第八話 やけにエイル様の絵が多いようだが?
「体が軽い……」
アルフィエルからマッサージを受けた翌日。そう、あくまでもあれはマッサージだった。その証拠に、かつてなく快調。
まったく、完全にマッサージだ。
切り株のテーブルで作業しながら、トールはマッサージのポジティブな側面だけを考える。
もう何時間も作業をしているが疲労を感じないし、目も腰も快調そのもの。途中で、背筋を伸ばしたり肩を回したりする必要もない。
肉体面だけでなく、精神的にもいつになく前向きだ。
面倒な背景を描くのも苦にならない。記憶力も上がっているのか、資料を見なくてもすらすら描けてしまう。
マッサージは疲労を取るためのものという先入観があったが、それだけではないことを身を以て思い知った。
怖いぐらいの調子の良さ。ほんの数時間でネームは切れてしまい、下書きも過去最高速で終わり、すでにペン入れへと進んでいる。
しかも、まっすぐ線を引くのに定規も要らない。さすがにウルヒアに作ってもらったスクリーントーン無しでは無理だが、それを削る手はいつもよりもずっと早い。
まるで、魔法のようだ。
実際、魔法のような薬を使用していたことは都合良く忘れ、トールは素直に感心していた。
「これなら、定期的にやってもらっても……」
独り言を言いかけて、トールは慌てて口を押さえた。森の自室には誰もいない。他の誰かに聞かれる危険はない。
だが、その油断こそ命取り。
二度三度と施術を受けたら、アルフィエルに溺れてしまう。その確信がトールにはあった。
けれど……。
なぜ、溺れてはいけないのだろう? どうして? そうしてはならない理由があるのだろうか?
いけない。
意思を強く持たなければ。
「マッサージになんか、絶対に負けたりなんかしない……って、こうやってネタにしている時点で負けだろ」
そのマッサージの効果か。
頭で別のことを考えながらも、手は下書きの線を丁寧に。自分で引いている線とは思えないほど、綺麗に描けていた。
そのまま無意識にペン入れを続け、1ページあっさり終わったところで、トールはようやく気付いた。
「え? 俺、マジ画力上がってない? やべえ……これやべえ……マジこれやべえ……」
まるでプロの玉稿のような仕上がり。雑誌に掲載されていても、不思議ではない。いや、その中でも一際目を引く1ページだ。
画力がマンガの面白さを保証をするわけではないが、そうでないよりはいいはず。実際、面白いからと勧めても、絵が嫌いと断られた経験は一度や二度ではない。
「誰が線入れたんだ。俺か、俺かよ、俺だよ……」
前にマッサージを受けたときは、ここまでではなかった。普通に気持ちが良かっただけだった。それなのに、この効果は一体……。
「また、アルフィのマッサージを受けたら……?」
それは当然の。誰が損をするわけでもない、当たり前の発想。
「いや、駄目だ駄目だ」
いけない。その先に待っているのは、依存症だ。悪魔の誘惑を振り払うように、トールはぴしゃりと自分の頬を叩く。
「今回は仕方がないけど、身の丈に合わないことを望むんじゃあない」
自分自身に言い聞かせるようにして、それでもこの奇跡が続いている間にと、ペン入れを進めて行く。
「ご主人、順調か?」
「ん? ああ」
息抜きにと、レモネードを持ってトールの元にアルフィエルが訪れたのは、そんなタイミングだった。
トールは、そちらを見ずに、軽くうなずいた。
後は無言でそのまま線を引き続る。あまりにも調子が良すぎて、途中で原稿を確認するような雑念にも囚われたりしない。もちろん、裏返してデッサンが崩れていたり確認するようなことも。
合間でレモネードを飲んだような気もするが、気のせいだと言われたら素直にうなずいていただろう。
それくらい集中して、最後まで終わらせてしまった。
「ご主人、描き終わったのか?」
「ああ。お陰様で……」
終わったというか、終わらせたというか、終わってしまったというか。
なんとも複雑な気分でトールは、ずっと一緒にいたらしいアルフィエルへ曖昧にうなずいた。
「見ても構わないか?」
「ああ。台詞は入ってないけど」
「おお……。今まで見せてもらった物より、一際引き込まれるな。自分はマンガのことはよく分からないが、これは広く受け入れられるのではないか?」
目をきらきらさせて絶賛するアルフィエルに、トールは複雑な笑顔を見せる。
褒められるのは嬉しいが、自分の手柄ではない。でも、やっぱり嬉しいものは嬉しい。
そんな表情だった。
「しかし、これはトゥイリンドウェン姫にカヤノに……自分たちか?」
「ああ。前から描いていたのとは別の原稿だよ」
結果として、それは正解だった。途中でクオリティがガラリと変わることになるのだ。マッサージに手を出して、最初から描き直しせざるを得ないところだった。
「それは構わないのだが、やけにエイル様の絵が多いようだが?」
「そこは仕様なんで」
「むう……」
不満だが口にするわけにはいかず、アルフィエルは頬を膨らます。
あまりに可愛くて、トールは思わず吹き出してしまった。とても、マッサージでこちらを翻弄したダークエルフのメイドと同一人物とは思えない。
「ご主人の好きなように描くべきだとは思うが、その……マンガのことだけではなくだな……」
「師匠の件?」
「うむ。この家が失われるようなことがないのは分かっている。分かっているんだぞ?」
それでも、一度芽生えた不安は、なかなか消えないということなのだろう。
「心配ないよ」
安請け合いと受け取られないよう気をつけて。
それでも、軽いトーンは払拭できずトールは手を横に振る。
「これも、師匠の勝負の一環で描いたようなもんだから」
「は? これを?」
切り株のテーブルに散らばる原稿を眺め、トールの顔を凝視し。アルフィエルはひとつの答えにたどり着く。
「まさか、マンガの原稿にルーンを仕込んで?」
「それこそまさかだよ」
無理無理と、氷が溶けて薄くなったレモネードの残りを飲み干した。
「マンガで月に行ったことにはできないしね」
「では、どうするのだ」
「月に行くのと、来てもらうの。どっちが楽だろうね?」
「……ご主人、大丈夫か? もう一度、マッサージするか?」
「いや、もう充分だから!」
「なるほど。これが前振りというやつだな?」
「ちっ、がーうっ!」
ある意味で、アルフィエルのマッサージは、間違いなくレアニルとの勝負に貢献をしていた。
ダークエルフのメイド自身がそれを知るには、当日まで待たねばならなかった。
ドーピング検査には引っかからないので、セーフ。




