第一話 ……話には聞いてたけど、会うのは初めてだ
リンと別れ、歩くこと半日。ようやく、目的地であり、これからのトールの住処となる山奥の隠れ家が見えてきた。
日が沈みかけるまで、ほとんど休みは取らず歩きづめ。しかし、靴に《耐久》と《旅行》のルーンが刻んであるため、疲れはない。
数百キロの道のりを、馬よりも速く移動し続けたにもかかわらずだ。
それに、トールの中では疲労よりも新生活への期待のほうが大きかった。
「仕事しなくていい」
山道の先にある一軒の小屋。
新生活の拠点となる隠れ家の輪郭を視界に収めながら、トールは足を止めた。
刻印術の師が姿を消してから一年。
正確には、動き出していた国を挙げてのプロジェクトを丸投げされてから一年。
休みなく毎日毎日毎日ブロックにGペンでルーンを刻み刻み刻み続けた日々を思い起こし……トールはニヤリと笑った。
「もう、仕事をしなくていい! いや、仕事なんかしない!」
誰もいないのをいいことに、拳を振り上げた。解放感と万能感に浮き足立っている。心得とか習慣があれば、足を踏み、ダンスを踊っていたかも知れない。
「たった一年でこれだけの仕事をこなすなんて、トールさんの故郷は、どんな国なんです?」
「社畜の国……かな……?」
という、リンとの会話すら懐かしい。
プロジェクトはなんとか終了し、トールは宮廷刻印術師の地位を辞退して引きこもりライフを満喫することになったのだった。
「今日はもう遅いけど、明日からは隠れ家の整備をして、生活基盤を整えて……」
慰謝料代わりに受け取った、師匠の隠れ家。
社畜している間に家具などは用意し、リフォームも終わっている。米や小麦粉、調味料などの食料も運び込んであり、仕上げにトールがルーンを刻めば快適な引きこもりライフが始まる。
明るい未来を思い浮かべ、今度は声を出して笑う。
「くはははは。これで、マンガ描き放題だ!」
こっちに転移してからずっとGペンや丸ペンを握り続けていたが、それはルーンを刻むため。
思い返してみれば、趣味の漫画を描く時間など、ほとんどなかった。というより、ここ一年は本当に仕事をしていた記憶しかない。
だが、これからは違う。
「金はある、時間もある、自由もある。んっんっー、完璧……だなこれは」
希望を胸に、トールは坂道を歩き始める。
新居はもう、すぐそこ。
マンガのため王都を出て、マンガのため山奥で引きこもりライフを満喫するのだ。
しかし、トールは落とし穴の存在に、気付いていなかった。締め切りがないのであんまり描かない……という身も蓋もない未来に。
いや、それ以前に。
いきなり同居人が増えるという未来すら、このときのトールは想像もしていなかった。
「《エドラ》」
ようやく隠れ家にたどり着いたトールが、《施錠》のルーンを解除する合言葉を唱える。
登録者が発したキーワードにより、薄い木の扉が内側に開いていった。
荷物を置いて着替えたら、シャワーの用意。食事は、エルフの携帯食料とワインで軽く済まそう。
今日はさっさと寝て、本格的に動くのは明日からだ。
トールは家の中に入りつつ、これからの予定をまとめる。
だから、それは完全に不意打ちだった。
暗がりから、なにかが飛んできてトールの胸元に突き刺さる――寸前、アミュレットに刻まれた《防御》のルーンが発動した。
虹色に輝く波紋のような光が、暗い室内を一瞬照らし出す。
「……おうわっ」
ナイフを投げつけられた。
それに気付いたのは、《防御》のルーンで弾いたそれが、足下を転がってから。
焦りながらも、トールは逃げ出そうとしない。アミュレットの《防御》はまだ発動できるし、他にも身を守る手立てはある。
だから、今は確認が先決。
「と、とりあえず、《カラド》」
エルフの言葉で、光を意味する単語。
天井に刻まれていた《燈火》のルーンが反応して周囲の魔力を変換し、室内が明るい光に包まれた。
入ってすぐは、リビングになっている。
部屋の真ん中には大きめのテーブルと、数脚の椅子。壁際には棚やチェストが並べられており、刻印術やそれ以外の素材が詰め込まれていた。
そのひとつにもたれかかる形で、うずくまる人影がひとつあった。呼吸をするだけで苦しそうに顔を歪め、それでも、気丈にトールをにらみつけている。
まるで、手負いの獣。
しかし、当然、彼女は獣などではなかった。
「……話には聞いてたけど、会うのは初めてだ」
褐色の肌に白い髪、すらりとした長い手足、リンと同じ長い耳。
細身でありながら、エルフとは明確に異なる魅惑的なプロポーション。
ダークエルフだった。
麻袋を流用したかのような、粗末な衣服を身にまとっていても、その美しさはいささかも減じていない。
エルフの国アマルセル=ダエア。その北に、グラモールというダークエルフの国がある。それは、トールも知識としては知っていた。
ただし、敵対こそしていないが交流もほとんどない。王都で、ダークエルフを見かけることもなかった。
そして、そのダークエルフの少女は、エルフらしからぬ巨乳を片腕でかき抱き、切れ長の瞳でトールをにらみつけていた。
そこに含まれている感情は、敵意と怯え。世界そのものに不審を抱き、警戒感をあらわにしている。
目に見える部分に怪我は見当たらない。けれど、普通の状態でないのは一目で分かる。片手にもう一本のナイフを握っているが、それだけで苦しそう。
怜悧な美貌を屈辱に歪めたまま、それでも、逃げ出す素振りは見せなかった。
いや、逃げることなどできないのだ。
「これは病気……じゃなくて、呪いか」
刻印術師として教育を受けたトールは、魔力を読むことができる。すぐに判別できるだけでも、《衰弱》、《減速》、《幻惑》の呪いをかけられているのが分かった。
中でも、生命力を徐々に奪っていく《衰弱》が特に厄介だ。先ほどの攻撃だけでも、かなりの生命力を削ったはず。
これでは、歩くこともままならない。
呪いを感知できなければ、なにかの病気や毒だと誤った判断をしてしまうことだろう。そして、誤診は致命的な事態を引き起こす。
そのことだけを考えても、かなり悪辣だ。トールも、舌打ちをこらえるのがやっと。
ダークエルフの少女が、どこから来てどうやって家の中に入ったのか分からない。だが、解呪しなければ命に関わる。
見るからに強力な呪い。それでも、トールならダークエルフの少女を助けることができる……が。
「……近……づ……くな……」
短く、明確な拒絶。
トールは、立ち止まらざるを得なかった。近付こうとしただけでこうも敵意をむき出しにされては、なにもできない。
下手に抵抗されたら、それだけで《衰弱》の呪いが発動し、命にかかわる。
それにしても、喋るだけで辛そうにしているにもかかわらずこの反応。この意思の強さが、彼女の命を繋いでいるのかもしれなかった。
助けたい。
トールは、純粋にそれだけを思った。
「その呪い、俺なら解くことができる」
「…………」
トールにとっては紛れもない事実だが、ダークエルフの少女に信じられるはずもない。
無理矢理試みても、ナイフを自分自身へ向けかねなかった。それ以前に、《衰弱》の呪いで死んでしまいかねない。
「分かった」
観念したトールは、どっかりと腰を下ろした。
「呪いを解く前に、まず俺のことを話そう」
真剣で、真摯な言葉。
「せっかく引きこもりライフを始めようって時に、人死が出たら寝覚めが悪いったらないからな」
余りにも予想外で、自分勝手で、有無を言わせぬ言葉。
拒否もできず、ダークエルフの少女は痛みも忘れて食い入るようにトールを見つめた。