32話 「なぜあなたは髪の毛を愛するのか?」
アンシュラオンは待合室のソファーに座りながら、今後のことを考えていた。
(分け前は折半だから、最低でも六百万は稼ぐ必要がある。あの林檎もどきで何百万だとすれば、あれを二つ以上。もっと余裕は欲しいから、できればあれより強い魔獣を倒したほうがいいな。そうなると、もう少し奥に行く必要がありそうだ。おっ、これは地図かな? 見てみるか)
アンシュラオンは待合室に置いてあった地図を手に取る。
役所や駅にあるパンフレットと同じだ。ご自由にお取りください、というやつである。
(どうやらハンター専用のものみたいだな。ロリ子ちゃんからもらったやつよりは詳細だとありがたいが―――)
アンシュラオンは、地図を広げる。
(なんだこりゃ? ほとんど真っ赤じゃないか)
地図の下にあった説明によれば、この真っ赤な区域は【警戒区域】と呼ばれる場所で、人間が立ち入ることができない危険な場所を指しているらしい。
出現する魔獣が人間の手に余るため、地形調査すらままならないようだ。
定期的に調査団を派遣しているが、そのまま戻ってこないか、生き残った数人が息も絶え絶えに帰還するのが精一杯らしい。
とはいえ、さすがハンター専用の地図だ。以前のものより多くの情報が載っている。
(この黄色の線が安全な【交通ルート】だな。で、道に点在している青いのが『集落』で、名前があるのが『街』。赤いのは『都市』か。ブシル村は最後の開拓地だから赤になっているのだろうが…それにしても酷いな。こうしてみると、この大地での人間の支配域が恐ろしいほどに狭い。魔獣討伐申請とかいっても、ほとんどグラス・ギースのごくごく周辺なんだろうな)
逆によくこれで生活できているものだと感心する。
魔獣の影に怯えながら、ひっそりと暮らしているのだろう。
(さて、これだけ赤いと逆に困るな。どのあたりを目指すべきか…)
このあたりの魔獣の強さは完全に把握していないが、今までの話から察するに火怨山に近づくほど強くなるようだ。
(割が良いのは立証済みだが、火怨山に行く時間的な余裕はない。しかもロリコンの時のように、レベルが高すぎると買い取ってもらえない可能性もある。往復の時間を考えると、できるだけ近場で狩ったほうがいいし…。あるいは男を置いてオレだけ全力で狩りに行ってもいいが…)
自分だけならば本気を出せば短時間で遠くまで行ける。折半なのだから相手も文句は言わないだろう。
と考え、思いとどまる。
(いや、プライドが高いやつだったら駄目か。受付のお姉さんの反応を見ると、ここにいる連中はオレよりも数段下のやつらだ。能力がないやつほどそういう傾向にある。ごねられると面倒だ。だとすると、ある程度そいつを引き立てつつ狩らねばならないか。…それこそ面倒だが仕方ない)
仕事に誇りを感じるのはよいことだが、それが対抗意識になることも多い。
良い意味でのものならば相乗効果があるが、逆に向かうと最悪だ。引っ張り合って得になることはない。
地球時代もそういうことはよくあった。ここも同じ人間がいる世界なので似たようなものだろう。
(一応、オレは子供扱いなんだから、それを逆手にとって丸め込むとか。うん、それはありだな)
「…くんかくんか」
(ああ、だが、男に子供のふりってのは面倒だ。愛想を振りまくだけでも虫唾が走るな。適当にあしらうのが正解か?)
「…くんくん」
(お姉さん相手なら楽しいけど、ガキのふりってのはどうにも…)
「…くんかくんか」
(―――っ!!)
その瞬間、アンシュラオンの背筋に悪寒が走った。
電流にも近いもので、姉に対するものよりも強力な衝撃。
それ自体が信じられないが、実際に身体を駆け巡る激しい嫌悪感が湧き上がる。
そして、気づく。
「…なに…してる」
「…くんくん。ああ、素晴らしい。こんな素晴らしい匂いなんて、初めてで…」
「なにを…していると…」
「ですから…この髪は素晴らしいと…くんかくんか」
男が、アンシュラオンの髪の毛を、その匂いを嗅いでいる。
男が、嗅いでいる。触りながら。
男が、嗅いでいる。触りながら。
男が、嗅いでいる。触りながら。男が、嗅いでいる。触りながら。男が、嗅いでいる。触りながら。男が、嗅いでいる。触りながら。男が、嗅いでいる。触りながら。男が、嗅いでいる。触りながら。男が、嗅いでいる。触りながら。男が、嗅いでいる。触りながら。男が、嗅いでいる。触りながら。男が、嗅いでいる。触りながら。男が、嗅いでいる。触りながら。男が、嗅いでいる。触りながら。
「て、てめぇ――――――――――――――殺すっぅうううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううう!!」
「このすばら―――ぐべぁぁあああっ!?」
アンシュラオンが拳を突き上げると男の顎にヒット。
男の顔が跳ね上がり、押し出され―――ドゴーーンッ!
そのまま天井に突き刺さり、まるで漫画のように頭だけ天井に埋まってぶらぶらしている。
だが、アンシュラオンにとっては、そんなことはどうだっていい。
「ひぃいいいい!! ひいいいいい!! ブツブツがぁあ! 蕁麻疹がぁあああ!! 男に、男に触られたぁあああ!! これなら姉ちゃんのほうが何万倍もいい!! ひあぁああああああああ!! 死ぬ、死ぬ!! 一分以内に女性を触らないと死ぬ!!」
昼時のハローワークで、絶叫が響いた。
「おい、変態。9:1な」
「折半とお聞きしましたが…」
「ふざけるなよ! 人の髪の毛に、さ、触って…ひいい! 触っておいて、ただで済むと思ったのか! 女性以外は誰も触ったことがない、このオレの髪の毛に男が触って!!! 一割でももらえるだけありがたいと思え!!」
「それはもう謝罪いたしました。ですが、あなたが悪いのです。あなたの美しさが私を惹き付けた。それはもう罪ですよ。それに、触ったのではありません」
男が視線を下げ、アンシュラオンの髪の毛を熱っぽく見つめる。
「あれは、【髪の匂いを嗅いだ】のです」
「ひぃいいいいいいいっ!!! 変態だ!! マジもんの変態だ!! おまわりさーん! 変態がいますよ! た、逮捕してください!! いや、射殺してくださーい!!」
その言葉に戦慄。
この男は、いきなりアンシュラオンの髪の毛を嗅いだのである。
男が男の髪の毛の匂いを嗅ぐ。そして恍惚な表情を浮かべる。しかも股間が膨らんだのは気のせいではないだろう。
殺していい。
こんな生き物は殺してかまわない。改めて殺意が湧く。
が、殺したいほど嫌いなゴキブリであっても、関わること自体が不快である。
(オレは今、セクハラされた女性の気持ちがわかった!! 髪の毛を触るくらい、いいじゃないか、とか言う馬鹿がいたら、そいつをぶん殴って下の毛まで刈り取ってやりたい気分だ! とんでもない不快感だぞ!! うっ、吐きそう!)
今まで「それセクハラよ! セクハラ!」と訴える自意識過剰な女性は面倒くさいと思っていたが、とんでもない誤解である。
それくらい髪の毛を触られることは死活問題なのだ。特にあんな変態に触られたのならば殴って当然である。
アンシュラオンは、慌てて受付に戻る。
「お姉さん!! あいつ、おかしいよ!! いきなりオレの髪の毛を嗅いだんだ!! それで興奮して…股間を大きくしてるんだ! へ、変態だよ! 早く逮捕…殺してくれ!! 殺していいなら今すぐオレが殺すよ!!」
「ああ、またですか…」
「また!? またって!?」
「あの人、時々あのような変質的行為に走るのですよね…。おかげでみんな迷惑しています。何度も注意しているんですけどね」
「ちょっ!? そんなやつ、さっさと登録抹消したほうがいいんじゃいの!? みんなのためだよ! いないほうがいいよ! 存在自体が公序良俗に反しているよ!」
「見境なくやるのでしたら問題なのですが…たまにやる程度ですし、その分の働きもしますし…納税額もそれなりに多いので、そのご意見には激しく賛同しますが、こちらとしてはなかなかそこまでは…」
「じゃあ、キャンセル! あいつ、キャンセルで!」
「今からですと、キャンセル料がかかってしまいますが…」
「そっちのミスじゃないの!? これ過失でしょう!? 瑕疵だよ! チェンジお願いします!」
「安心してください。腕は良いのです。腕だけは…」
「腕より人格が大事だよ!!」
その通りであるが、医者にとって最重要なのが医療の腕前であるように、傭兵やハンターにとっても実力が一番大切だ。
それと比べてしまえば多少の性格の問題には目を瞑る。これもまた傭兵稼業におけるマナーの一つである。
それを教えられ、致し方なく戻る。
(なんか交通事故に遭った気分だ。こっちに何の過失もないのに、前方不注意だとか言われて責任を問われる気分だよ。最低だ。最悪だ。これならロリコンとかのほうがよかった。幼女好きの変態とかのほうがましだよ)
とんだ言われようである。
「じゃあ、9:1で決定な」
「せ、せめて3は欲しいのですが…美しいお嬢さん」
「ひぃいい!!! ふざけるな! オレは男だ!!」
「ああ、そうでしたね。でも、それであなたの美しさが変わるとも思えない。私にとっては女神にも等しい」
「やめろ!!! それ以上言ったら本当に叩き潰す!! いいな!」
「わかりました。ですが…」
「オレに逆らうな! わかったな!! 一切の口答えは許さん!!」
「わかりました。美しい御人よ」
「っ…!」
悪人以外で人を積極的に殺したいと思ったのは初めてだ。
それも単なる不快感からとなれば、いかにこの男が変態かがわかるだろう。
(落ち着け、オレ。ほんのちょっとの付き合いじゃないか。なぁ、大人だろう? オレは大人だろう? 昔だって嫌なことはたくさんあった。駄目なやつでも嫌いなやつでも、仕事で嫌々従ったこともある。そうだ。これは仕事だ。アフターファイブには自由になれる特権があるゴリゴリの仕事なんだ。それが終われば解放されるんだ)
金を手に入れて、サナを買う。
そう考えればサナが極上の酒に思えてくる。かつて味わった、つらい仕事を終えたあとのビールが最高だったように。
(我慢。我慢だ。常に良い方向に考えるんだ。こんな変態なら死んだっていいじゃないか。そうだよ。不慮の事故で死んだって誰も哀しまない。いや、むしろ感謝されるかもしれない。ふー、ふー、落ち着こう。大人だ、オレは大人だ。ビジネスだ。金のためだ。いいな、よし!)
直視する覚悟を決めるだけで二分費やした。
まさに時間の無駄である。




