346話 「崩壊の序曲 その1『撤退戦』」
三袁峰の上空にヒポタングルの群れが出現。
そのうえスザク軍との戦いでも使役していた眷属の鳥たち、総勢五万羽を引き連れているので、空が一気に黒く染まる。
この規模からしても『本隊』であることは間違いないだろう。
―――「どうやら苦戦しているようだな。せっかく出番を譲ってやったのに、王将も負けそうではないか」
―――「普段から偉そうにしているわりに肝心な時にしくじる。だから猿など信用できんのだ」
―――「やつらが疲弊しようが負けようが、どちらでもかまわぬ。だが、山脈全体で人間に負けることは許されぬぞ」
ヒポタングルの群れには、百頭以上の上位種である『グレートタングル〈鷲爪河馬〉』もいる。
彼らの強さは第三海軍との戦いでも証明されているが、これだけの数が集まること自体が異例である。
―――「どうする、マスカリオン? 猿が負けるまで待つか?」
―――「人間を侮るな。猿に注意が向いている間にこちらも仕掛ける。それともこんな峰が欲しいのか?」
―――「たしかに。綺麗な水が少ない猿山をもらったところで意味はないな。人間との戦いはまだ続く。猿は猿で役立つか」
―――「では、予定通りに攻撃を開始する!」
ヒポタングルたちが空から攻撃を開始。
猿との戦いだけでも大変な時に、まさかの敵の援軍が到着である。
ギンロも空を見上げながら苦々しい表情を浮かべていた。
(ヒポタングルの群れか。この作戦の性質上、『灸瞑峰』だけはどうしても手薄になる。連中の動向だけが気がかりじゃった。伝書鳩が潰されていたことからも近くにいるとは思っていたが、この数とはな)
ヒポタングルの来襲自体は予期できることだった。
彼らは空を高速移動できる種族であり、伝書鳩を潰したり、あるいはスザク軍の迎撃に向かったりと遊撃部隊に近い動きができる。
そのことから三袁峰にも向かってくる可能性が一番高く、ギンロも彼らのことは一番警戒していたものだ。
それを示すように、本営から炸裂砲弾が空中に放たれて弾幕を張る。
どのみち猿を倒したら、灸瞑峰に向かってヒポタングルを倒すことも作戦の一部である。空への対応はすでに考えており、彼らが来たら追い払うために発射命令を出しておいたのだ。
が、あまりに数が多い。多すぎる。
引き連れている眷属も相当な数であり、本隊ともども幅広く陣取っているので、本営からの砲撃だけでは焼け石に水だ。
(この様子では、やはりグラス・ギース軍では駄目だったか。当てにはしていなかったが北西側の戦力不足が悔やまれる。せめて猿神を倒すまで抑えてくれていれば…)
今回の作戦では、北西を担当するのはグラス・ギース方面軍、約3000だ。
数自体も少ないうえ武器輸入で強化されていたとしても、衛士隊程度では正直言ってまともな戦力にはならないだろう。
事実、包囲網には参加しているもののグラス・ギース軍は山脈には入っておらず、防衛に専念しているようだ。
領主のアニルが今回の作戦に積極的ではないことも原因の一つであり、山で戦ったところで全滅は免れないため致し方ない対応ではあるが、ここはアンシュラオンの懸念が的中した形となる。
(それでもヒポタングルたちは、最大限の警戒をして戦力を温存していたはずよ。ギリギリまで北西側の戦力を見極めるために、あえてスザク様たちを少数の兵で迎え撃った。よもややつらがこれだけの用兵術を扱えるとはな)
ヒポタングル側も大将のマスカリオン自ら出陣するというリスクを負っている。最悪の場合はスザクに討ち取られていた可能性もあるのだ。
しかし、彼らは賭けに勝った。
スザク軍同様に百頭前後の群れでグラス・ギース軍をあしらいつつ戦力を温存したことで、一番大事な場面においてほぼ万全の六百の兵を集めることに成功した。
残りの兵は伝書鳩の駆逐を担当しているので、いまだに情報遮断も継続されていて隙がない。
(戦場では情報を制した者が勝つ。口惜しいが、常に空から戦況を見極めていたやつらのほうが一枚上手だったということか…)
「なんだ、空から敵か!?」
「ヒポタングルだと!? こっちは猿だけで手一杯なのによ!」
「前から猿も来るぞ!」
「くそっ、どっちに対応すりゃいいんだ!」
一斉にヒポタングル軍が襲いかかったため、海兵たちは混乱状態に陥る。
火計や伐採で高い木々の枝葉が落ち、遮蔽物が少なくなったことも影響し、彼らの石つぶての攻撃を防ぐ手段が乏しくなっていた。
また、スザク軍との戦いでもやったように、油と焼けた木を落とすことで敵も火計を使えるので、本営からも火の手が上がる。
山に広がった火をさらに煽って、猿ごと人間を追い詰めようとしているようだ。
「キキイイイッ!」
「キッ! キッ!」
―――「ふん、助けてやっているのにうるさい連中だ。気にするな。遠慮なく火を放て」
河馬の行動に猿たちが激怒するが、それを無視して火計を継続。
翠清山の魔獣たちは一応の協力関係にはあるが、今までずっと対立していたこともあって仲が良いわけではない。
あくまで対人間戦において共闘しているだけにすぎず、彼らにとっては猿山が燃えようがどうでもよいのだ。
だが、人間にとっては最悪の展開だ。
ギンロも頭をフル回転させて打開策を練る。
(このままではまずい。一度本営に戻るか? いや、それでは敵の狙いが一つになって集中砲火を受けるだけじゃ。やはり後退するしかあるまい。だが、今から八方面に分かれた部隊をすべて統合するのは難しい。ならば散開して敵の攻撃を散らすのが次善の策か)
「ハイザク様、一度撤退いたしましょう!」
「………」
「悔しいのはわかりますが、この状況は危険です。退かねば被害が甚大になりましょう。今ならばまだ立て直しが可能です」
「…ん」
「はっ、必ずや再び三袁峰を手中に収めるために舞い戻りましょうぞ。青の狼煙を上げよ!」
ギンロ隊が煙玉を使って上空に『青い狼煙』を上げる。
それを確認した本営からも同じく青い狼煙が上がった。
これは【緊急退避】の合図だ。
ギンロはさまざまな状況に対応するために、狼煙の色で離れた味方にも策を出せるようにしていた。
今はヒポタングルの攻撃を阻害するのが最優先事項であり、いまだ焼けていない森の中に逃げるしか手はない。
その後は各部隊同士が途上で合流しつつ戦力を統合し、一つ前の拠点まで撤退する手筈になっている。
が、戦力が分散されるために一番避けたかった命令でもあった。
「ハイザク様、せめて破邪猿将だけでもとどめを!」
「…ん」
ハイザクがとどめを刺そうと拳を振り上げる。
破邪猿将もまだ勝負を諦めたわけではない。折れた剣を握って一太刀浴びせようと待ち構える。
しかし、上空から細かい風の粒子が襲いかかってきてハイザクに命中。身体中に出来た無数の傷から出血してしまう。
真上には、銀色の翼を持ったマスカリオンがいた。
「キ゛キ゛ィッ!!」
―――「文句はあとで言え。今ここで死なれては困る」
誇り高き破邪猿将は邪魔されたことに激怒するが、こちらもマスカリオンはあっさりと無視。
ヒポタングルには、グラヌマのような蛮勇に似た自尊心はない。あるのは種全体を守ろうとする強い防衛本能だけだ。
「致し方ありません! 撤退を優先いたしましょう! 親衛隊はハイザク様をお守りしろ! 山を下るぞ!」
「………」
ハイザクは一度だけ破邪猿将と視線を交わすと、ギンロたちと撤退を開始。
その際にギンロ隊が弱らせた剣舞猿将を一頭葬ったので、まだ多少の余力はあるようだが、第二海軍全体の危機である。
今は逃げるのが先決であり、そういう判断ができることに将の器がうかがえる。
「ギギギギッ―――オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛!!」
破邪猿将は勝負に水を差されたことと、実質負けていたことに対して雄たけびを上げる。
だが、これは『戦争』だ。
個人間の勝負にこだわっている余裕はない。
―――「人間を逃がすな! 我らは空から追い立てよ!」
ハイザク軍は、ヒポタングルの追撃を受けながら撤退を開始。
しかし、この間にも猿の眷属たちの増援がやってきて三袁峰を囲み、逃げる海兵たちに襲いかかってくる。
陸と空からの同時攻撃は、やはり対応が難しい。
空からの攻撃を警戒して森の中に入れば、そこは猿たちにとって有利な地形だ。得意な木々を伝う機動力を生かされて先回りされ、高さを使った攻撃を許してしまう。
かといって森を抜ければ、今度は空から一方的に攻撃される。
グレートタングルたちも追撃に参加しているため、戦闘力はかなりのものとなり、所々で海兵が苦戦する様子が見て取れる。
まず最初に犠牲になったのは北東側にいた部隊だ。
三袁峰は密林地帯ではあるが、ここは山の頂上付近である。切り立った崖や厳しい地形がいくつも存在し、容赦なく人間の前に立ち塞がる。
登るのも大変だが、下りるのはもっと大変だ。それが敗走ならば精神的な負担も大きくなって足が鈍る。
海兵たちが地形に手間取っている間に、ヒポタングルの群れが追いついて空から集中攻撃を開始。
彼らはスザク軍と戦った群れの戦闘情報を共有しており、地上戦では海兵が危険だと認識しているゆえに、けっして下には降りてこない。
ひたすら空から妨害するいやらしい攻撃が続く。
「ここはどこだ!? どこに逃げればいいんだよ!」
「とりあえず低い場所に移動するしかないだろうが!」
「他の部隊はどこにいるんだ! 狼煙は上がっていないのか!?」
山で一番怖いことは、自分たちの位置がわからなくなることである。
特に翠清山はいくつもの山脈がくっついた構造をしているので、下ったからといってそこが正解とは限らない。またすぐに違う山や谷が姿を見せることが多々ある。
―――「人間は山の地形に詳しくはない。どんどん追い込んでやれ!」
ヒポタングルには敵部隊がどこにいるのかある程度わかるため、海兵たちを迷わせるように上手く誘導していた。
ある者は崖に追い詰められて落とされ、ある者は右往左往している間にヒポタングルの攻撃で射貫かれ、ある者は猿の群れに誘導されて多勢に無勢の戦いを強いられる。
すでに猿との戦いによって疲弊していた第二海軍は、冷静な判断力を失っていた。
比較的頑強に建造した本営も籠城しなければただの箱だ。今や火に包まれて完全に燃え盛っている。
本営から脱出した者たちも災難だった。
彼らは後衛部隊であり、第二海軍の中では力に劣る者たちだ。逃げ遅れたところをヒポタングルとグラヌマに襲われて、次々と殺されていく。
そこに今まで強かった第二海軍の姿はない。
なぜならば彼らは、突撃においてもっとも力を発揮する部隊であり、逃げながら戦うことには向いていないのだ。
しかも重量のある武具と疲労が災いして逃げる速度が遅い。自然界では弱い者から狙われるために恰好の的となってしまった。
あっという間に二百人の海兵が殺されて死体の山が生まれる。
そして、ヒポタングルが加わったことで、グラヌマにはなかった戦術が見られるようになった。
ヒポタングルが海兵の死体を掴んで移動し、まだ逃げている部隊に追いつくと上空から死体を落とす。
「なっ…!」
「魔獣め! よくも仲間をやりやがったな!!」
「待て! 逃げるのが先だ!」
「ふざけんなよ! 逃げて敵に勝てるか!」
仲間の死体を見せることで心理的に圧力をかけて、激怒を誘発。
この状況では逃げるのが先決だと誰もがわかっていても、人間の感情が同じように動くとは限らない。
とりわけ第二海軍の海兵は血の気が多いこともあり、どうせならば敵を道連れにして死んでやる!という思考に陥りやすい。
だが、これは罠だ。
結局いくら敵を相討ちにしたとて、翠清山においては魔獣たちのほうが数が上である。
何頭殺しても敵の数は衰えず、逆にこちらが力尽きて呑まれていく。
「ちく…しょう……ま、まけて…たまる―――がっ!?」
「ここまでかよ…すまねえ……俺は帰れそうもない…」
「死ね、死ね、死ね! 死ねよぉおおおお! うあぁあああ!」
この日、三袁峰はまさに地獄絵図と化した。
魔獣も大量に死ぬが、海兵たちも大量に死んでいく。
だが、悪夢はこれで終わらない。
ここから真なる地獄は始まるのだ。




