第三話 世界は広いけど、月と言えば、あの月だよねぇ
誤字報告ありがとうございます。助かっています。
「そこまで言うんじゃったら、弟子に決めさせてやろう。うむ。それがいい」
「師匠が言い出したことじゃねえか……」
ドヤ顔をする師匠に、トールは髪をかき上げ天井を見上げた。解決策は見えない。
レアニルと争いたいとも、優劣を付けたいとも一度も思ったことはないのだ。有利になるぞと言われても、まったく嬉しくはなかった。
「そもそも、師匠の言うことを聞く必要も、戦う理由もないというか」
だから、レアニルがかぐや姫のモデルだったという衝撃が過ぎ去ると、要望に応えようという気がなくなってしまう。
それに疑問を抱いたのが、アルフィエルだ。
「いいのか、ご主人?」
「なにが?」
「仕事を山積みで残されて、恨みがあったりしないのか?」
「あー……」
トールが隠居した直接の理由は、本来レアニルと一緒にこなす予定だった王都防衛機構サリオンの導入を一人でこなしたから。
その激務に耐えかねて、王宮刻印術師を辞めたのだ。ウルヒアは休職と言っているが、トールに戻るつもりはない。
だが、同時に、恨むような気持ちもなくなっていた。
「それも、まあ、結構休んで癒されたというか、役に立ってくれたから別にいいっていうか……」
言いながら、トールは気付いた。
「とっくに、過去のことになってたんだな」
そう、過去だ。
それはつまり、アルフィやリンやカヤノ。ついでにウルヒアやグリーンスライムとの日常が忙しくも楽しくて、どうでも良くなったのだ。
すべては、この家があったからこそ。
それを用意してくれた師に、恨みの感情を抱くはずもない。
「なるほどのう……」
しかし、レアニルがそれで引き下がるはずがなかった。
「ワシと勝負しないんじゃったら、この家、返してもらおうかの」
にやりとエルフの刻印術師が笑う。弱点を見つけて、嬉しそうに。
……現在の状況をわきまえもせずに。
「トールさん、やはり処分しますね?」
「姫さま!? 弟子に一体なにをされたんじゃ!? いくらなんでも、忠犬過ぎるじゃろ!?」
「……忠犬?」
リンが眉根を寄せ、怪訝な表情を浮かべる。
忠犬。その言葉の意味を理解し……。
「トールさん、私が将来なりたいものが見えた気がします」
深い深い確信とともに断言した。
断言されたほうは、たまったものではない。
「ほんと、リンは自分の将来を大事にして! あと、それエイルさんが満面の笑みを浮かべてるから止めてっ」
「ニヤニヤなんかしてないよー。あ、でも、あとは若い人たちでどーぞどーぞ」
「どうもしねえよ! あと、全次元に存在する普通の愛犬家に謝れ!」
トールは、ぜえはあと息を吐いた。酸素が足りない。そのうち、体力も足りなくなりそうだ。
「トゥイリンドウェン姫が忠犬なら、自分は雌豚……か……?」
「か……? じゃ、ねえよ。ええいっ、マジでツッコミがおいつかねえ!」
「かーのは!」
「カヤノがなるのは、世界樹だろ!」
ツッコミのし過ぎで倒れてしまうかもしれない。わりと、真剣に。
そんなことになるわけにはいかないので、トールは師匠に視線を向けた。
「結局、師匠は俺に勝ちたいだけなんだよな?」
「だけとはなんじゃ。あの屈辱、失望、落胆。忘れはせぬ。弟子をけちょんけちょんに打ちのめして惨めな思いをさせたそのときにこそ、ワシは失われた矜持を取り戻すのじゃ」
「けちょんけちょんって」
平安時代にもそんざいしたのだろうか、けちょんけちょん。
それはともかく、やはり、命の取り合いまでは必要なさそうだが、適当に負けるわけにもいかない。あの師が、対策をしないはずがないからだ。
「ワシに負けた場合でも、この家から出て行ってもらおうか。なあに、このワシを打ち負かした天才じゃったら、全然余裕じゃろうがな!」
「相変わらず、性質が悪い師匠だな」
刻印術師としての腕はともかく、かなり小物っぽさがある。リンとはまた違った意味で。
そんな師匠に、どう対応するか。
トールには、ひとつ心当たりがあった。
より上の権威で、対応するのだ。
「ここは、責任を取ってもらうという意味でも、エイルさんに決めてもらおうか」
「え? 神サマ、バカンス中なのに?」
「カレーの代金ぐらいは働いてもいいんじゃねえの?」
「えー?」
「確かに、ご主人よりもたくさんカレーを食べているな。いや、食べてくれるのは嬉しいし、残るよりはずっといいのだが……」
直系の孫とでも言うべきアルフィエルにまで微妙な反応をされ、エイルフィード神は傷ついた。自業自得なのに。
「分かったよ」
神の威厳の危機だと、エイルフィード神が立ち上がった。物理的な意味でも。
「じゃあ、神サマがばちっと決めてあげようじゃあないか。地上にルーンをもたらした者としてね」
そう宣言した天空神の緩んでいた表情はきりりと引き締まり、心なしか後光が差しているようにも見えた。
まさに、神だ。
「天空神様の言葉とあれば、否やはありませぬ」
その威光に打たれ、レアニルは恭しく同意した。
「俺も基本的には受け入れるけど、無茶苦茶だったら拒否するからな」
「弟子ぃぃぃ! なにを言うとるんじゃ、ワレェ!」
「さすがご主人だな」
「俺も学習するんだ」
神の言葉だろうと無条件に従うつもりはないという傲慢さからではなく、エイルフィード神だからこそ警戒している。
そう臆面もなく言い放ったトールにも、エイルフィード神は怒りを見せる様子はない。むしろ、ぞんざいに扱われて嬉しそうだ。
「そんな、無茶苦茶言うつもりはないけどね……って、えいっ」
特に最後の「えいっ」の部分を可愛らしく言うと、指の間に二通の封書が現れた。飾り気はないが、上質な紙を使用しているのが見て取れた。
宛名には、月と闇の女神リュリムの名が記されている。
「ルーンを用いて、この手紙を先に月へ届けること。それを、神サマからの課題にします」
「月というか、あの月か……?」
「世界は広いけど、月と言えば、あの月だよねぇ」
アルフィエルの問いを、エイルフィード神は間髪を入れず肯定した。
当事者のうち、師は口を開けてぽかんとし、弟子はそれはないと首を横に振った。
レアニルの反応は困難さに呆然としたものだが、トールは違う。
「まーた、ウルが可哀想なことになりそうだな……」
さすがに、黙ってというわけにはいかない。
報告を受けて対処するエルフの貴公子に、トールは同情の念を禁じ得なかった。
他人事のように。




