第十話 思い知らせてくれるぞ、弟子ぃ!
「勝ったな」
紆余曲折を経て取り戻した、王都の工房。
その地下室で、トールの刻印術の師であるレアニルは傲慢な笑みを顔に張り付かせていた。
トールが目にしたら、「そういう顔しているときの師匠は、とんでもないことをやらかすから近付かないほうがいい」と忠告をしたことだろう。
だが、幸か不幸かこの場にはレアニル以外は存在していなかった。それどころか、地下室は濃い暗闇に閉ざされ、エルフでさえも見通すのは困難な状態。
別に地下が趣味というわけではない。ただ単に、ウルヒア王子から最も壁の厚い場所で作業をするよう厳命を受けていただけだ。
以前なら公然と無視をしたところだろうが、今では公権力の怖さを思い知っているため、一も二もなく従っていた。
堕落ではない。
最終的に勝てばいいのである。そのためであれば、作業場所など問題ではなかった。
理詰めで法的根拠を交えた正論を延々と浴びせかけられ、精神が壊死しかけたとかそんなことは絶対にない。ないのだ。
「ワシは、これで月に行くぞ。ふっ、ふはははははっっ。弟子の吠え面が、今から目に浮かぶわい」
暗闇に包まれていた地下室に光が点った。
照明の光ではない。
レアニルの視線の先にある作品。それ自体が、光を放っているのだ。
「ようやっと正常に起動したの、《輝夜》のルーンよ」
それをトールが見たならば、牛車と呼んだだろう。
ただし、その前に、小さなとつけて。
御簾を上げて内部を点検しながら、レアニルは完全に勝利を確信していた。
引くもののいない牛車は、その代わりというわけではないが車輪に雲をまとって宙に浮いている。
ただし、光を発しているのは、雲の部分だけではない。
各種のルーンで補強され、強化された牛車そのものが光輝いているのだ。
勝利をもたらす物に相応しい品格。
「勝ったな、ガハハハハっ」
哄笑が地下室に響き渡った。
無理もない。
弟子経由ではなく、過去の客人から直接聞いた竹取物語。
ただのひしお職人と侮っていたが、得られた情報はとても有益だった。
かぐや姫を迎えに来たという、月の使者。
モデルになったらしいレアニル自身はそんな物で帰った記憶はないのだが、そこから、ひとつのオリジナルルーンを生み出した。
月との行き来に特化した、《輝夜》のルーン。
ただ、それもただ刻めばいいと言う物ではなかった。
素材にも、格というものがある。
ルーンは万能で、文字により現実を改変――奇跡をもたらすが、刻印されたものがそれに耐えられるとは限らない。
ルーンによって、人を剛力に、敏捷に、頑健に、賢く、判断力に溢れ、魅力的にすることはできる。だが、その魔力に耐えられる存在は、そうはない。いたとしても、こんなルーンは必要ないだろう。
月へ赴くための《輝夜》のルーン。
創造することはできたが、それにミスラルや霊木は耐えることができなかった。《不老》と《不死》のルーンを刻まれ、肉体と精神が崩壊した伝説の凶王のように。
また、いくら素材自体を強化しても、限界があった。
八方ふさがり。
それでも、レアニルは諦めなかった。
その規格外のルーンを刻み、発動させるために。
弟子に、自らの力を思い知らせるために。
自らが、最高の刻印術師だと証明するために。
ウルヒアから、霊樹の枝を手に入れた。
国宝級の素材だ。これで駄目なら諦めるしかないところだったが、神はレアニルに微笑んでくれた。
否。
この課題を出された時点で、レアニルはエイルフィード神に愛されていた。間違いない。
先日届けられた、課題である月へ届ける手紙を懐から取り出し、レアニルは確信する。
「弟子も無理難題に今頃あっぷあっぷで努力をしておるじゃろうが、無駄無駄無駄無駄無駄なことよぉ!」
牛車の中に入りどっかりと座ったレアニルは、笑う嘲う嗤う。
素材の関係で小さくなってしまったが、レアニルにはちょうど良いサイズだ。
なお、内容も読まずに契約書へサインをしたが、レアニルの頭からその事実はさっぱり消え失せている。勝てば良いのだ。それがすべて。
そのために、特別な仕掛けも内蔵していた。あらゆる面で、負けることなどあり得ない。
「どんな手管をもワシの《輝夜》には敵わぬわ。同じ環境で育ったならば、ワシのほうが格上。否、遥かに格上。そのことを思い知らせてくれるぞ、弟子ぃ!」
地下室に、レアニルの声が響き渡る。
決戦の時は、すぐそこ。
レアニルから、今頃あっぷあっぷで努力をしているだろうと言われていたトールは、家の前の空き地。グリフォンたちの厩舎があるほうで、多少は努力をしようとしていた。
「ここが、決戦の地となるのか……」
「そんな大層なもんじゃないけどね」
先日渡されたエイルフィード神からの手紙をポケットにしまいながら、トールはあんまり期待しないようにとアルフィエルへ釘を刺した。
けれど、効果はない。
「いや、人の子たる自分たちが月を目指すのだ。それを大事業と言わずして、なんと言えばいい?」
「ほんと、そんな大層なもんじゃないから!」
広さで言えば畑のほうが上だろうが、さすがにそちらでやるわけにはいかない。
グリフォンやユニコーンたちに悪いなと思いつつ、トールはたらいに入った砂を片手ですくった。ローションではない。砂だ。
「だが、ご主人の世界で月に行った方法を再現するのだろう?」
「え? そんなこと言ったっけ? そもそも、できっこないって」
「そうなのか?」
「ロケット……って、なんて説明すればいいんだ?」
ローションではなく、地下の火鉢で強化してから《聖別》のルーンをかけた砂を慎重に地面へと落としていきながら、トールは少しだけ悩む素振りを見せた。
「お城とかに塔があるだろ?」
「それが、月とどんな関係があるのだ?」
「その塔を、下からとんでもない炎で撃ち出して、月へたどり着いたんだ。ものすごく、大ざっぱな説明だけどな」
「火山の話か?」
「まあ、イメージは近いか」
火山の噴火で宇宙へ追い出された究極生物もいたのだ。原理的に不可能ではない……はず。
「そんなことをしたら、山が崩れてしまうぞ?」
「だから、こうして砂で《召喚》のルーンを描こうとしているわけだ」
「なるほどな」
「分かってくれたか」
「トゥイリンドウェン姫とカヤノとエイル様を遠ざけた意味もな」
「勘のいいメイドは大歓迎だ」
悪意はない。
ただ、安全策を採っただけだ。
というわけで、二人は協力して地面へ魔法陣を描き、さらにトールが円の中に緻密なルーンを砂絵で刻んでいった。
さすがに、これはトールも初めての経験。それなのに、その手際は魔法のよう。浮き出るように、魔法陣が形作られていく。アルフィエルは足を引っ張らないようにするのがやっと。
「ほとんど、役立たずだった……」
「そんなことないけど、助かったよ。思ったより早く終わったし」
マッサージによるドーピングがなければ、こうはならなかっただろう。
だが、トールは、賢明にも感謝は心の中で捧げるに留めた。
「あとは、定着して周囲の魔力を吸収するまで待つだけだな」
「なるほど。月へ行けるような存在を呼び出して、一緒に月へ……。いや、手紙さえ届けばいいのだから、ご主人が行かなくとも、代わりに月へ運んでもらえばいいのか」
ようやくトールの作戦が判明し、アルフィエルは安堵の表情を見せた。
トールのことは誰よりも信頼しているが、なかなか意図が見えずやきもきとしていたのだ。
「考え方としては、そうなるね」
「……うん?」
しかし、すべての不安が払拭されたわけではなかった。
「そこにあのマンガの原稿が、どう関係してくるのだ?」
「どうって……。マンガは読んで楽しむものだよ」
まだ明かせないと、トールが煙に巻こうとする。
こうなると、アルフィエルにはどうしようもない。
だから、別のアプローチを試みるしかなかった。
「やはり、トゥイリンドウェン姫にマッサージを伝授せねば……」
「お、脅しには屈しないぞー」
厩舎にいたグリフォンも、その問題にはあんまり詳しくないんですが、いきなりマッサージじゃなくて、手をつなぐところから始めたほうが賢明じゃないですかねという顔でトールとアルフィエルを見つめていた。
決戦の時は、すぐそこ。
師匠はトールくんに負けて歪んだわけではなく、元々こんなエルフです。