521話 「死と炎」
大勢の群衆が叫び、喚き、暴れ狂う中で、動きを失ったいくつもの塊が落ちている。
その中の一つは『男』がよく見知ったもの。
すでに用済みとなった『もう一人の自分』だった。
(そうか、死んだのか)
男は、無感情の中でそれだけを思った。
落ちている『肉体』は、大勢の群衆に踏みつけられて少しずつ形を変えていくが、それ自体にさして興味は湧かなかった。
他の者たちも死体には興味がなく、ただひたすらに前に向かって突き進もうとしている。彼らにとって死は怖れるものではないからだ。
しかし、おそらくは失敗に終わるだろう。
すでに『革命』は大部分が鎮圧され、帝国軍が出動した今となっては勝ち目はない。
所詮は一般大衆であり烏合の衆。そもそも最初から無理のある戦いだった。
それ以前に大半の者たちは、こうして霊体だけとなった自分にさえ気づかない愚者ばかりだ。
(滅びればいい。『思想』を金儲けの道具として使う愚か者たち。この日本に巣食う癌細胞どもめ)
男が唯一満足していたのは、政治に蔓延っていた『宗教組織の一つ』を排除できたことだ。
この革命を本気で信じている者たちには悪いが、最初からそれが目的だったのである。男がそうなるように『デザイン』したのだから間違いない。
また、愚かなのは宗教組織だけではない。
安易に革命という言葉に流され、たいして考えもせずに外国組織に扇動された者たちも同様に愚かである。
いわばこれは、愚者と愚者の争い。
互いに潰し合わせることが目的の戦いであった。
しばらくその様子を観察していた男であったが、そろそろ飽きてきた頃。
「満足したかい?」
ふと背後から声をかけられた。
振り返ると、そこには黒髪の女がいた。
年齢は二十代半ば程度で顔立ちも悪くはないが、黒くて長いボサボサの髪に太いフレームの丸眼鏡をかけているせいか、やたらと陰鬱な印象を受ける。
男は最初、それが自分に向けられた言葉であるかの確証がなかった。
この場にいる者たちは誰一人として男の姿が見えていない。この女も違う者に声をかけたのかと思っていた。
しかし、女は再び、今度は強い意思をもってこちらに声をかけてきた。
「キミだよ、キミ。ほかに誰がいるの?」
「………」
「不審がっているね。それもそうかな。こんな場所でこんなやつが声をかけたら誰だっておかしく見える。どう考えても場違いだ」
群衆の中には女もいるが、そのどれもが血走った眼をして武器を振り回している。
器量の良し悪しにかかわらず、もはや女とは呼べない生き物と化しているのだから、なおさら目の前の女の冷静さが際立っていた。
女は群衆を眺めながら小馬鹿にするように笑う。
「まったくもって群衆って馬鹿だよねぇ。全部操られているとも知らずにさ。キミもそう思うだろう? まあ、キミがそうさせたんだから、多少なりとも罪悪感はあるのかな?」
「………」
「少しはしゃべってくれてもいいんじゃない? ああ、もう『霊体』だからわざわざ口を開く必要もないよ。どうせ考えていることは筒抜けだからさ。ちなみにボクのほうが格上だから抵抗しても無駄だよ」
人間の記憶や思考領域は肉体の脳にあるわけではない。あれはあくまで地上での表現器官にすぎない。
実際は霊体側のオーラに蜘蛛の巣状に張り巡らされており、特に防ごうとしなければ相手からは容易に接触されてしまう。
仮に防御しても相手の霊格が上ならば無駄な抵抗に終わるだろう。
その言葉を証明するように、女は男の感情だけではなく『記憶』すら読んでいた。
「キミは『宗教』を信じていた。妄信と言ってもいい。それが『反転アンチ』になって革命まで起こすとは、なかなかに面白いことをするよね。いくら群衆が愚かだといっても、これだけの人間を争いに掻き立てるなんて、そうそうできることじゃない。しかも全員を犠牲にして目的を達成するためだけの道具にしたんだ。たいしたものだよ」
「…お前は誰だ?」
「アハハハ! ようやく意思を解放してくれたね。嬉しいよ!」
「………」
「ふふ、また黙っちゃった。でも、キミだってここにずっといても意味がないことはわかっているよね? 墓の前でラッパでも吹いて復活の日を待つかい? それともお経でも唱えて空気を振動させてみる? もしかしたら金メッキの大仏様になれるかもよ?」
「………」
「そう怒らないでよ。ちょっとしたジョークじゃないか。意外と短気なんだなぁ」
男の感情に苛立ちが混ざったのを見て取った女が、肩をすくめる。
たったこれだけの会話からも目の前の存在の本質がよくわかるだろう。
ただし、それが『わかる者』と『わからない者』がいるから困っているのだ。両者はわかる者であり、ここにいるそれ以外は後者である。
だが、両者はけっして『同類』ではない。
男は女を訝しげに睨みつける。
「何の用だ? 指導霊には見えないが」
「『指導霊だったら嫌だな』が正確な表現だろう? 安心しなよ。ボクはキミの指導霊じゃないし守護霊でもない。そっちの『類魂』とは何の関係性もない霊魂の一つさ」
「ならば消えろ」
「まあまあ、待ってよ。ちゃんとキミの霊団から許可は得ているんだ。そうじゃないと『地球圏霊界』には簡単に干渉できないからね」
「………」
「うんうん、わかるよ。怪しいよね。そりゃそうだ。わざとそうしているんだからさ。おっと、そう睨みつけないでよ。なんかやりにくいなぁ。とても真面目なんだねキミは」
「さっさと用件を言え」
「キミを『スカウト』しに来たんだ」
「………」
「意味をはかりかねているね。キミも薄々は勘づいているだろうけど、この宇宙はとても広い。各惑星に『人間』が住んでいて、それぞれの霊界で成長を続けている。でも、この事実を知っている者は、この星にはほとんどいない。せいぜい宇宙人くらいの認識しかないだろうね」
「お前は他の惑星から来たのか?」
「少しは興味を抱いてくれたようで安心したよ。ただ、説明するには、ここはうるさい。上に行こうか」
女が手を伸ばす。
握れという意味なのだろうが、男は気分が乗らずに自身の手は伸ばさなかった。
それを見て女が笑う。
「はは、嫌われちゃったね。まあでも、握らなくてもいいんだけどさ」
地面が光って『粒子のエレベーター』が生まれると、それに乗って二人は空に移動していく。
やはり人を小馬鹿にした態度が鼻につく。
これが自身よりも格上だというのだから、世の中は理不尽だと改めて痛感するものだ。
二人が大気圏にまで上昇し、地球の姿が地球儀の様相に変化。
もし自分が宇宙飛行士ならば、あまりの美しさに感嘆して『地球はやはり青かった』とでも言い残すかもしれない。
「ボクだったら、地球はやはり愚かだった、と言い残すだろうね」
勝手に他人の思考を読み取る女は、さも得意げに言う。
その態度に辟易しながらも男は次の言葉を待った。
すでに自分は死んだ身。相手のほうが精通している以上は、様子をうかがったほうが得策だからだ。そのあたりからも男が思慮深い魂であることがわかる。
女は男が落ち着いた頃を見計らい、話を切り出す。
「ボクの本体は、すでにここにはいない。今キミと話しているボクは分霊といった存在に近しいものだ。いわば本体の『影』だね。こうしてスカウト用に残しているってだけの話さ」
「何者だ? 知能は高いようだが高級霊には見えない」
「だろうね。高等な存在ではないから当然さ。知識と霊格は必ずしも比例するわけじゃないし、ボク自身に他者への愛情なんてものは欠片もありはしない。でもさ、なんでもかんでも他者を愛せる存在なんて、逆に嫌だと思わない?」
「愛こそ生命の本質だ。それができるからこそ高級神霊なのだろう」
「あーあ、キミも愛の全肯定派? 気味が悪いね」
「お前のような厭世ぶった皮肉屋よりはましだ」
「あははは、それもそうだね。ただ、これでもボクは楽天的なほうなんだけどね。明るい皮肉屋なんて面白そうでしょ?」
「………」
「はいはい、無駄口はやめますよ。ほんと、キミはつまらない男だね。ボクの『想い人』とは大違いだ。…あっ、今とても失礼なことを思ったでしょ? ボクに想われるなんて災難だとかさ」
「違うのか?」
「違わないかもね。それでもボクは愛し続けるけど。で、肝心の用件だけど、キミには違う星で再生してもらいたいんだ。再生は知っているかな? いわゆる転生のことで―――」
「断る」
「なぜだい? もちろん準備期間は設けるよ。キミが知りたかったことをいろいろと教えてあげる。霊界には興味があるだろう?」
男は死後の世界に興味があった。
そもそも興味がなければ宗教になど関わらなかっただろう。
ただし、地球にあるすべての宗教は死後の世界について『無知』だった。
墓を作って霊を閉じ込め、あまつさえ「あの人は死んでしまった。もういない」と嘆く。
実際はその隣に本質である霊体がいるにもかかわらず、それすら見ることができない体たらくだ。
霊界は心情や信条で生まれるものではない。明確な道理と物質性によって成り立つ現実世界の一つである。
「お前は言ったな、人は愚かだと。それが答えだ」
「人に絶望しているんだね。でも、希望も抱いている。そうでなければ癌細胞の切除なんて考えもしないはずだ。そうだ、せっかくだから彼らの末路を見に行くかい?」
「どのみち地獄だ」
「それはそうだけど地獄にも種類がある。彼らが生み出す世界は滑稽で笑えるよ」
「………」
興味があったことは否めない。
相変わらず胡散臭い女だと思いつつ、その提案には乗ってついていく。
女とともに地球に降下を始めると世界が一瞬で姿を変えた。
青かったはずの地球が、今度は『黒く変色』している。
もし宇宙飛行士がこれを見たら妙に納得してしまうだろう。そして、女が言っていたことが事実だと知るに違いない。
偽善や差別、貧困と暴力に満ちた地球が青いなど、まさにお笑い種だからだ。
要するに、これが『霊的な眼で見た本当の地球の姿』なのだ。
「世界はそれぞれの振動数によって出来ている。同じ振動数の物質がぶつかることで初めて感触として実感できるんだ。今までキミがいたあの世界は、いわゆる地上の第七階層と呼ばれる場所だね。キミにとっては地獄のような世界だっただろうけど、あれでもまだましなほうなのさ」
「やはり霊界は宇宙にあるのか?」
「端的に言えばそうだね。霊界は宇宙に向かえば向かうほど広く大きく、それを構成する振動数も精妙になっていく。世間一般で天国と呼ばれるところも上にある。しかし逆に、地球という物質世界に引かれれば引かれるほど、振動は鈍重になって感性も鈍くなっていく。でもそれは、『ちゃんとした意図』があってそうなっていることだ」
人間が肉体をもって暮らす世界は、より物質性が高い世界、言い換えれば振動数が少ない世界である。
この地上部分は七つの階層で構成されているといわれ、我々が普段暮らしている世界は、その中でも最上位の階層である。
女が言うように、これには明確な意図がある。
地上世界は肉体という殻に閉じ込められた霊が、一つの魂として成長していくために作られた世界なのだ。
あえて両手足に重しを付けることで筋力を鍛え、鈍重がゆえに思考や反射神経も鍛えることができる。なんでもかんでも快適では努力をする意味がないからだ。
しかしながら多くの魂は自らの脆弱性により、さまざまな欲望に呑み込まれ、悪事を働いて地に堕ちる。
どんな言い訳も霊の世界では通用しない。当事者の霊体にすべての記録が詰まっているからだ。
そういった魂の行き着く場所がいわゆる【地獄】であるが、それにもさまざまな様相があった。
「霊的宇宙は無限だ。霊に制限はなく、物質にだってそれなりの段階がある。忘れてはいけないのは【地上もまた霊界の一部】だってことさ。誰かが言っていたけど『地球に魂を引かれた者たち』というのは、なかなか的を得た表現だと思わないかい?」
地球圏に引かれれば引かれるほど人は真なる霊界から遠ざかり、その物質性から逃れられなくなる。
その末路の一つが、男の前に広がる。
宗教に囚われた者たちは死後もいまだに囚われ続けており、祈りを捧げたり金ピカの偶像を崇めたり、墓の前で立ち尽くしたりしていた。
それだけならばよいのだが、彼らの『思想』が集まり、凝り固まることで一つの『地獄』を形成しているではないか。
それが障壁となって『守護神の使者』たちは近寄れず、彼らはひたすら自らの世界に閉じこもって出てこない。
「彼らはあのままずっとあそこにいるつもりだ。盲目がゆえに何も見えず、無知がゆえに考えず、愚直なまでに誰かが作った『詐欺』に騙され続ける。あはははは、馬鹿だよねー! 笑えるよ!」
「………」
「あれ? キミは笑ってくれないのかな? それとも、もっと苦しい地獄を味わってほしかった? でもね、あれもれっきとした地獄なのさ。だって、彼らは本当の幸せを知らずに、いつまでも苦しい物質に近い世界で悩み続けるのだからね」
霊に限界がないのならば、幸せにも限界がないことになる。
地上では物質性に満たされることで最低限の幸せを享受できるが、高尚になればより精神的な充足を求めるだろう。
人生を愛や勇気や道義で生きた立派な霊たちは、上の世界に行ってそうした快楽を享受できる。その資格があるからだ。
しかし、それでもまだ終わりではない。
精神を超える霊の快楽もまた、とどまることを知らずに上昇し続ける。それを味わうことができないのならば、やはりここは地獄なのである。
よく地上における不老不死が題材にされるが、むしろ死ねないことは悪夢といえるだろう。
「さあ、もう行こう。汚職に関わった教祖や政治家連中はもっと下の地獄に落ちたけど、キミは興味がないだろう。しばらく考える時間をあげるよ。ただ、断言しておくけどキミは必ずボクの提案を受ける。なぜならば、キミには満たされない欲求があるからだ。じゃあ、またね」
女の姿が消えると世界も消えた。
気づいた時には男は独り、見知らぬ田舎道に佇んでいた。
(言いたいことだけ言って去るとは、なんて勝手な女だ)
女の態度には不満を抱いたが、ここで立っていても仕方ない。
道に沿ってしばらく歩くと、街が見えた。
その街には地上と同じような建物があり、同じように人々が暮らしていた。
すでに判明している通り、肉体があった時は肉体と同じ振動数によって物質が構成されていたからこそ、その手や足で他の物質に触れることができた。
であれば、霊体と同じ振動数の物質があれば、同様に手足で触れることができるのは道理である。
特にここは地上に近いエリアで『幽界』と呼ばれる下層でもあるため、人々の生活スタイルは地上と酷似していた。
もっとも勘違いされがちな点が、まさにここであろう。
死んだら何もかも無くなるのではなく【何も変わらない】のである。
肉体と霊体は一緒に地上で成長していくのであって、死んだら肉体が朽ちるだけ。霊体に格納された『人格』と『記憶』と『能力』だけを残し、引き続き生きていく。
唯一の違いは、ここでは誰も死なないこと。
どんなに殴ろうが蹴ろうが霊体が欠けることはない。エネルギーが常に供給されているため枯渇することはないのだ。
これは戦気の元となっている『神の粒子』と同じもので、さらにその精妙な部分ともいえる。
(ワタシの人生は何だったのか。今しばし考えよう)
そこでの生活は静かで穏やかだった。
粗暴で狂暴な人間はおらず、自身と似た考えや思想を持つ者たちが多くいたからだ。
これも地獄で見た世界と同じく『似たもの同士が結びつく』という親和力の法則があるおかげだ。
男は、そこで思案と後悔の日々を送る。
ある時には霊格の高い温和な者がやってきて、地上での生活に関して質問を受けたこともある。それによって自身の過去を適切に振り返ることができた。
なぜ自分の人生はああなったのか。もっとほかに良い方法があったのではないか。犠牲を出さずに済んだのではないか。
肉体があった頃は誤魔化せていた偽善や欺瞞も、剥き出しの心の世界では何も隠せない。
時には涙し、時には怒り、時には絶望し、時には希望をもって歩み出す。
そうして自身の地上人生を振り返りながら、男はさまざまな経験を積んでいった。
そして、およそ五十年が経った頃。
「やあ、久方ぶり」
再びあの時の女がやってきた。
人を小馬鹿にしたような顔は忘れようもない。
男もあからさまに嫌そうな表情を浮かべる。
「何の用だ」
「そろそろいいかなと思ってさ」
「時間は関係ない」
「もう三百年は経ったけど?」
「まだ五十年程度では?」
「ふふ、地上とここでは時の流れ方が違うのさ。それは階層によってもだいぶ違いがある。時間は『体感』によって決められるからね。短く感じたのならば有意義な時間を過ごした証拠だよ。楽しい時間はすぐに過ぎ去るからね」
「なるほど。やはり知識だけはあるらしい」
「だけって酷いなぁ。さて、どちらにしてもキミには選択を迫らねばならないんだ。選択肢は三つ。このまま上を目指すか、地球上に再生するか、あるいは他の星に転生するか」
「なぜお前にそんな権限がある?」
「言っただろう? ボクは使い走りにすぎないんだ。決めたのは上の者たちさ。ただ、地球圏霊界に関しては管轄外だからボクは何もできない。キミが一つ目と二つ目を選択したら、ボクとはここでお別れだ」
「………」
「そんなに嬉しそうな顔をしないでよ。寂しいじゃないか」
「一つ疑問がある。なぜ他の星に行く?」
「交換留学生のようなものだよ。本質的に宇宙は一つであり、どこにいようが霊自体に違いはない。お互いに必要な魂があるのならば、星同士で交換するのも成長を促す一つの方法だろう? 実際に他の星からもかなりの数の魂が地球にやってきているからね」
「なぜワタシを選んだ?」
「もちろんキミだけじゃないけどね。キミが想像する以上の霊魂があちらに向かっている。ただ、その中でもボクが直々に選ぶ魂ってのは、やっぱり特別なんだ。激情、怒り、沈痛、憎しみ、嘆き、哀しみ、どの分野にしてもエネルギーに満ちたものばかりさ。キミだって感じているだろう? 自分は他人と違うってさ」
「………」
たしかに周囲には似た思考パターンを持つ者たちが多くいた。
だが、男とは決定的なところで何かが違った。
彼らの本質は善良であり、何があっても他者を犠牲にしてまで目的を達することはしないだろう。そうするくらいならば自らが犠牲になることを選ぶはずだ。
それは根底にある【怒り】の質が違うからだ。
かつてのアンシュラオンの魂が、不正に関わった者たちを復讐で皆殺しにしたように、男の中にも同様の狂暴性が眠っている。
それがこの三百年で徐々に顕在化してきて、今では他者と関わることもできなくなっていた。女が言うように嫌でも転生の時期が迫ってきたのである。
「他の星に行ってどうする?」
「好きに生活を送ればいいのさ。キミが今までやったように『自分の新しい人生を自分でデザイン』すればいい。そもそも転生ってのはそういうものだからね」
人は言う、こんなはずではなかった、と。
自分の境遇を嘆き、親を罵り、環境をなじり、自己弁護に勤しむ。
しかしながら、それらは産まれる前に自分で選んだことでもある。
現実的な時間軸の問題として、すでに地上にいる親は子供を選べないが、新たに産まれる子供は親を選べるはずだ。
それと同じように、人は地上に誕生する前から自分の人生をデザインするのである。
「まだ踏ん切りがつかないようだね。ならば、キミに『炎』を見せよう」
「炎?」
「ここよりも上の階層さ。そこでキミは『本当の自分』を思い出す」
女に連れられて上昇を開始。
空に舞い上がったと思ったら急速に次元が捻じ曲がり、意識が満足に保てなくなった。
天が地になって無限に横に広がり、また上下に伸びては反転して縮んでいく。
ほんの少しの移動の間にも何千という世界が存在し、それらを素通りするたびに各世界の情緒と思想を受け取っていく。
そして、地上の人間が感知できない四次元を超えて、さらに五次元に入った瞬間には自我を完全に失っていた。
自分という魂の殻が弾けて中身がこぼれ、他と交わっていく感覚。
自分が自分でありながらも主観ではなく客観によって世界を俯瞰する感覚。
人の魂は、全体の中のごくごく一部にすぎない。
その『本体』は、仮に霊体のみになっても容易に理解ができないほど大きい。
男は男でなくなり、女でもなくなり、ただただ燃え滾るような熱い感情だけに支配される。
その中には鉱物や植物のような他の生命体の息吹すら感じられ、自己がいかに巨大であるかを認識する。
何年、何十年、あるいは何百年経ったのかわからないが、かろうじて本質を理解した頃、意識が宇宙にあることを知った。
地球圏霊界を超えて『本物の宇宙』に到達した霊は、その真実の一端を垣間見る。
あらゆる霊の活動は炎のようであり、強い熱情であり、強い欲求でもあった。
(はぁはぁはぁ!! 熱い…! 熱い!! ワタシの中に何万という記憶と感情が流れ込んでいく!)
それは今まで地上生活を送った者たちの記憶。
ただし、地球だけではなく他の星や次元においてバラバラに集めた経験を集約することで、一つの巨大な意識体を形成していた。
よく集合的無意識という言葉があるが、霊の世界においては『集合的有意識』しか存在しえない。
数万、数千万の意識が集まって、ミックスジュースの如く混じりあって『彼』という一側面を搾り出していく。
かつて彼であった存在の記憶は残るが、新たに生まれる『彼』はまったく別の存在と言っても過言ではない。
それはカッティングされたダイヤモンドの輝きの一面か、あるいはダイスの違う面か。
同じ存在であるにもかかわらず、違う様相を秘めたものであった。
「キミは必ず三つ目を選ぶ。自身の欲求と理想のためにね。どこに転生するかって? 安心してよ。霊の移動速度は意識と同じだけど、いちいち何万光年と移動するわけじゃない。それはすでに『目の前』にある」
女の声の先には、以前見た青く美しい地球がある。
しかし、それが徐々に『燃え滾る赤い星』に変化していった。
目がおかしくなったわけでも見間違えたわけでもない。
その両者は、まるで二律背反のように相反しながらも『同時に存在』していた。
「同じ座標に違う振動数の星が重なり合うように存在しているんだ。【双子星】、ボクは勝手にそう呼んでいる。そう、キミが転生するのは、あの『死と炎の星』さ。まあ、大きさはだいぶ違うけどね」
振動数が異なれば、物質は混じり合うことができる。
お互いに触れ合うことはできないが、二つの惑星は間違いなく同じ場所に存在する双子のような関係性であった。
「地球はまだまだ若い星だ。今後、何十万年と試練と贖罪が続くだろう。だが、キミが赴くであろう赤い星は、活力と動力の世界。同じく愚かではあっても、赤子が泣き叫ぶような生命力に溢れた場所なんだ。さあ、どうする? 君はどちらに向かう? 星の声を聴いてごらん」
彼が地球に意識を向けると、吐き気を催す嫌悪感に襲われる。
もう二度とあそこに転生することはできないと悟った瞬間だ。また、もし強引に転生したとしても同じことが起きてしまうだろう。
一方、赤い星は地球よりも未成熟でありながら、自己を強烈に求める波動を発していた。
(なぜこれほどまでにワタシを求める? なぜだ…なぜ? …そうか、これは―――)
そこには幼くも純粋な魂が数多くいた。しかし、純粋がゆえに脆くて弱くて無知だ。もしそこに害悪が迫れば抵抗することは難しいだろう。
それがわかってしまうからこそ、彼は焦燥に似た感情を抱く。
たとえば、これから霊界において上の世界を目指せば、高い次元における新たな刺激を得て劇的な成長が見込めるだろう。
苦労がないわけではないが、地上で味わうような劣悪な環境に身を置くことは少ない。霊界での苦労は、それとは別種のものだからだ。
ただし、相対的な問題として自身の価値は低くなる。
社会人一年目の人材がさして使い物にならないように、彼自体は全体のお荷物に近い扱いになってしまうはずだ。
だが、もし自分が赤い星に赴けば、そこでは自分よりも劣った者たちの役に立つことができる。
男は迷う。
迷いながらも手を伸ばす。
それを見て女は笑った。
「キミはボクたちとは別の原理で動くんだね。いいよ、実にいい。思い通りにならないことがあったほうが星の成長は早くなる。キミという存在が一つの動乱を生み出し、他の者が生み出した動乱とぶつかり合うことで渦が生まれる。それらが螺旋となった時、あの星は真の意味で産声を上げるだろう。では、送り届けよう。そこまでがボクの仕事だ」
ポツンと雫が一滴垂れるように、彼の意識が赤い星に落ちていく。
全体から切り離されて赤い星の大気に触れた彼の魂は、柔らかいものに抱かれながら一つの世界に吸収されていく。
そこには巨大な黒い神殿が存在した。
神殿は黒くありながらも闇色に輝いており、荘厳な雰囲気は地上のあらゆる建造物の美を遥かに凌駕するだろう。
そこでは地上の営みが滞りなく行われるように、多くの闇の天使たちが常時働き続けていた。
闇の天使といっても邪悪な存在ではなく、見た目は人と大差のない者もいる。
闇は物質性を示すので霊界における下の階層、主に幽界や地上を担当する機関だと思えば問題はない。
彼を凝縮した一滴の雫は、その神殿の中心部分に誘われる。
これだけ厳かな神殿なのだから、中心部はさぞや立派なのだろうと思いきや、そこには小さな庭と小さな家屋しかなかった。
特筆すべき点がないほどシンプルで、最低限のものしかないが、それでいながらもなぜか美しい。
美の本質とは、煌びやかな衣服や装飾品で着飾ることではなく、その品性にこそあるのだと思い知る。
これを見た地上の金持ちがいれば、あまりの恥ずかしさに衣服を脱いでしまうかもしれない。あくまで彼らに羞恥心が残っていれば、の話であるが。
そして、その小屋の中で彼の意識がかすかに目覚める。
(ここ…は)
まだぼやけていて、はっきりしない。
しかし、それでもなお、その存在の大きさを感じ取ることはできる。
彼を抱くようにして『美しい女性』が椅子に座っていた。
それはまるで、愛しいわが子を抱きしめる母そのもの。
何もせずとも溢れ出る愛情が彼の魂に触れるだけで、心が震えて涙が出そうになる。
「ようこそ、生命と水の星からやってきた子よ。私はあなたを歓迎するわ」
(あなた…は?)
「私はマグリアーナ、闇の女神とも呼ばれている存在。この星の管理者の一人よ」
(女神…)
たしかに女神だと彼は思った。
彼女から滲み出るのは光ではなく闇であるが、その闇はすべての生命を包む優しさに満ちており、あらゆる罪を許す慈悲と慈愛によって構成されていた。
優しさこそ人の美徳。
地上でもそうした言葉はあるものの、いったいどれだけの人間がこの事実を理解しているだろうか。本当の慈愛を前にすれば、いかなる頑迷な心も一瞬で氷解してしまうに違いない。
彼も闇の女神の輝きに触れて、借りてきた猫のように静かになっていた。
ちなみにアンシュラオンの場合、その慈愛の象徴である『おっぱい』に意識を全集中していたので他のことはあまり覚えていないらしい。
闇の女神は、愛おしそうに彼を抱きしめる。
「あなたの魂は、この星の環境条件に耐えられるみたいね。望むのならば、あなたに新しい地上生活を提供するわ」
(ワタシは……ボクは……ぼくは…何をすれば…)
「人生とは愛を学ぶこと。愛し方を学ぶことです。霊から分かれて個性を持った魂に刺激を与えて成長を促し、いずれはまた霊に戻って経験を蓄えること。それはもうわかっているわね?」
(…はい)
「ならば、ただただ愛しなさい。そして、あなたが心から望むことをすればいいのよ。あなたは何が欲しいの?」
(平和な……家族との平和な日々を…)
「そう、随分とつらい人生を歩んできたのね。あなたの魂はまだ傷ついているわ」
闇の女神がそっと触れると、柔らかい闇が彼の魂に入ってきて心が落ち着く。
これは最高の愛から生まれるエネルギーそのものであり、人の魂にとってもっとも必要な栄養素ともいえるものだ。
(温かい……女神様……母よ)
「もしあなたが地上に転生しても、私の闇は常にこの星に満ちていて、起きている時も寝ている時もずっと傍にいるわ」
世界を構成するのは、闇と光。
その両者が交互に表れて、コントラストによって事象を認識する。
闇ある限り、彼女の力が子供たちから離れることはないのだ。
彼はまどろみの中で闇の女神と対話を続ける。
自分が欲しいもの、自分がやりたいこと、自分が守りたいもの。
さまざまなことを話した気がするが、その記憶も少しずつ薄れていってしまう。
そう、転生の時が来たのだ。
「少しだけお眠りなさい。さぁ、私の胎内へ」
ひときわ濃い闇が彼を包み込む。
意識が完全に閉ざされて余計な記憶もすべて封じられていく。一度胚芽の状態にすることで新たな芽吹きを促すためだ。
霊の身体も卵の状態に戻されて、彼女の胎内にとどまることになる。
「地上のわが子よ、新たな魂を受け入れて」
今度はその胚芽となった魂を地上の母体に宿す作業が行われる。
これだけ人が増えた現在の星では、闇の女神が身体を与えずとも、すでに作られた循環の中で自動的に産まれるようになっていた。
そのために偉大なる白狼が『ウロボロスの環』を管理しており、生と死と輪廻転生を司っている。
されど、異邦人たちは違う。
かつての『偉大なる直系』たちと同じく、こうして女神自らが母体となり、地上の母体に直接手渡すことでより多くの闇に触れ、肉体も魂も異常に活性化されることになる。
だからこそ他とは違う強力な潜在力を持つ。
いわば異邦人とは『偉大なる直系の亜種』ともいえる存在なのだ。
そして彼の魂は、女神が選定した一人の女性の中に入っていった。
それを確認した闇の女神が、穏やかに微笑む。
「彼の人生がマリスの光に導かれますように」
人は生きて、いつか死ぬ。
痛いこともあるだろう。つらいこともあるだろう。嬉しいこともあるだろう。楽しいこともあるだろう。
だが、生命の本質は何も変わらず、何度だって蘇っていく。
もし痛みを知らねば優しさを知ることもなく、もし憎しみを知らねば愛を知ることもできない。
地上の人間にとっては激しく感じられる一つ一つの体験が、霊にとってかけがえのない財産となるのである。
こうしてまた一つ、大きな魂が死と炎の星に注がれることになった。
彼がもたらす影響とは、いったいどのようなものなのか。
それを知るには、まだわずかな時間が必要となるだろう。