目覚め
少女は目覚めていた。
夢の内容は目覚めた瞬間、忘れていた。
ただ、なにやら楽しげな記憶だけが残っている。
ぱちぱちと少女は瞬きを繰り返した。
闇。
ただふかい闇がどこまでもひろがってる。
身動きすると、少女はじぶんが全裸で、なにかどろりとした粘液のようなものにつつまれているのを感じていた。
おきあがる。
ふら──と、眩暈がして少女はしばらくうつむいていた。
目覚めるべきではなかった──。
奇妙な感覚がおしよせる。
後悔のような、戸惑いの感覚。
間違ったときに自分は目覚めた。
それだけはくっきりと心に焼き付いている。
「なぜ目覚めたのですか?」
ごぼごぼと泡立つような声が聞こえてきた。
少女は顔をあげた。
目の前に、なにかいる!
なんだろう?
闇の中、ふたつの瞳がじっと少女を見つめていた。
少女は両手を前へつきだした。
立ち上がろうとする。
が、ちからがはいらない。
つるりと足がすべり、どうと倒れこむ。
どぼり──。
とろりとした粘液の中に、まともに突っ込んでしまう。
必死に手探りをし、進む。
両手がなにか、ぶよぶよとしたものに触れた。
「灯りを──」
ふたたびさっきの声がして、ぽ……と、かすかなひかりがともった。
蝋燭一本ぶんの灯りなのに、まるで目に針を突き刺されるように痛んだ。
しばらく目をその灯りに慣れさせる必要があった。
ようやく瞳孔がすぼまり、少女はじぶんがあるものを見ていることを知った。
ぐにゃぐにゃとした不定形の生き物。
スライムである。
その表面には無数の繊毛がはえ、ざわざわと勝手な動きを繰り返している。原形質の身体の中心には核があり、小指のおおきさほどのゴルジ体やミトコンドリアがくねくねと透明な原形質のなかで蠢いているのがわかる。巨大な単細胞生物。その体内にふたつの眼球がうかび、ぎょろぎょろとあたりを見回している。
ふつうだと恐怖を感じるべき相手である。
しかし少女はまったく恐怖を感じることはなかった。
ただ相手が味方であることは本能的に判っていた。
どんなことがあっても、このスライムはじぶんを攻撃することはない。逆に、彼女に害する存在には、全力を尽くして戦い、命をかけて守るであろうことはわかっていた。
時間がすぎ、ようやく少女は立ち上がる気力がわいて出てくるのを覚えていた。
ふらつきながらも立ち上がる。
彼女ひとりが全身をひたすほどのプールのまんなかに立っていることを知る。
天井を見上げた。
ごつごつとした岩がむき出しで、どうやら洞窟の中のようだ。
「ここはどこ?」
声に出した途端、
──ここはどこ?
──ここはどこ?
と、木霊がかえってくる。
ごぼごぼ……。
スライムは全身を震わせ、声を出した。どうやら全身の繊毛が空気を震わせ、声を作っているようだ。
「ここはあなたさまの揺りかご。あなたさまの目覚めるまで、わたしはずっと見守り続けてきました。目覚めた今、わたしの役目は終わりました……」
「わたしを……守ってくれていたの?」
「そうですミリィさま……」
ミリィ!
それがじぶんの名前!
そうだ、わたしはミリィ!
衝撃にミリィは立ちすくんだ。
じぶんの顔!
そうだ、じぶんの顔を見たい。
あたしはどんな顔をしているのだろう?
「鏡!」
ミリィは叫んだ。
「鏡はないの?」
「ございます」
スライムはごぼごぼと答え、するすると床を這って移動した。
にゅるりと身体の一部を伸ばし、触手をつくる。
その触手に手鏡を掴んで戻ってくる。
「どうぞ……」
差し出された鏡を受け取りのぞきこむ。
そこに映し出されたのはたしかにじぶんの顔だ。
ふっくらとした頬。白い肌。それに燃えるような赤い髪の毛。のぞきこむじぶんの目は、びっくりするくらいおおきく、赤い髪の毛とは対照的なあざやかなブルーであった。
これがじぶんの顔か……。
しばらくミリィはじぶんの顔に見とれていた。
はっ、と顔をあげスライムを見る。
「ね、あたしどのくらいここで眠っていたの?」
「十五年くらいになりましょうか……赤ん坊のあなたはずっとあそこの」
と、触手をつかってプールを示した。
「浴槽で眠っておられました。あの浴槽の溶液はあなたさまの揺りかごであり、養育槽でもあります。あなたはあそこで眠りながら成長なさったのです」
「あたしはまだ目覚めるべきではなかった。なぜなの? どうしてそのときでないことが、わたしにはわかるのかしら? いったいわたしは……」
絶句する。
答えはない。
その答えを知る方法は……。
そうだ、自分はどこかへ行き、だれかに会わなくてはならない。
その相手は、運命のひと!
そう、自分は自分の運命を知るために旅立たねばならないのだ!
「あたし、外へ出たいの」
ざわざわとスライムの触手がなびいている。その体色が、めまぐるしく変化する。緑、青、紫となにか迷っているようだ。
「判りました……あなたさまが目覚めたとき、用意していた品がございます」
こちらへ、とスライムはミリィを案内した。
くねくねとつづく洞窟を移動し、スライムは触手に灯りの蝋燭を掴んで先導した。あとをついていくミリィは物珍しそうにあたりを見回している。
洞窟は意外と清潔で、床は歩きやすいように平坦になっている。
ミリィは足の裏で、洞窟が上へ向かっているのを感じた。スライムがかかげた明かりに、洞窟の先が二手に分かれているのを目にする。右側の方向へ歩き出そうとするミリィを、スライムはそっと触手を伸ばして止めた。
「そちらではありません。こちらへ……」
「こっちにはなにがあるの?」
スライムは無言だった。ミリィはちょっと眉をひそめた。なんだか秘密めかしている。決然とミリィは禁じられた方向へ歩き出した。スライムはぶるぶると震えた。
「い……いけません! そちらは……」
「そちらは? なにがあるというの?」
ふたたびスライムは黙り込んでしまった。頭をぐいと上げ、ミリィは歩き出した。なにがあろうと、絶対に確かめてみるつもりだった。ふりむくとスライムはぶるぶると震えたまま、立ち止まってミリィを見送っている。
洞窟の奥は暗かった。
歩くと、下り坂になっていて、ミリィの足ははやまった。
どのくらい下ったろうか、空気がやがてひやりとしたものに変わっていた。
ぞくぞくとミリィの背筋に寒気がはいのぼる。裸でいることを強く意識する。
なんだろう、なにがあるというのだろう?
次第に彼女の足取りは遅くなる。じりじりと小刻みに足を動かし、用心深く進む。
──来てはいけない!
──帰れ!
いきなり、ミリィの頭の中でこのような命令が聞こえてきた。耳に聞こえる声ではなく、心の中に直接ひびく強い命令がミリィの足をとどめた。
「だれ? だれなの、あたしに命令するのは?」
ミリィは闇に向かって叫んだ。頭髪がちりちりと逆立つ感触がして、恐ろしさにミリィは震えていたが、それでも正体を知ろうという欲求に踏みとどまっていた。
──帰れ!
ふたたび、さらに強い命令がミリィを揺り動かした。それは厳然たる衝動で、ミリィはもはやそれに抗することは不可能になったことを悟っていた。
くるりとふりむき、走り出す。
──帰れ、帰るのだ!
──二度とここに足を踏み入れてはならぬ!
その声に、ミリィは両手で耳をふさいでいた。
わあわあと恐怖に喚きつつ、ミリィは入り口に戻っていた。
スライムが待っていた。その側にミリィはがくりと膝を落とし、喘いだ。
「だからおよしなさいと申し上げたのです」
ミリィは顔をあげた。
「いったい、あそこにはなにがあるの? 教えて!」
スライムはかぶりをふった。
「わかりません、知らないのです。ただ、禁じられた場所であることは判ります。もう、あそこへいらっしゃらないように……」
念を押されなくとも、ミリィは二度とあそこへ足を踏み入れる気力をなくしていた。がくがくとなんどもうなずくと、彼女は立ち上がった。
「案内して……」
どうぞ、とスライムはミリィをもとの通廊へとみちびいた。
やがてスライムは洞窟の横にあいた小部屋にミリィを案内した。
さきほどの浴槽のようなものが置いてあり、脇にいくつもの桶がならんでいる。
浴槽にはあたたかな湯が沸いていた。
湯の中に手をいれると、ちょうどいい湯加減である。
「どうぞ、その溶液を洗い落としてください。身体を拭いて、あなたさまが外へ出られるための服を用意しましょう」
いったいいつの間に風呂の用意をしておいたのだろうか?
ずっと眠っていたのに、ミリィは風呂のことも知っているし、スライムの言葉も理解できる。だが疑問は浮かばなかった。それが自然だと思っていたからだ。
ミリィはスライムに指示されたように風呂に身体をしずめ、身体についたねばねばとした溶液を洗い落とした。身体を拭くと、スライムが彼女のために用意したと言う服をもってあらわれた。
簡素な下着。鮮やかなオレンジ色の上着。黒いタイツ。腰をしめるための革のベルト。やわ
らかで、ふかい緑色のフードつきのマント。膝もとまで覆う革靴。
それらをスライムは手際よく着付けてくれる。
最後に渡されたのはしなやかな革の鞭であった。
顔に疑問が出たのだろう。スライムはしかめつらしく答えた。
「外はいろいろな意味で危険がまっております。その鞭は魔法のちからがこめられた武器であり、さまざまな用途に使える道具でもあります。どうぞお気をつけください」
鞭を腰のベルトに結わえると、ミリィの外出のしたくは完成した。
「それからこれを持っていってください」
スライムはミリィに肩からさげるカバンを手渡した。
中をのぞくと、何日間ぶんの食料や、ずしりと重い金袋がはいっている。
「食料は大事につかえば十日はもつでしょう。十日もあれば、近くの人里に出ますから、そこで宿に停まるか、食料を補給なさってください。そのための金を用意しております」
「いろいろ有難う」
ミリィが礼を言うと、スライムは全身を震わせた。
「いいえ、これがわたしの使命なのですから。それも今日で終わりになりました。どうぞごきげんよう。ミリィさまのお幸せを祈っております」
ええ……と答えたミリィはしばらく立ちつくした。
と、だしぬけにミリィはスライムに覆いかぶさり、ぎゅっとその原形質の身体を抱きしめた。
「あなたのことは忘れないわ!」
スライムは興奮したのか、体色を真っ赤に染めた。
抱擁がおわり、ミリィは決然と立ち上がり、歩き出した。
ほのかな明かりを目指し、歩いていく。




