第七話 疲労など鎧袖一触だ
「ところでご主人」
「話変わるのかよ。本当に、話変わるんだろうな?」
「愛する人に触れられると、嬉しく楽しく気持ち良く――つまり、幸せになる。これは間違いないだろう?」
「ちゃんと話が変わった……。まあ、一般論としては、そうじゃないか?」
緊張したり、自分の体の欠点が気になったりとそれだけではないだろう。それでも、気持ちが通じ合っているのであれば、基本的にはポジティブな行為になるはず。
トールの返答に、アルフィエルは満足気にうなずく。
「そこで、このローションだ」
ようやく、創薬師が被験者に効果を説明し始めた。ペットボトルの中身はローションなのだが。
「どこでだよ」
「マッサージにだ」
冷静に。
極めて落ち着いた様子で語るアルフィエルは、まるで科学者のよう。
「非常に薄めて成分も変わってはいるが、このローションを塗った相手に愛情を感じ、多幸感を得られる。そこにマッサージによる血行促進などの効果を合わせれば、疲労など鎧袖一触だ。むしろ、より調子が良くなるまである」
「危ない薬の説明にしか聞こえないんだが」
「ふふふ。そんなことはないぞ」
にじり寄ってくるアルフィエルに反論を試みるが、笑って受け流された。
「安全性は問題ない。エイル様のお墨付きだ」
「なんてもんに、お墨付き与えてんの!? 神様、落ち着いて!?」
「大丈夫、大丈夫。成分に問題はないってことだから。実際に使われるのは、今この瞬間が初めてだよ」
「大丈夫な要素、どっかにあった!?」
ぜえはあと息を吐くトール。
明らかに、疲労感を憶えていた。いや、徒労か。
「それはともかく、トールくんのちょっといいとこ見てみたいなー」
「カヤノの前で止めろ」
「らー?」
幼いカヤノとしては、トールのリアクションが面白くて見ていただけ。それを見せるなとはどういうことなのだろうと、首を傾げた。
アホ毛も、一緒に揺れる。
「そうだよねぇ。カヤノっちぐらい若いと、マッサージの意味も気持ち良さも分かんないよねぇ。でも、トールくんにはいいことだから」
「アー! パー! がんばっ」
エイルフィード神とカヤノは、ハンモックからエールを送った。SSS席だ。
「外野! 分かってるなら、カヤノを連れてどっか行くとか配慮しよう?」
「え~? ヤダ」
「交渉の余地がねえ」
交換条件も出せない以上、交渉にならないのは残念ながら当然。トールだって、例えばウルヒアが犠牲者だったら手を叩いて笑っていたはずだ。
もちろん、施術するのはアルフィエル以外に限るが……。
「説明も終わったことだし、そろそろ始めよう」
ペットボトルを傍らに置いたダークエルフのメイドが主人の手を引き、ベッドの中央に敷いたシートへうつ伏せに寝かせた。
強引ではないが、抵抗の余地など挟ませない断固とした行動。
ひんやりとしたシートに接し、トールは再び身を震わす。シートの横に置かれた、たらいが目に入ったのとは関係がない……はずだ。
「トールさん、リラックスですよ!」
「ラー!」
「そこの二人は、意味理解してるのか? いや、やっぱいい」
していたら困るし、説明を求められたらもっと困る。
マッサージを受けることを了承した手前、本気で逃げることもできず。アルフィエルに悪意がないことも分かっているため、従うしかないトール。
「大丈夫。リラックスしたら、いいアイディアも思い浮かぶ」
「もう、構想はちゃんとできてるんだって」
「――ご主人、始めるぞ」
問答無用。
人肌に温められたぬるりとした液体が背中に垂れ落ちる。
「ひゃうっ」
驚いて変な声が出てしまった。あわてて手で口を押さえるが、一度出た言葉は消えない。
「大丈夫です。トールさん、可愛い声でしたから!」
「アー! パー! せえふ!」
完全にアウトだ。議論の余地なく。
トールは羞恥で頬を赤く染め、うつむいてしまう。
その姿が、どう見えるか考えることもせずに。
「いいぞ、ご主人。そのまま力を抜いて……」
「あ、ああ……」
弛緩した上半身に、アルフィエルがローションを塗り広げていく。丁寧に、優しく。それでいて、粘つくような手つきで。
「んっ……。あっ……これは……」
最初は違和感しかなかったが、馴染んでいくにつれじんわりと暖かさが体の芯へ伝わってくる。ぬるま湯に伝わっている様な快さに、指先から伝わるアルフィエルの真心が加わり自然と声が出る。
「トールさん、気持ちよさそうです」
「次は、指を一本一本ほぐしていくぞ」
「そんなところまで――」
やらなくてもとは、言えなかった。
ローションでぐちょぐちょになったアルフィエルの繊細な指が絡まり、未体験の感覚がトールの脳まで届く。
ただ指が絡まり合っているだけなのに、まぶたが落ちる。動く度に聞こえてくるきゅぽきゅぽっという音が耳朶を打った。
「あっ……。ああ……。あああ……」
特に疲れているという自覚はなかった。
しかし、全身が溶けていくような感触に、それが誤りだったことを思い知らされた。
じんわりと暖かく、気持ちいい。
一度認めてしまったら、もう、歯止めは利かない。
「はあ……。ふぅ……」
「マッサージは熱したチーズを扱うように、優しく丁寧に。これが、母から教わったマッサージの基本にして極意だ」
「んっ、ああ……」
アルフィエルがなにか言っているが、トールの意識は朦朧としている。
指、手首、腕、肩。
さすられ、揉まれ、ほぐされ。気持ちいいとか、痛いとか感じる前に、声しか出なくなっていく。ついさっきまで、あれだけ声が出るのを恥ずかしがっていたというのに。
「あ、アルフィ……」
「ああ。自分は、ここにいるぞ……」
優しい声が聞こえるだけで背筋が震え、ローションのように粘つき思考を覆い尽くす。
いつの間にか、抵抗する気は失せていた。骨抜きとはまさにこのこと。自分の力だけでは、起き上がることもできないだろう。
為すがまま、すべてをアルフィエルへと委ねる。
まるで、ダークエルフのメイドに包まれているよう。
そして、それがとてつもない幸せだった。
「ご主人はいつも頑張っているから、念入りにほぐさなくてはな」
「アルフィ、やさしくして……」
「もちろんだ」
アルフィエルが、慈母のように微笑む。
なぜか、トールにはその笑顔がはっきりと見えた。
とても哲学的な体験だった。
トールは、後にそう語った……という記録は残っていない。
だが、誰かの記憶には残っているかもしれなかった。
トールくんの喘ぎ声とか誰得なのか(我に返った)




