擬音と会話が排除された文章についての試作
春にしては冷たい風が通り抜ける。真昼の陽光は未だ力強さを持たず、しかし成長を予感させる若さに満ちていた。若い猛禽が空を渡り、高く鳴き声を響かせる。
ベルム王立学園。王族や貴族の子弟のみが入学を許される、王国屈指の高等教育機関である。その教育内容は教養、礼法から科学、詩歌、そして戦闘訓練に至るまで多岐に渡り、半期に一度の考査で水準に満たぬものはその身分に関わらず追放される厳格な気風で知られていた。卒業には栄光が約束され、落第には嘲笑と冷遇の未来が待つと怖れられ、入学を避ける者もいるこの学園の中庭を、一人の精悍な若者が早足で歩いていた。
青年の軍靴が中庭の土を踏む音が、規則正しいリズムを奏でる。やがて青年は、渡り廊下に一人の少女の姿を認め、その名を呼んだ。
エルザ、と呼ばれた少女は、声の主を振り向くと、嬉しさと苦しさがないまぜになった表情を浮かべる。そしてエルザは青年を殿下と呼んだ。風が吹き、中庭の木々が揺れる。
殿下と呼ばれた青年は、進級に際してエルザとクラスが別れてしまったことを、口惜しそうに告げた。エルザもまた、気落ちした様子でうなずく。青年は言い訳のように、この学園内では外の権力は通用しないのだと、どうしようもなかったのだと奥歯を噛んだ。エルザは承知していることを告げ、自らの手を胸の前で握り、固く目を閉じ、クラスが別れることの意味を語った。クラスが別れる。それは、互いが敵同士となったことを意味する。もはや会うことすら許されぬのだと口を結ぶエルザに、青年は身を乗り出して憤りを叫んだ。クラス分けなどというもののために心を抑圧されることはないと、青年は腕を振り足を踏み鳴らす。愛の不変を説く青年に、エルザの目が潤んだ。
憤りに身を任せたことを恥じたのか、青年は大きく息を吐いて感情を整えると、共に学園の在り方を変えようと、エルザに手を差し出した。感極まったエルザが青年に駆け寄り、そのたくましい胸に飛び込む。青年はエルザの背に手を回し、強く抱きしめた。しかし……
信じられぬものを見るように、青年の目が大きく見開かれる。エルザの手には、いつの間にか短剣が握られていた。根元まで刃が突き刺さった腹部から赤い血が滲む。青年が発した途切れ途切れの問いに、エルザは楽しげな嗤い声と共に告げる。クラスが違えば敵同士、ならば二人はすでに敵同士なのだと。
青年の身体が滑り落ちるように崩れ、膝をつく。傷口からは血がこぼれ、地面に血だまりを作った。傷が内臓に達していたのだろう、青年の口からも血が溢れる。血まみれの口で、青年はエルザへの想いを語った。しかしエルザは血も凍る瞳で青年を見下ろし、愛の不変性を否定した。エルザの名を呼びながら、青年は自らの血だまりに倒れる。エルザは満足げな笑みを浮かべ、すでに意識もないであろう青年に向け、かつて愛していたことを告げると、一片の後悔もないというように背を伸ばし、その場を去って行った。
エルザが去ってしばらくの後、青年はおもむろにその身体を起こした。エルザの姿がないことを確認し、安堵が口を突く。気配なく側に潜んでいた密偵が姿を現し、青年の前に膝をついて頭を垂れた。密偵に、エルザにこの芝居が気付かれていないことを確認し、青年はエルザの詰めの甘さを嘲笑した。立ち上がり、凝り固まった肩をほぐして、青年は密偵に自らを死者とするよう告げると、運命を楽しむように不敵な笑みを浮かべた。
無人の廊下にヒールの音を響かせながら、エルザは誰にともなく呼びかける。すると影のように潜んでいた密偵が姿を現し、青年――王太子が自らの死を装うことを告げた。エルザの表情が我知らず緩む。自らの先読みに確証を得た笑みであった。しかしエルザはすぐに表情を改め、冷徹な策略家の顔で密偵に王太子の厳重な監視を命じた。自らの死を装い、王太子は建国の秘宝を手に入れるべく動き出すだろう。エルザはそれを監視し、王太子が秘宝を手に入れたそのときに、秘宝を奪うつもりでいた。そしてエルザがこの国の頂に立つのだ。血統という何の保証にもならないものを根拠に、暗愚な一族が国を統べる、その不合理な現実を変えるために。
命を受けた密偵が、闇に溶けるように姿を消した。薄暗い無人の廊下で、エルザは未来を確信するかのような不敵な笑みを浮かべた。
伝わるものが違うだろうか。
伝わらないものが違うだろうか。
何も伝わらないだろうか。
何か伝わってしまうだろうか。