第十一話 使うわけではないんですが、そういう余裕が、心の平安をもたらしてくれるんです
風が頬を撫で、髪を盛大に乱す。
眼下の風景はあっという間に移動し、浮遊感にはいつまで経っても慣れない。
「ご主人、もっと遠慮なく抱きしめてくれ」
「グリフォンから落ちないようにしているだけだよなぁ!」
だが、トールとしては、それを気にしている場合ではなかった。
「というか、これは、ちょっとくっつきすぎじゃないだろうか?」
「ご主人、あまり気にしていると落ちてしまうぞ」
グリフォンの背で、前から順番に、リン、アルフィエル、トールと並んでいるこの状況。トールがアルフィエルの腰に捕まり、アルフィエルはリンを自らの膝に乗せている。
グリフォンの鞍に《耐久》のルーンを描いて、クラテールの耐荷重性能を上昇させることで、重量問題は解決した。
大きさも、三人運ぶ分には問題ない。
しかし、鞍に座れているアルフィエルとその上のリンは比較的安定しているが、直接背中に乗っているトールはかなり不安定だった。
トールとアルフィエルを入れ替える案もあったのだが……。
「ととと、トールさんとくっついて空を飛ぶんですか!? 私の願望とか妄想とかではなく!? し、死ぬ? 死ねと言われているんですか私!?」
と、拒絶されてしまったのでやむを得ない。
「まあ、俺は落ちても護符があるから大丈夫だけどさ……」
「うむ。それでこの席順にしたんだが、失敗かもしれないな」
「いや、これしかなかったろ?」
「仮にだが、ご主人が落ちた後、トゥイリンドウェン姫がどうなるか」
「くっ。仕方ねえ……」
グリフォンの背で、トールは後ろからアルフィエルの腰に手を回し、ぎゅっと密着した。クラシカルなメイド服は、生地もそれなりに厚みがある。
それでも、しなやかでいて柔らかい感触は充分に伝わってきた。ダークエルフ特有のと言っていいだろうが、軽々と矛盾を越える感触は反則だ。
その気がなくても、いや、ないからこそいろいろよろしくない。
必死に意識をそらすと、至近距離にある白い髪から、甘い香りがした。石けんは、同じエルフ製のものを使っているはずなのに、この違いはどこから来るのか。
現実逃避気味に考えてみたものの、答えは出なかった。
「すまないな、トゥイリンドウェン姫。自分だけ、いい目を見てしまって」
「え? アルフィがいい目見てるの?」
「いえ、そんな。トールさんと一緒に飛んでいる。それだけで、私は、私はもうっ!?」
リンが手綱を握る手に力が入り、それに釣られてグリフォンが傾いた。
「うおおおっ」
ほんのわずかだったが、乗っているほうとしてはたまったものではない。
「あのほんと、頼むから落ち着いてな」
「そうだな。落下したら自分には、なにもすることができないからな」
「いや、そこは全力で助けるけどさぁ!」
空の旅はほんの10分ほどだったが、かなり消耗させられるものだった。
グリーンスライムとの二度目の遭遇は、とてもスムーズだった。
グリフォンが降り立つと同時に、人の形を模したグリーンスライムの端末が沼から浮かび上がる。
アルフィエルが生ゴミを与えると、グリーンスライムはぱくりと吸収。
そして、沼から吐き出したのは、一本のワインだった。
それを拾い上げながら、トールは感心したように言う。
「なるほど。瓶に入ってれば、ワインもありなのか」
「タダノサケデハナク ナカミハマホウノヤクヒンダガナ」
「ほう、エリクサーの類いか」
「というか、中身把握してたのかよ」
トールがツッコミを入れると、グリーンスライムの端末は妙にこなれた仕草でうなずいた。
「カンタンナコウカシカ ワカラヌガナ」
「それで、エイルフィードの弓とか渡してたのかよ」
「コレハ ソコマデデハナイ」
「まあ、エリクサーって言っても、元はただのワインだろ?」
「タダノ ホレグスリダ」
「危険物じゃねーか!」
反射的に、トールはワインを投げていた。
「ご主人」
「トールさん」
リンが駆け出し、アルフィエルが組んだ両手を踏み台にして飛び上がった。
転びがちな普段のリンとは、まるで違う。鋭く、華やかで、まるで舞台のような動きで、トールが投げ込んだワインをキャッチした。
「それを捨てるなんて」
「とんでもないですよ!」
そして、空中でくるりと一回転し、落下するリンをアルフィエルが受け止めた。
「え? なに? サーカス? 雑伎団?」
トールの頭上に、クエスチョンマークが踊る。目の前の光景を、現実として処理することで、かなりの負荷がかかっているようだった。
「ご主人、冷静に考えるのだ」
「どう考えても、結論は変わらないと思うんだが……。というか、今の動きはなんなんだよ」
トールのツッコミも精彩を欠いていた。
その隙を縫って……というわけではないが、アルフィエルが畳み掛ける。
「この惚れ薬が誰かの手に渡ったら、どうするのだ」
「そうですよ。トールさんが言う通り、危険物です」
「まあ、それはそうなんだが……」
本当に冷静に語られたので戸惑いつつ、トールは首を振る。
「俺がそんなの持ってるの、嫌というか、不安だろ?」
「ん? そんなことはないが」
使うはずがないと思っているのか。
それとも、使われてもいいと言うのか。
「……言いそうだ」
それはそれで困る。
「まあ、創薬師である自分が管理すれば済む話だからな」
「そうですね。いざというときに、備えた物ですから」
「いざって、どんなときだよ。鎌倉かよ」
通じないと分かっていても、言わずにはいられないトールだった。
リンが相手だと良くあると言えば良くあることなので、エルフの末姫はそのまま思いの丈を語り始める。
「いえ、こう、一大事に備えて! とか、いつか使おうと虎視眈々とタイミングを狙う! とか、そういうわけではないんですよ。ないんですが、そういう薬がある。使おうと思えば使うことができる。使うわけではないんですが、そういう余裕が、心の平安をもたらしてくれるんです」
「うむ。分かるぞ」
「ええ……。分かっちゃうの……?」
それは、本当にどうかと思う。
そもそも、リンは、トールの告白を聞いたらショック死するとまで言っていたのに。
「病になってから、薬を用意しても遅いからな」
「普通は、病気になってから薬を処方してもらうんだけど」
これが、供給側と消費者の違いだろうか。
「それに、こちらで管理することで、見知らぬ誰かにトールさんに惚れ薬を使われずに済みますから」
「その前提はおかしい」
見知らぬ誰かが惚れ薬を使う。どんな想定をしたら、生まれるシチュエーションなのか。トールには、まったく理解が及ばなかった。
というか、怖すぎる。
「ご主人、こう考えてはどうか」
「発想を逆転させろとか、そういう話か?」
「そうだ。あれ一本で、トゥイリンドウェン姫の精神的な安定が買えるなら安い物だと考えるんだ」
「理解した」
トールは、即答した。
この上なく、分かりやすい理由だったから。
リンはヤンデレではないので、ご安心ください。
ただ、興奮しすぎているだけです。




