第十話 じゃあ、リンちゃんとかアルフィちゃんみたいな方向で特別扱いする?
トールが頭角を現すまでは、アマルセル=ダエアにおいて間違いなく最高の刻印術師であったレアニル。
弟子に上回られたものの、優れた刻印術師を育てた手腕によって、業界内では逆に評価を高めていた。
しかし、突然の失踪。
人格面はともかく、技術面では非常に惜しまれることとなった。
様々な憶測は流れたが、どれひとつとして正鵠を射ることはなく時は流れ……。
そんな彼女が、突然帰還した。
しかも、その直後に自らの工房に引きこもり、なにやら新たなルーンを編み出したというではないか。
その筋では非常に驚かれたが、宮廷刻印術師に復帰せずウルヒア王子から直接仕事を請け負うことになり、さらに仰天させられた者も多い。
この段階で、興味のベクトルが別方向へも伸びていく。
彼の王子は、サリオンに続いて一体なにを作るつもりなのかと。
「トール様、助かりました」
「いえ、こっちこそ師匠を引き取ってもらってありがとうございます」
しかして、その実態は単なる強制労働。もちろん、エルフ基準であって、社畜の本場で生まれ育ったトールからするとヌルイの一言だったが。
「では、トール様。お名残惜しいですが、わたくしも仕事ですので、これで失礼させていただきます」
「ほんと、信じられないかもしれませんが、一応、本人に悪気はないんで、適当におだてて上手いこと働かせてください」
「弟子ーーー! 憶えとれよぅ、ワレェ!」
レアニルを追ってきた王宮のメイドに引き渡しつつ、トールは頭を下げる。
聞けば、脱走の常習犯のようだ。恐らく、そうやって適度にガス抜きさせているのだろう。
我が師ながら情けない……というよりは、師匠らしいと乾いた笑いを浮かべてしまう。
「それにしても……」
市場の雑踏を、首根っこ掴まれて引きずられていく師の姿を網膜に映しつつ、異邦の刻印術師は首を振った。
「なんだったんだ、このイベント……?」
「まあ、王都にいるんだし、出会う確率はゼロじゃあないかな?」
「天文学的確率は、ほぼゼロと言い切っていいのでは?」
「むしろ、トールくんは今までに意味のあるイベントに出会いすぎだよね」
突然の転移。
リンとの邂逅。
刻印術との出会い。
そして、衰弱したアルフィエルとの遭遇。
カヤノやエイルフィード神にしてもそうだ。
「言われてみると確かに……って。今はそんなことより、カヤノだ」
「あ、自力で気付いたね」
「ニワトリじゃないんだから、そうそう忘れるはずないって」
これを、シンクロニシティと言うべきなのだろうか。
ユニコーンの馬車へと戻ろうと踵を返したトールの視界に、柵の中を元気に走り回るニワトリの姿が入ってきた。
どうやら、その先は家畜を扱うエリアになっているようだった。
「……ニワトリか」
「え? さすがの神サマも、学習したよ?」
トールが動きを止めそちらを見ているのに気付いたエイルフィード神が、ぎょっとした表情で言う。
「カニは惜しいことしたかなって、ちょっと思ってるけど」
「食べる話はしてないから。ほんと、振りじゃないからね?」
「分かってるよ。さすがに、目の前で丸焼きになられたら神サマでも困るもん」
傍若無人に見えるエイルフィード神だが、別に暗君でも暴君でもない。きちんと情理を尽くして、行動もできる。
「朝ご飯も食べてきたし、ニワトリ一羽丸々はさすがに重たいし」
「全部食べる前提!?」
「そこはだって、神サマのために捧げられた命だから」
「そこはちゃんと、相手のことも考えてるんだ」
「もちろん」
誇らしげに、アルフィエルに匹敵する胸を張るエイルフィード神。
そのまま、ドヤ顔で続ける。
「ただ、そういう配慮をトールくんに向けないだけだよ!」
「そんな特別扱い、要らない」
「じゃあ、リンちゃんとかアルフィちゃんみたいな方向で特別扱いする?」
「そのままの神サマでいて」
トールは一瞬で日和った。
当然だ。誰だって、命は惜しい。
「えー? ここはそろそろ、一歩進んでみるところじゃない?」
「もう崖っぷちなんで」
二時間ドラマなら、一時間四十分は経過しているところだ。
「単に、リンとアルフィへのお土産は、ああいうのでもいいかもなって思っただけで」
「つまりトールくんは、カヤノちゃんと仲直りできたお祝いにニワトリの丸焼きが食べたいから、買っていって調理してもらおうって言いたいのかな?」
「ニワトリ以外、欠片も当たってないんだけどそれは」
「ニアピンだったかー」
「擦ってもねえ」
だいたい、食べ物は駄目だという話をしたばかりのはずだ。
「えー。だって、美味しい物を買ってきても普通に喜ぶだけだけど、トールくんに美味しいものを食べさせられるってなったら、大喜びでしょ? 二人とも」
「うん。ちょっとかなりリアルに想像できたから、やめよう?」
自分はそこまでの人間ではない……という謙遜ではない。
このままだと、縛る物の沼に落ちていきそうな予感がしただけだ。底はない。
「食べるんじゃなくて、いや、食べるけど。卵目当てで飼育するのがメインでさ」
「なるほど。その発想は神サマもなかったよ」
「プレゼントなのに、余計な手間を掛けさせるという発想はないよな、普通……」
下手に脱走でもされたら困るので、遠くからニワトリたちを眺めつつトールは言った。
王都へ行ったプレゼントに、家畜を買ってくる。
トールも、ちょっとなにを言っているのか分からない。
「え? でも、いいんじゃない? 二人とも喜ぶと思うな。最悪、グリフォンのご飯にすればいいしね」
「弱肉強食っ」
「ふふり。自然の基本だよ」
だとすると、トールもエイルフィード神に捕食されることになってしまうのだが……。
トールは、考えるのをやめた。
「それに、リンちゃんとか、『トールさんに美味しい卵料理を提供できる機会を与えて下さるなんて、私なんかのために、なんてお優しい。神? トールさんは現人神!? ありがとうございます! ありがとうございます!』って言いそうだよね」
「あー。やっぱ、やめようかな……」
しかし、帰ったらエイルフィード神は絶対にこの話をするだろう。
そうなれば、リンが哀しそうにこちらを無言で見つめるのは確定的。
「まあまあ、トールくん。今すぐ決めなくてもさ、とりあえずキープでいいんじゃないかな?」
「……そうですね」
とりあえず、ウルヒアからの補給物資で卵が不足しているわけでも、質に満足していないわけでもないのだ。
他になにも思い浮かばなかったときのセーフティネットができたと思えばいい。
ただ、エイルフィード神は確信しているようだが。
「しかし、あれだな」
「ん? どうかした?」
「普通なら、ここは師匠の行動とかがヒントになって、プレゼントの筋道を付けるところなのにな……って」
本当に偶然出会って、エルフのメイドさんに引き渡しただけだ。
なんら寄与していない。
「ま、そういうところもらしいよね」
「……ノーコメントで」
もちろん、師に配慮したわけではない。
ただ、下手なことを言ったら、また巻き込まれそうな気がした。
本気で、ただそれだけだった。
師匠、即退場。
それどころか、モブメイドさんや想像のリンのほうがセリフ多かったね?