあたりは自給自足が可能とはいえ、やはり村と関わらないと生きるのに不便ですからね」
「俺たちでそいつを見つけてやるのさ。どうだ、面白そうだろう?」
「大丈夫です? もし野盗の類だったら危険ですよ」
「そんなやつが野放しでいるほうが危ないじゃないか」
「それも一理ありますが…我々はまだ子供ですし」
「俺とお前がいればやれるさ」
「どうせ言い出したら聞かないですからね。わかりましたよ。その代わり、ちゃんと武器だけは持ってくださいね」
森に赴く際は必ず自衛用の武具を持っていくので、ディノにはククリナイフに似た形状のショートソードを渡す。
これは藪や木枝を払うのにも使えるし、風の機構を利用して威力を向上してあるので魔獣相手にも十分通用するものだ。
「ファビオは何を使うんだ?」
「僕は弓矢ですね。もし敵だったら、ディノが囮になっている間に後方から撃ちます」
「お前ってやつは…」
「これが役割分担というものです」
こちらもクラフト能力で強化した弓で、貫通力はそこらの銃弾を遥かに凌駕するうえ、発射音も静かなので森の中では非常に有用な武器だ。
もともとディノの父親が狩りをするために作った武器だが、試作品を自分用に改良してみたのだ。
そのほかに『物理耐性』と『銃耐性』のある迷彩柄のジャケットを着込めば、もはやいっぱしのレンジャーである。(ディノにも同じものを渡す)
「お前、すごいな。本当にいろいろと作ってるんだな」
「道具は使い手次第ですけどね。ディノなら使いこなせますよ」
「よし、準備万端だ! 村の安全は俺らが守るぞ!」
二人はさっそく探索を開始。
村に近い森の浅部では『ピッタースキュット〈森蝕栗鼠〉』というリス型魔獣や、畑を荒らすことで迷惑がられる『クリッジボア〈倒木猪〉』が多く見られる。
前者は第八階級の無害級のリスであり、さまざまな木の実を食べ歩くことで種を撒き散らし、それによって樹木が森の至る所に芽吹くことを助けている。
後者の猪はたまに人里の畑を荒らすものの、腐った木の幹をかじったり、枯れ木を体当たりで倒して森を整地する役割を担っている。
その倒れた木々には虫や菌類が群がり、再び大地の循環を促すだろう。このように世の中のすべての生物には役割がある。
魔獣も偉大なる黒狼が生み出した存在なのだから、自然界にとっては必要不可欠な存在といえる。
(このあたりの魔獣は地球の動物と大差ない。それでも僕にとっては新鮮に感じられる。これが生命力というものなのだろうか)
こうした魔獣は森の益になるので見つけたとしても倒すことはない。刺激しないように迂回すれば何事もなくやり過ごせる。
アンシュラオンがいる北部では魔獣が脅威になっているが、南部に向かうほど魔獣は弱くなっていく傾向にある。
ニューロードのように荒廃して人が少ない場所でさえ、魔獣の数は多くなかった。
(そういえば魔獣の分布図を書いた本もあった。強力な魔獣の大半が火怨山という、ずっと北の大きな山脈に集まっているそうだ。考えてみれば、それも不思議な話だ)
伝説級の魔獣がすべて陸地で繋がる火怨山に集まるのもおかしな話である。まるで意図的に隔離したかのようにも感じられる。
逆にそこ以外では魔獣が一度絶滅したかのごとく、一気に弱くなっていることも不可思議だ。
(まあ、ここで暮らす僕たちにとってはありがたい話だ。彼らは時に食糧になることもあるし、一緒に森を維持する仲間でもある。これが自然との共存なんだ)
自然を敵にすれば自らに災いをもたらす。それは翠清山を見てもよくわかるだろう。
その点、十三番区は森との共生を目指していた。お互いに敵対する理由がないことも要因だが、森があってこその繁栄だと理解しているからだ。
改めて森の恩恵に感謝しつつ、ディノの後ろをついていく。
特に何事もなく一時間ほど歩くと、目撃証言があった場所に到着。
そこは村からだいぶ離れた森の奥に続く入口で、緑もより一層深く、滅多に人が来ないようなところだった。
不審者を目撃したのは、たまたま山菜を採りに来ていた村人だったそうだが、この先に入っていったことだけは間違いないらしい。
「ここから先はお父さんたちも入らない森の深部です。子供だけで入るのは危険です」
「見ろ、わずかだが草を踏み分けた跡が残っているぜ! これを辿れば見つけられるかもしれないぞ! へへ、レンジャーの息子をなめるなよ!」
「全然聞いていないですね」
追跡に夢中なディノは、ズカズカと躊躇なく奥に入っていく。
その勇気だけは称賛に値するが、一気に危険度が増すのも事実だ。
この北の森の広さは推定で直径八十キロ。アンシュラオンたちが進んだ翠清山の麓の森くらいの面積はある。
浅部はまだいいが中央の深部は常に薄暗く、魔獣の狩場の奥地で見られる大自然に近い環境だ。
大人たちからも深部には絶対入らないようにと言われていることから、危ない魔獣も出ることが推測できる。
(さすがに危険だな。何かあったらすぐに撤退できるように準備だけはしておこう)
童話ではないが、通り道にある木の幹にうっすらと光るインクを塗って迷わないようにしておく。
そして、足を踏み入れて間もなく動物の骨を発見。
こびりついている毛から、さきほど見かけたクリッジボアである可能性が高い。
「肉食獣がいます。気をつけてください」
「お、おう」
ディノも食い荒らされた骨を間近で見たことで危機感を抱いたのだろう。わずかながら足が鈍る。
食物連鎖を考えれば、その頂点は『捕食者』であってしかるべきだ。
クリッジボアは大人であっても駆除に苦慮する魔獣である。それを狩って食い殺すだけの力がある段階で、子供にとっては危険な相手であることは明白だった。
(やはり戻ったほうがよいかもしれない。仮にお腹が空いていなくてもテリトリーに入ってしまえば僕たちは敵対者だ。魔獣は人間と同じくらい領分にはこだわる)
進めば進むほど森は色合いを濃くしていき、太陽の光さえも完全に遮るようになる。
翠清山と比べれば遥かにましなレベルとはいえ、人間に二面性があるように森の裏の顔が少しずつ表れていく。
ここは人が暮らす場所ではない。立ち去れ。
そう言われているようで緊張感で胸がぎゅっと締め付けられる。
その時。
後方からガサガサという音が響いた。
ぱっと振り向くが、茂みからは何の反応もない。
「ふー、驚かせやがって」
ディノは安堵して緊張の糸を解く。
が、風もないところで茂みが勝手に揺れるわけもない。
「ディノ、下がって!」
咄嗟に危険を察知したファビオが、矢を茂みに撃ち込む。
矢は音もなく突き進み、その先にいた何かに突き刺さった。
直後、『ソレ』が茂みから立ち上がる。
「ゴフーッ! フーー!」
全長五メートルの身体に鋭い牙と爪を持ち、長毛犬のごとき黒くて長い体毛は常に湿っていてべちょべちょ。
血走った目は今に始まったことではなく、何かしら動くものを見つけたら攻撃せずにはいられない狂暴な性格。
ファビオの矢は肩口にまでずっぷりと突き刺さっているが、血は出ていない。その肉厚な脂肪と筋肉によって防がれてしまっていた。
「熊…いや、ヒグマ!?」
立ち上がった魔獣の大きさに驚き、ファビオも一歩退く。
その姿は熊の中でもより狂暴なヒグマに酷似しており、圧倒的な質量は子供から見ればまるで巨大な岩石に見えた。
「ヤバい! 『ハーデン・ベア〈湿毛羆〉』だ!」
「なんですそれ!」
「森で一番出会っちゃいけないやつだよ! 父さんから聞いたんだ! 手当たり次第に襲う森の暴れん坊だって!」
「そういうのがいるなら最初から教えてください!」
「村の常識だぞ!」
その常識を知らないファビオからすれば、ヒグマとの遭遇は肝を冷やすものだった。
唯一の幸いとして、この魔獣は翠清山にいた根絶級の『レザダッガ・ベア〈人喰地猟穴熊〉』や『グスマータ・デビル〈岩掘悪熊〉』とは違い、階級的には一つ低い第五級の抹殺級であることだ。
ただし、その評価は単独で動くゆえに低いだけで、個の能力はそれに準ずる化け物である。
少なくとも武人ではない両名が簡単に太刀打ちできる相手ではない。