後編 「巻貝の螺旋に耳を寄せれば」
螺旋型の殻を押さえ、突き刺した爪楊枝をグリグリ回す。
殻から伝わる僅かな余熱も、一面に生えたトゲトゲの痛みも、その先に待っている美食の喜びを思えば、なんて事はないよ。
「さぁ…どうかな?」
そうして爪楊枝を軽く引けば、ベージュっぽい身がニュルンと飛び出て、焦げた醤油の芳香が食欲を刺激するんだ。
「うん…良い焼き加減だよ!」
歯ごたえ抜群の身を噛み砕けば、醤油と日本酒で味付けされた濃厚な旨味が口の中に広がり、自ずと頬が緩んじゃうね。
螺旋状に渦を巻いた灰色の内臓も、程良い苦味が良いアクセントになるし。
そうして磯の芳香と苦味で一杯になった口腔へ、冷たいビールを一気に流し込むと、本当に堪えられないんだ。
「うん、良いね!サザエの壺焼きに冷えた生ビール…日本で過ごす海辺の夏の、これぞ理想形かな。」
大浜海岸に立ち並ぶ、観光客向けの食堂や料理旅館。
その中の一軒である、水着着用が許可されている食堂のテラス席から海辺を望めば、海水浴客の賑やかな喧騒が聞こえてきて、夏休みの昼下がり気分を存分に盛り上げてくれる。
軒に吊された風鈴が潮風に揺られて涼しげな音色を立てるのも、ワビサビに満ちた風情があるよね。
とは言え、そんな私の物思いは敢え無くぶち壊されちゃうんだけど。
「そんなサザエやホタテばかり食べなくても…貝類への八つ当たりは良くないよ、美竜さん。幾ら浜辺で赤っ恥かいたからって。」
紺のセパレート水着姿でテラス席に向かい合って座っている、ゼミ友の蒲生さんの手でね。
ビールの肴として注文したイカ焼きに蒲生さんが集中してくれていたら、このまま私も忘れられたのになぁ。
「もう…それを言わないでよ、蒲生さん。私だって気にしてんだからさ。」
「はいはい…でも良い眺めだったよ、美竜さん。セクシーなビキニ姿で尻餅ついて開脚ポーズ…あんな悩ましい姿は、なかなか見られる物じゃないって。」
面白そうに笑いかけてくる蒲生さんの脳内では、ずっこけた私の間抜けな姿がリピート再生されてるんだろうな。
「蒲生さんったら、またそんな事言うんだから…」
まさかとは思いたいけど、こういうハプニングを期待して、蒲生さんは私にビキニを着せたのかな?
あーあ、ヤダヤダ…
「こうなった以上は、お酒の力で全てを忘れるしかないみたいだね…次に頼むピッチャーは、私1人で飲んじゃうから!」
中ジョッキを一気に呷り、唇に残る白い泡をサッと拭う。
袖の無い水着姿だから、ついつい手で拭いちゃったよ。
「そうやって飲む口実を作るんだから…同じ貝類相手でも、私は恨みっこ抜きでエレガントに付き合うもんね。」
そんな私を尻目に、また蒲生さんったら貝殻を耳に当てようとしてるよ。
「さぁ、美しい巻貝さん…また波の音を聞かせてよ!」
オマケに乙女チックな小芝居まで盛り込むんだから、全く呆れちゃうな。
茶番に付き合い続けるのもしんどいから、海でも見てようっと。
だけど次の瞬間に聞こえてきたのは、女子大生の甲高い悲鳴だったんだ。
「熱っ!何これ!?」
「どうしたの、蒲生さん?!あっ、これは…」
足元に投げ捨てられた貝殻は、さっきの綺麗な巻貝じゃなかったよ。
「これ、私が食べてた壺焼きサザエの貝殻だよ。中の汁が美味しいから楽しみに取っといたんだ。」
何せ、日本酒と醤油で美味しく味付けされていたからね。
冷酒と一緒に飲みたかったのになぁ…
「うわあっ!耳に醤油が入っちゃったよ~っ!」
耳に水が入った時の要領で、首を傾けてピョンピョンと飛び跳ねる蒲生さん。
その形の良い耳からは、香ばしい醤油の汁がポタポタと滴っていたんだ。
「美竜さんを笑った罰が当たったのかな、私?こんな事なら、ちゃんと貝殻の中身を見ときゃ良かったよ…」
「私も旨い汁を吸えなかったんだから痛み分けだよ、蒲生さん。」
とはいえセパレートの水着姿でピョンピョン飛び跳ねる蒲生さんは、なかなか可愛くて見応えがあるね。
蒲生さんの言葉を借りるなら、実に良い眺めだよ。
お互いに良い夏休みの思い出が出来たんだから、おアイコだね、蒲生さん。