349話 「崩壊の序曲 その4『希望なき道』」
ジンロ隊の決死の突撃により、残りの者たちは包囲網を突破。
されど、その代償は大きかった。
「ジン兄…」
カンロが後ろを振り返るが、当然ながらそこには誰もいない。
いつだって長兄として弟たちを引っ張ってきた男は、もういないのだ。
そこに次兄のサンロが付き添う。
「あいつは立派に任務を果たしたんだ。誇ってやろう」
「わかってる。わかってるけど…」
ジンロが生存する確率が極めてゼロに近いことを二人は知っている。
それでもやはり兄弟だ。苦楽を共にしてきた者がいなくなるのはつらいものである。
だが、緊迫した状況は哀しむ暇すら与えてくれない。
ハイザクたちは三袁峰を抜けて南東に移動。
この周辺は崖が多く、無防備になる地形ばかりが続く危険な道だが、先に進むしかない。
「見ろ、ヒポタングルがいやがる。あいつらだけは絶対に許さねぇ…」
「でも、攻撃は仕掛けてこないね」
「やつらに捕捉されている以上、この先にも何かある可能性が高い。気を抜くでないぞ」
ヒポタングルの姿が何頭か見えるが、彼らはじっと監視するだけだった。
魔獣の行動には不可解な点が多く、それだけでも不気味に思えて心理的な圧力がかかる。
(いまだ我らは敵の術中にいるということか。だが、遠回りしている余力はない。直進するしかあるまい)
異変に気づいたスザク軍が駆けつけるとしても、合流するまでは早くても三日はかかるだろう。慎重に進むのならば一週間から十日はかかる。
なんて絶望的な逃避行。
どう考えても逃げおおせる未来は見えない。
そして、崖を登りきった彼らの前に、さらなる絶望が立ち塞がる。
そこにいたのは『熊の軍勢』。
熊神そのものではないが、およそ五百頭の熊の眷属たちが待ち受けていた。
焦げ茶色のふさふさの長い毛並みに、大きな口と鋭い牙を持った『モフスキャッパ〈咬捥獰猛熊〉』という魔獣である。
予想はしていたものの、悪い予感だけは裏切らない現実に嫌気が差してくる。
「やっぱりいたかよ」
「数が多い! どうするの!?」
「逃げ場などはないのだ! 突破するしかあるまい!」
こちらが態勢を整える前に、熊の軍勢が突撃を開始。
その圧力で崖に突き落とそうとしてくる。
「サンロ隊、突撃するぞ!」
すでに背水の陣ならぬ『背崖の陣』だ。
受けてはやられるため、サンロ隊も突撃して槍で熊を貫く。
モフスキャッパ自体は上位の抹殺級ではあるが、根絶級には届かないレベルで一頭一頭はそこまで強くはない。
が、熊特有の硬さと重さがあるため、一頭貫くだけで動きが止められてしまう。
その間に次々と他の個体が襲いかかってきて、何人もの海兵が崖に転落。
(スペースがねえ! これだと推進力が消される! こんなときにジンロがいてくれればよ!)
サンロ隊は突撃に優れている反面、こうして間合いを潰されると身動きが取れなくなる。
いつもならばジンロ隊が壁になってくれるが、すでに彼はいない。
動きが止まったサンロに、モフスキャッパが噛みつく!
この魔獣のもう一つの特徴は、その異名にある通りに『咬んで捥ぐ』ことだ。
鋭く細かなギザギザの三重の牙が、口の外に飛び出すほどびっしり生えており、噛みついた肉を―――もぐっ!
「ぐっ! 腕が…!」
最悪なことに利き腕をやられてしまい、ドバドバと血が溢れ出す。
「サン兄! この野郎!」
すでに術符を使い切っているカンロ隊は、なんとかサンロ隊から熊を引き剥がそうと近接武器で応戦するが、やはり多勢に無勢。
そうしている間にも他の熊が襲いかかり、カンロも肩に噛みつかれて肉の一部を持っていかれてしまう。
鎧が万全ならば防げたが、すでに猿との戦いでボロボロ。形を保っているのが精一杯の状況だ。
疲労で戦気も弱くなっており、いつもの身軽さも鳴りを潜めていた。
「はぁはぁ…くそっ…!」
「サンロ、カンロ、下がれ! ハイザク様がいく!」
「…んっ!」
そこにハイザクがやってきて敵の熊を蹴散らす!
一撃で三頭のモフスキャッパをぶっ飛ばす腕力は、さすがの一言だ。
彼が手当たり次第に暴れ回ることで、あっという間に百頭あまりの魔獣を撃破。
「ハイザク様! 早く突破を! すぐに包囲されます!」
「…ん」
ハイザクは、ギンロの言葉に頷きながらも敵との交戦を続ける。
彼の武勇は凄まじく、単独でもこれだけの魔獣と戦えてしまう一騎当千の武将だが、だからこそ仲間を助けようと必要以上に奮戦してしまう。
結局、この戦闘で死んだ二十名を除き、他の海兵がすべて離脱するまでハイザクは戦い続けることになった。
咬まれても逆に口を拳で粉砕し、放り投げて崖に落とす姿に、戦いを監視していたヒポタングルたちも驚愕する。
―――「とんでもない人間だな。化け物か?」
―――「戦闘力が高すぎる。あれと戦う地上の連中が哀れに思えるほどだ」
―――「猿の王にも勝てる逸材か。なるほど、『標的』にされたことにも頷ける」
―――「しかし、この調子でいつまでもつかな。ここには翠清山の【全主力部隊】が集まっているのだ。いつか限界は来るだろう」
―――「その通りだ。どのような強者も単独での力には限度がある。数には勝てぬ。だから生物は群れを作るのだ」
ヒポタングルたちは文字通り、高みの見物を決め込む。
そのハイザク隊は、熊の追撃を受けながらも次の山を登っていた。
「はぁはぁ…血が止まらねぇ…遠慮なく噛みちぎりやがって…」
サンロはすでに肉体制御で血を止めることもできなくなっていた。それだけ疲労が濃いのだ。
そんな状況でも次々と敵は襲いかかってくる。
人喰い熊たちを見ても彼らの移動速度はクルマ並みだ。武人とはいえ、疲れた状態ではすぐに追いつかれてしまう。
そのたびにハイザクが奮闘するのだが、これではどちらが守られているのかわからない。
ハイザクも人間である。少しずつ動きが鈍っていることに、十年間一緒にいたサンロが気づかないわけがない。
「しょうがねえ…な」
「サン兄!?」
サンロが立ち止まる。
その目には、ジンロと同じ光が宿っていた。
「俺はここまでだ。ハイザク様、俺は足手まといにはなりたくねえ。どうせ死ぬなら、あんたの役に立って死にたい」
「………」
「そんな顔をしないでくれ。海兵になった時から覚悟はできている。最期は格好良くやらせてくれよ」
「………」
ハイザクは、ぎゅっと拳を握って歯を食いしばる。
これほど感情を出す彼の姿も珍しいが、共に戦場を駆け抜けてきた大切な戦友なのだ。つらくないわけがない。
「サン兄! 俺は、俺は!!」
「カンロ、あとは任せる! 覚悟を決めたやつは一緒に来い!」
「隊長は気まぐれだからな。一緒に行かないと心配だ」
「これ以上はもちそうもない。お供しますよ」
「ボーナスは出ねえぞ」
「でも、格好はつけられるんでしょ?」
「へっ、まあな。最後にハピ・クジュネが勝てばいいんだ。そうすりゃ俺たちも英雄だ」
サンロの呼びかけに、およそ百四十名が呼応。
誰もが怪我を負っていて、すでに武器も防具もボロボロ。
このまま撤退戦を続けても、ハイザクの足手まといにしかならないと自ら判断した勇気ある者たちである。
「じいちゃん、行ってくれ!」
「すまぬ、サンロ! ハイザク様、参りましょう!」
「………」
ハイザクは、一度だけ胸を強く叩いて彼らの武運を祈り、包囲網を突破していく。
それをカバーするようにサンロたちも動いた。
追ってくる熊の群れに向かって最後の突撃を敢行。
「うおおおおおおおおおおお!! 熊ごときに負けるかあああああ!」
サンロの血が燃えている。
ジンロと同じく『オーバーロード〈血の沸騰〉』を引き起こし、獅子奮迅の活躍を見せる。
迫ってくる熊を次々と打ち貫き、その剣硬気は三頭を一撃で倒すほどに研ぎ澄まされていた。
他の者たちも奮戦し、ハイザクが逃げる時間を十二分に稼ぐ働きを見せる。
しかしそれは、炎が消える前の一瞬の輝き。生命の流れ星。
燃えて、燃えて、燃え尽きる!
噛まれても刺し、殴られても貫き、体当たりされても穿つ。
槍が折れても穂先を握って剣気を放出。身体ごとぶつかり、口の中に手を突っ込んで喉を貫く!
「はぁはぁ!! てめぇも死ねぇええええええ!」
熊を打ち倒して腕を引いたとき、そこにはもう『手がなかった』。
歯で抉られてズタボロになった肉の塊だけが残っている。
「へっ…ったくよ。これが鮫だったら少しは海賊らしいんだけどなぁ」
「隊長、敵の増援が来ます」
「獣臭ぇったらありゃしない。やっぱり山は苦手だぜ」
最初の群れは全滅させたが、また次の群れが来襲。
サンロたちはそこでも奮戦するが、ついに限界がやってきた。
立つだけでも精一杯のサンロに次々と熊が殺到。
最初にベアクローをくらった瞬間に半分意識が飛んだことは、彼にとって幸いだったのだろうか。
倒されて何度も抉られ、噛みちぎられ、薄れゆく意識の中で、揺れる天地と噴き出す血だけが見えた。
(やるだけやった。本当に―――なっ!)
「グォッ!?」
最期に残った指一本で熊の目玉を抉り取って、彼は絶命。
まさに死ぬ瞬間まで戦う武人の鑑のような最期だった。
他の隊員たちも力尽きていき、最後の一人もついに死に絶える。
だが、彼らの決死の戦いによって追撃してきた熊、およそ六百頭以上を撃破。武器がない状態でこれだけ戦えたことは奇跡であろう。
しかし、サンロ隊もまた全滅。約140名が死亡した。
なんという凄惨な道だろう。歩けば歩くほど犠牲が出てしまう。
生き残ったハイザクたちおよそ190名は、失意の中で撤退を続ける。
「………」
「気に病まれることはございませぬ。これも御役目です」
「………」
「スザク様と合流することこそ全体の利益です。そのためならば犠牲は致し方ありませぬ」
ハイザクの表情自体は変わらないが、自分のために部下が死んでいく光景は指揮官として見たくはないものだ。
特にカンロに対して申し訳ないという気持ちが、ありありと見えた。
自身にも兄弟がいるからこそ、失った者の気持ちが理解できるのだろう。
だが、カンロは清々しい顔で笑う。
「ハイザク様、俺は哀しいなんて思っていないよ。兄ちゃんたちは意味のある死を選んだ。それは海賊として誇り高いことだと思う。そうだろう、じいちゃん?」
「…カンロ、次はわしが残る」
「駄目だよ。それは駄目だ。じいちゃんにはやるべきことがあるはずだよ。次は俺が行く」
「カンロ…」
「まあ、そうならないのが一番だけどさ。生きるチャンスがある限りはがんばろうよ。それが兄ちゃんたちに報いる方法さ」
(立派になりおって…苦難は人を作るか。できればこの子だけでも生き延びてほしいものじゃが…)
それからもハイザク軍は、迫り来る追手と三日三晩寝ずに戦い続けることになる。
ただただ東へ。
それだけを目指して戦っていた。
∞†∞†∞
侵攻開始、五十四日目。
「はぁはぁ…! 身体が…もう動かねえや……」
三袁峰での戦いからもう十日以上連続して戦っているため、多くの海兵に体力の限界が近づいていた。
驚異の回復力を誇っているハイザクも、さすがに疲れが見え始めて動きが鈍い。
どれだけ強い武人にも限界は必ず来るのだ。ハイザクも人の子であることを今日ほど痛感したことはないだろう。
そして、清翔湖まであと半分の距離になった時、彼らの前にそれは現れた。
銀の鎧を身にまとった―――巨熊!
彼こそ銀鈴峰の主である『セレプローム・グレイズリー〈銀盾錦王熊〉』である。
その大きな身体は特殊個体の『レザダッガル・ベアハマー〈人喰地猟大鬼熊〉』を上回り、全体的に引き締まっていながらも、若干細長くて動きやすい白熊のような体型をしている。
額には十字の傷があり、熊の中でも歴戦の勇士を感じさせる貫禄が漂っていた。
当然ながら鋭い牙に鋭利で硬い爪といった熊型魔獣として上級の能力を持ちながらも、彼には他とは違う特徴がある。
それは、やはり術式武具。
ただでさえ硬い熊が頑強な兜付きの甲冑に身を包み、【両手に大盾】を持っているではないか。
この巨体が持っても大盾に見えるので、人間からすると、もはや盾というよりは巨大な鉄塊とも呼ぶべき『何か』でしかない。
そして、その背後には錦王熊が率いる群れ、熊神の精鋭部隊が並んでいた。
三袁峰に空輸された錦熊たちはあくまで遊撃部隊であり、これが錦熊の主力部隊となる。
その数、およそ千。
本来ならばスザクたちが戦う相手であったが、魔獣の戦略の最後の詰めとしてここに配置されていた。
そう、ここが包囲網の最終ラインなのだ。
(ここで三大ボス…か)
さすがのギンロも心が折れる瞬間を味わう。真なる絶望とは、まさにこのことなのだろう。
十日間戦い続けてきた疲労が、精神の落ち込みと同時に激しく身体にのしかかってくる。
重い。あまりに重い。
このまま死んだほうが楽になれると思えるくらい、身体は休息を欲していた。
一方で敵の熊神たちは、これが初戦であるため万全の状態だ。余裕をもって一歩一歩近寄ってくる。
それを見た海兵たちからどんどん戦う気力がなくなっていく。海兵の中の海兵である精鋭たちでさえ、この状況は最悪を超えて地獄であった。
しかし、勇者は最後まで諦めない!
「…んっ!!」
ハイザクが、どすんと折れた矛を地面に叩きつけて、熊神の王と睨み合う。
彼は多くを語らない。言葉すら満足に発しない。
だが、彼は身体で語る。筋肉で示す。己の意思と覚悟を。
―――「戦え!!」
―――「あらがえ!!」
―――「敵になめられるな!!」
ハイザクの背中が海賊としてあるべき姿を指し示す。
まだ負けていない。負けを認めるわけにはいかない。
ハイザクは幾多の激しい戦いを通じて、海賊の頭領としての資質を開花しつつあった。




