101話 「サナの朝練とホテルの食事」
「サナ、あれが『桃幻廊』みたいだぞ」
「…ごしごし。…じー」
「綺麗だな」
「…こくり」
サナが眠そうな目をこすりながら、ホテルのバルコニーで東の山脈に視線を移す。
太陽の光が反射して、二つの大きな山の間に幻想的な光の橋がかかる様子は、とても美しい。
見られる時間帯は朝の五時から三十分程度だが、それでも見る価値はあるものだった。
(あの山脈は、ハローワークの地図だと警戒区域になっていて詳しくは描かれてないな。遠くで見る分には安全ってことか)
山脈はグラス・ギースとハピ・クジュネの直線上にあり、南東に長く延びているため、西ルートと東ルートを隔てる最大の要因となっている。
警戒区域になっていることを考えれば、簡単に人が入れない危険な場所なのだろう。
「朝ご飯の前に軽く鍛錬をしようか。この前と逆説的な言い回しをするけど、戦術の前に個人の能力を高めることも大事だ。戦術は思いがけず破綻することがあるし、最後に頼りになるのはやっぱり地力だからね。個人の力が強くて損になることはない。そのうえで戦術も必要になる。つまりは両方大切だ」
個の力と戦術は相反するものではない。粘ることができれば強敵に対しても打開策を見い出すこともできるので、基本は個人の能力を高めることを優先したほうがいい。
たとえば先日教えた環境闘法は、その場の環境次第でやり方が変わるので、普段は教えたくても教えられないのだ。平時は個の能力を高める鍛錬を行うしかない。
何をやるにせよ、まずは武人になることが重要だ。
「サナには武人を目指してもらう。今後は【戦気】を出すことを想定した鍛錬を加えるから、しっかりとイメージを固めておくんだよ」
「…こくり」
「戦気を出すには、まずは生体磁気を高める必要がある。そのために【呼吸】が大事だ。酸素を体内に深く取り入れることで細胞を活性化させ、それによって生体磁気が一時的に増えるんだ。軽く試してみようか。はい、吸ってーーー、すーーーー!!」
「…こくり。すー」
「それから吸った酸素を燃焼させるように、吐くーーー、はーーーー!」
「…こくり、はー」
「吐く時間を長くするんだぞ。吸うのが1に対して、吐くのは3くらいかな。これを続けてー、すーはーーー! すーはーーー! すーはーーー!」
「…こくり、すーはーーー。すーはーーー。すーはーーー」
呼吸を繰り返していくと、身体の中がぽわぽわ温かくなるのがわかる。
呼吸は誰もが自然とやっていることなので意識しないが、こうして意図的にやるとかなりのエネルギーを使うものだ。
腹式呼吸をじっくりやるだけで十分なダイエットにもなるので、ぜひ試してみてほしい。
が、これはあくまで準備段階である。
「呼吸をして生体磁気を活性化させながら、今度は周囲からエネルギーをもらうイメージを浮かべてごらん。この星、この宇宙には無限の力が漂っている。それは幻でも塵でもない実在するエネルギーなんだ。そうだな、呼吸で生み出した力が種火だとすると、周囲の力は尽きることがない燃料のようなものだ。今体内で活性化した種火と化合させて一気に燃え上がらせる。こんなふうにね」
アンシュラオンの体表に一瞬で戦気が生まれる。
力強く、瑞々しくて、生命の輝きに満ちた美しい光だ。
「こんな感じで戦気を出してごらん。できるかな?」
「…こくり。…ぐっ」
サナが両手をぐっと握り締めて踏ん張る。
踏ん張って、踏ん張って、踏ん張るが―――何も起こらない
「…? …ぐっ。…ぐっ。…?」
「うーん、まだ駄目か。そりゃそうだよな。普通の小さな女の子だもんね」
サナは子供であり、その中でも特に身体が小さいほうだ。普通に考えて生体磁気の量は少ない。この段階でハンデが生まれている。
しかも彼女には『最大の弱点』があった。
(サナは【意思が弱い】。本当に無いのかは不明だけど、戦気を出すためには強い意思の力が必要だ。そうしないと神の粒子を操作できないからな。…まいったな。どうすればいいんだろう。お手上げか?)
武人がなぜ闘争本能を大事にするかといえば、それが戦気に直結するからだ。
戦う意思が精神エネルギーとなって、戦気をさらに燃え立たせる役割を果たす。意思は強ければ強いほどよいとされるのは、そのためだ。
この点においてもサナにはハンデがある。なかなか前途多難だ。
「サナ、戦気を使いたいか?」
「…じー、こくり」
「そっか。使いたいよな。楽しいもんな」
サナはじっとアンシュラオンの戦気を見つめている。
自分にはわかる。このリアクションは興味を持った証拠だ。けっして惰性で頷いているわけではない。
(意思が無いなんて誰が決めたんだ。たとえデータに表示されていたとしても、オレだけはサナを信じるぞ。あの時、自分の足でオレの場所まで歩いてきたんだ。サナがオレを選んだのは間違いない。少しばかり普通の人間より反応が希薄なだけなんだ)
「サナ、焦らずにじっくりいこう。地道な努力は絶対に実る。この呼吸を常に心がけるんだぞ」
「…こくり」
サナは最初のスタートラインで大幅に他者より出遅れている。教える側が普通の人間ならば見放すだろう。
しかし、サナの師匠となる男は―――アンシュラオン
覇王の下で修行した最強の因子を持つ男だ。こと戦闘にかけて不可能はない。
その後、しばらく呼吸の練習をしていると朝食の時間になった。
朝食は自室に届けてもらうこともできるが、サナのためにホテルのビュッフェを利用することにする。立食形式で好きなものを選べる仕組みは、地球のものと同じだ。
このホテルには子供連れの客も多く、朝から食堂は賑わっていた。
「好きなものを選んで皿に入れるんだぞ。自分でやってごらん」
「…こくり」
「最初に言っておくけど、ケーキや菓子類は二つまでだぞ」
「…じー」
「そんなに見つめても駄目だよ。放っておくとそればかりになっちゃうからね」
当然サナにも味の好みがあり、ケーキやお菓子といった甘いものが好きな傾向にある。
小さな女の子なので仕方がないとはいえ、グラス・ギースの馬車での一件でもお菓子ばかり選んでいたので、そこは少し注意が必要だ。
(まあ、武人になれば戦気の燃焼でエネルギーを使うから、いくら食べても太らないんだけどね。でも、今後のために心を鬼にしよう)
稀に武人でも太っている者がいるが、実際はほぼ筋肉の塊だ。生体磁気を活性化すれば、それによって適切なエネルギー消費が行われるし、周囲からエネルギーを吸収するので脂肪を蓄える意味がない。
脂肪をあえて武器にする武人でもない限り、『太る理由がない』のだ。
今回サナに注文を出したのは、そうした制限を設けることで意思を強化するためだ。思考を巡らせ、自分で考えさせる訓練でもある。
「さぁ、やってごらん」
「…こくり。とことこ」
サナを見送り、暇になったアンシュラオンも周囲の料理を見回す。
(オレは無理に食べる必要はないけど、ここで食べないと違和感がありすぎるな。サナと一緒に同じことをするだけでも楽しいし、何か適当に食べてみるか。この世界の生活習慣もあまり理解していなかったからね)
グラス・ギースにいた頃はサナの教育に集中していたので、食事は出されるものを何も考えずに食べていた。
が、こうして旅をする以上、サナのためにも下界のことをもっと理解すべきだろう。
(生活習慣というものは、その地域に流通する物資によって形成される。その土地の気候、風土によって特産が決まり、他地域との貿易の度合いによって多様性が生まれる。ハビナ・ザマは特に他地域からの輸入に頼っているようだから、平均的な文化を知るのに都合がいいな)
国や地域の特色はさまざまなものに表れるが、如実に見てとれるのが食生活である。
何がよく食べられ、何を食べないか。なぜ食べないのか。無いから食べないのか、それとも風土的な問題か、思想的な問題か、単に知らないだけか。
毎日違うものを食べていれば、それだけ流通がある証拠であるし、他の文化を受け入れる多様性と寛容さを持っていることを示すだろう。
アンシュラオンにとって、この大地は未知の土地。何をやるにも生活事情を知らねばならない。
もしサナ以外にスレイブを得るにしても、大半が東大陸の人間から選ぶだろう。管理の都合上、食事の理解は極めて重要な問題となる。
(うーん、屋台もそうだったけど、だいたい地球にあるのと同じだよな。主食は米とパンと麺って感じか。若干パンが多いかな?)
まず、主食は三種類ある。
食感がタイ米に似た『ランスン』、ライ麦パンに似た『タムタモ』、その米や麦を麺に加工した『スルジュ』。
どれも基本的にぱさついているので、パンはスープに浸して食べたり、米は炒めて味付けするのが一般的だ。麺もどちらかといえばスープに入れて食べる。
交易消費都市のハビナ・ザマは、これらすべての食材をハピ・クジュネから輸入している。自給自足ができないことは多少問題ではあるものの、それによって輸送業が活性化し、雇用と人の流れが生まれている。
一方、城塞都市のグラス・ギースに関していえば、七割を輸入、三割を自前でまかなっているようだ。砦のある第三城壁内部は土地が余っているので、そこで耕作を行っている。
ここで気になるのが両都市の関係だが、ハビナ・ザマとグラス・ギース間での公式の交易は存在せず、商人が自由に行き来することで自動的に貿易に近い状態が発生しているようだ。
グラス・ギースには食料を担当とする『ジングラス』という組織があるので、彼らがハピ・クジュネに赴いて直接買い付けているらしい。その足りない部分を外部からの商人とのやり取りでまかなっている、というわけだ。
(グラス・ギースは干物ばかりだったけど、こっちは普通に魚料理があるな)
グラス・ギース内部にも森や川があり、多少の魚は住んでいるが食用にするには数が少ないのが現状だ。
大半はハピ・クジュネから輸入しており、距離があるため新鮮なものは少なく、主に乾物類が中心となっている。
それと比べるとハビナ・ザマは衛星都市なだけあり、それなりに魚を使った料理も見られる。おそらく南に近づけば近づくほど海の幸は増えていくに違いない。
(肉は…これはなんだろう?)
近くに給仕の女性がいたので訊いてみる。
「ねぇ、この肉って何の肉?」
「それは、タルメアンという牛の肉です」
「魔獣なの?」
「一応魔獣ではありますけど、家畜ですから外にいる魔獣とは違いますね。品種改良もしているので肉も多く取れます」
「外で狩った魔獣とかは食べないの?」
「野生は癖が強いものが多いですし、ハピ・ヤックに大きな牧場があるので、当ホテルの肉はすべてそちらのものを使用しております。系列店すべてと契約しておりますので、良い肉をお安く提供できています」
「南のほうは畜産も盛んなんだね」
「山道も少なくなりますし、魔獣に襲われる危険性がぐっと減りますからね。畜産にとって一番の敵が家畜を襲う魔獣ですから、できるだけ安全な場所でないとできないのです」
「家畜だと戦う力もなさそうだしね。魔獣からすれば、ただの餌か」
ハピ・ヤックは、ここから先にあるハピナ・ラッソのさらに先、よりハピ・クジュネに近い場所にある街だ。
ハピ・クジュネに近いことから経済規模も大きく、平坦な地形と牧草地が多いため畜産業が盛んらしい。
(外で狩った魔獣を食べるほうが珍しいのか。まあ、どうせ食べるなら食肉用の品種のほうがいいよね。オレは肉は食べないけど)
サナには経験のために肉を食べさせてはいるが、アンシュラオン当人は肉は食べない。取り立てて食べる必要性がないのだ。
他の生物を体内に取り込むことは不純物にもなるので、場合によっては肉体の構成要素が劣化することもある。せいぜい食べて魚止まりであろうか。
とはいえ、今は魔人の肉体なのでその心配はない。どんなものを食べても自身が上位であるため影響はされないだろう。あくまで前世からの習慣にすぎない。
一方グラス・ギースでは、魔獣は貴重な資源として扱われている。
北部に魔獣が多いということは、魔獣という資源を持っていることを意味する。
味さえ気にしなければ単純に食肉として利用もできるし、珍しい素材が手に入れば売ることもできる。それを目当てにハンターも集まってくるので、放っておいても経済効果が生まれるのだ。
二つの都市を比べてみても、場所によってだいぶ環境が異なることがわかるだろう。
結論としては、品質は若干低いものの料理全般は地球に似ていて馴染みやすい。ただし地域によってだいぶ差があるので、都市を移動すれば一気に文化が変わる可能性がある。
(うーん、さすが高いホテルなだけあって、しっかりとしているよ。ただ、ハピ・クジュネとの供給ラインが切れたら食糧難になりそうで怖いな。物価も高いし、無理して滞在する場所じゃないか。少し気分転換したら、さっさと次の都市に移動したほうがよさそうだ)
炒めた米とおかずを適当に皿に盛り、サナの様子を観察する。
サナはじっと他の客を見つめながら、真似をして同じものを選んでいるようだ。
(そういえば、前にイタ嬢とのカードゲームも見よう見まねでやっていたな。同調する能力が高いのはいいことだが…自分で選んでいるといえるのか怪しいな。それにしても子供が多い。サナも同年代の友達が必要なのかな…)
と思っていると、二人の男の子が走ってきて、一人がサナにぶつかる。
サナは少しよろけたものの、なんとか踏みとどまって皿を落とさずに済んだ。
しかし、その子供たちは謝りもせずに行ってしまった。
(やっぱり子供でも男は駄目だな。がさつで醜い。あんなものをサナに近づけるわけにはいかん。ふむ、サナはどうするかな?)
本来ならば、「オレのサナになんてことを!」と激怒するところだが、サナがどういった反応をするかのほうが気になって、そのまま見守ることにする。
「どれも美味そうだな! どれにしよっか!」
「好きなもん食っていいんだよな! いっぱい入れちゃおうぜ!」
その男の子二人は、料理を選んでいてテンションが上がっているようだ。
このホテルに泊まるだけでもそこそこのお値段なので、来たからには精一杯満喫してやろうと思っているのだろう。さきほどぶつかったことも、そうしたことが要因らしい。
が、悪気はなかったにせよ、やったことには報いがあるものだ。
「…とことこ、どん」
「―――うぇ!?」
サナが男の子の背後にそっと近寄り―――押す
何の躊躇もなく背中を押し込んだので、いきなりの衝撃に男の子はなすすべなくバランスを崩し、隣にいたもう一人の男の子を巻き込んで料理に突っ込む。
ガラガラ ガシャーンッ
大量の料理が床にぶちまけられ、二人は油と汁まみれになる。
そこに慌てて父親がやってきた。
「こら、お前たち! 何をしてるんだ! 周りに迷惑だろう!」
「いたたた…ち、違うって! こいつが押したんだ!」
「お、俺も知らないって! いきなり後ろから押されて…」
「後ろになんて誰もいないだろう! また嘘をついたのか! こいつめ!」
「ひぃー! とうちゃん、許してくれよー! ちがう、違うって―――あべし!」
「…とことこ」
男の子が父親にビンタされている間に、サナは人込みを抜けてさっさと離脱。
背が小さく目立たないことと、押した瞬間には離脱したので、子供が突っ込んだ時にはすでに視界から消えていたのだ。
見事、仕返し成功である。
それを見ていたアンシュラオンは、満面の笑みだ。
(素晴らしい! やられたら三倍にしてやり返す。これぞ教育の賜物だよな。オレって教育者の才能があるんじゃないのか? いや、サナがすごいんだ! さすがオレの妹だ!)
「サナ、よくやった! ケーキは五つまでいいぞ!」
「…こくり、ぐっ!」
こうしてしっかり言うことを聞けばご褒美がもらえるので、サナはますますアンシュラオンの思想に染まっていくのであった。