39 堕天
『売られたはずの姉が帰ってきて――』
そんな母親の言葉を聞いた瞬間、エルレアは急にこの家が自分の居場所では無いような気がしていた。
家族を他人のように感じ、体を抱く妹の腕が気味悪い異物のように思える。
何より不気味なのは――それを、母が一切悪びれもせずに言い切ったということ。
エルレアは、未だに現実を受け入れきれていない。
あまりにあっけない真実の吐露に、落ち着く時間すら与えられていなかったからだ。
もし、本当に、母親の言っていた”売った”という言葉が事実だとするのなら――
彼女自身も妙だとは思っていたのだ。
家計にそんな余裕なんて無かったはずなのに、なぜ家が新しくなっているのか。
エルレアは聖女として手足を分け与え、その対価として両親は金銭を受け取っていた。
それは、父親の右腕が使えなくなって以降、生活費を補うために重ねた借金を返済するために使っていたはず。
完済したと言っていた気はするけれど、かといって林業でそこまで贅沢が出来るほど稼げるとも思えない。
そこから導き出される答えは一つ。
やはり、エルレアは売られていたのだ。
誘拐などではなく、家族の意志によって。
「えっと、次は何を話そうか……」
パーラはニコニコと上機嫌に、エルレアの向かいの椅子に座りながらほぼ一方的に話を続けている。
見ての通り、パーラがエルレアの帰還を歓迎しているのもまた事実なのだ。
それが彼女を余計に混乱させていた。
「あっ、そうだ大切なこと忘れてた」
「大切なこと?」
「ことっていうか、人なのかな? どっちでもいいや、とにかくヴェルを呼んでこないと!」
椅子に座るなりパーラは慌ただしく立ち上がると、部屋を出ていこうとする。
「えっ……ちょっと、パーラ待ってください!」
その声は彼女に届かない。
離れていく足音を聞いて、エルレアは大きくため息を付いた。
ヴェルはエルレアの幼馴染で、同い年の男だ。
隣の家に住んでおり、幼い頃から家族のように深い付き合いをしてきた。
恋人同士だったわけではないが、お互いに淡い感情を抱いていたのは確かだった。
しかし、エルレアが今の体になってからは、少し距離を置かれていた。
確かに再会したい気持ちもあったが――その感情を恐怖が上回っている。
パーラが戻ってくるまでに、さほど時間はかからなかった。
部屋に近づく足音は2つに増えている。
「お姉ちゃん、ただいまー!」
部屋に入るなり声をあげたのはパーラだけで、ヴェルの声は聞こえない。
けれど彼女とは明らかに違う、男性の匂いが混じっている。
彼がそこに居るのは明らかだった。
「ヴェル……」
「久しぶりだな、エルレア」
返ってきた声のトーンは低かった。
元からあまり明るい方では無かったが、彼もまたエルレアとの再会を素直に喜んでいないことがわかる。
別離の以前から関係がぎくしゃくしていたせいなのか、それとも――
「さ、ヴェルも突っ立ってないでここに座って」
「ああ、そうだな」
そしてまた、エルレアは違和感を覚える。
両親の呼び方が名前に変わっていたように、パーラもなぜかヴェルの事を呼び捨てで呼んでいたからだ。
以前はヴェル”さん”だったはずなのに。
エルレアはほんの1年だと思っていたが、想像していた以上に1年という月日は長く、人間を変えてしまうのか。
「ここでお姉ちゃんにご報告がありますっ」
「どうしたの?」
「実は、私とヴェルはこのたび、結婚することになりましたーっ!」
「パチパチパチー!」と自分で言いながら手を叩くパーラ。
「え、結婚? え、えっと、いつの間に、そんな……」
素直に祝福などできるはずがない。
戸惑うエルレアに、しかしパーラは相変わらず浮かれた様子で話を続ける。
「お姉ちゃんが居なくなってから2ヶ月後ぐらいだったかな。ヴェルが私を慰めてくれて、そのまま恋人になったの。実は誘拐じゃなくてお姉ちゃんが売られたってことをカミングアウトする時は緊張したけど、ヴェルはそれでも私のことが好きだって言ってくれたんだ。すっごく嬉しかった!」
当たり前のことのように話すパーラに、エルレアはもはや何を聞いて良いのかもわからない。
自分を売ったという事実を、なぜそんなに簡単に言えるのか。
それに、ヴェルも知っていたのだ。
いや、彼の場合はだからこそ、彼女との再会に乗り気ではなかった。
まだ罪の意識があるだけマシかもしれない。
だとしても――それを許容した上でパーラとの結婚を決めると言うのは、正気の沙汰とは思えないが。
「わ、私ね、パーラが何を言っているのかぜんぜんわからないの」
「何が? あ、そっか……お姉ちゃんもヴェルのこと好きだったもんね。ごめん、でもヴェルは私を選んでくれたから。けど大丈夫、私とヴェルでお姉ちゃんの世話はちゃあんとするから、今度こそ、私たちみんなで幸せになろうね!」
言葉の意味は理解できるのに、脳がそれらを受け付けない。
異物として排除しようとする。
こんな現実は破棄すべきだ、見るべきではない、と。
しかし破棄出来る量にも限界がある。
濁流のように押し寄せる言葉という名の劇薬に、エルレアの理想は粉々に打ち砕かれつつあった。
もはや彼女が縋れるのは、”全て冗談かも知れない”という滑稽と言う他無い幻想だけ。
その幻想をどうにか現実に変えようと、エルレアはパーラに必死で問いかける。
「違いますっ! 違う、そうじゃなくって……! どうして、どうしてパーラは……ううん、パーラだけじゃない。お父さんもお母さんも、どうしてそんなに平然としているのですか? 平然と、私を売っただなんて言えるんですかッ!」
言って欲しい、冗談なのだと。
笑いながら、ここまで全部エルレアを騙すための茶番だったんだ、と。
そうしたら、エルレアが少し怒って、それで終わりなのだから。
けど――現実の言葉は幻想をたやすく打ち砕く。
「お姉ちゃんどうして怒ってるの? 今までだってそうして来たじゃない」
「……え?」
「お姉ちゃんは私に目をくれた。お父さんに右腕をくれた。何人かの人を救って、そして私たちにお金をくれた。その度にお姉ちゃんは嬉しそうに笑ってた。自分の力で、みんなを救えたんだって。だから今回もそうしただけなんだけど……」
愕然とする。
今、自分のすぐそばにいる怪物は――そうか、自分が作り出してしまったものだったのか、と。
エルレアはふいに、フリーシャの言葉を思い出した。
『それじゃあまるで、家族の幸せに、エルレアは関係ないみたいじゃないか』
まったくもって、その通りだ。
エルレアは家族に無償の愛を与えてきた、無償で肉体も捧げてきた。
その、対価を求めようとしなかった結果が――エルレアから何かを与えられるのは当たり前のことだという意識。価値観。
聖女としての振る舞いが、どうしようもないほど真っ直ぐに歪んだ、自分の家族と言う怪物を生み出してしまった。
――間違っていた。
自分自身が。
――正しかった。
岬やフリーシャこそが。
ならば全ては自分のせいなのかと言えば、それは違うとエルレアは言い切ることが出来る。
これを全て彼女1人の責任だと押し付けるのはあまりに理不尽だ。
「もういいだろ、こうして無事に帰ってきたんだ。あとは少しずつわだかまりを解いて、仲良くやればいい」
ヴェルが言った。
「そうだよお姉ちゃん。私たちも今回はさすがに酷かったなって、少しは反省しているの。だからお父さんたちはお姉ちゃんの行方を探してたんだから」
パーラが言った。
エルレアは心が張り裂けるような――ああ、いっそ張り裂けて死んでしまった方が楽だと思うほど、胸に渦巻く黒い汚濁の塊がせり上がってくる感覚に耐えていた。
吐き出してはいけない。
それは、エルレアがずっと、本当は心の奥底に秘めて、蓋をしてきた感情だから。
そう、誰だって、仮に聖女だって、負の感情を持っていないわけじゃない。
必ず心のどこかに存在して、要はそれをどこまで抑えられるかの問題だ。
エルレアの意志は強かった、だから今までどんな理不尽を前にしても押し込めてきたけれど――さすがの彼女も、もう限界だったのだ。
「ちゃんとトイレのお世話もしてあげるし、ご飯だって食べさせてあげるから。ね、前みたいに仲良くしよう?」
負の感情が表に出てくると、今まで見落としてきた物が見えてくる。
パーラは、まるで子供を諭すように言った。
それは彼女なりの優しさだと思ってきた。
けど、違う。
「あ、あああぁぁぁあ……」
それはまるで――例えば、ペットに対して使うような声のトーンで。
つまり、そういうことだったのだ。
パーラや父親、母親がエルレアに対して言う所の”家族”とは。
同じ人間に対して使うそれではなく、手足と目を奪っても自分たちを慕う、従順で愚かなけだものに対して使う言葉であって――
「あああああああぁぁぁっ、うあああああああぁぁぁぁぁあああああっ!」
抑えきれず、叫んだ。
「ああああああっ! うあっ……がっ、がああああぁぁぁぁああっ、あああっ!」
暴れ、椅子から落ち、地面を這いずりながらも、なお叫んだ。
喉が痛くて痛くて擦り切れそうになっても、掠れた声で叫び続ける。
胸の奥底に秘めてきた――今となっては誰のために抑え込んできたのかもわからない、どす黒い感情を全て吐き出しながら。
叫ぶ、叫ぶ、叫ぶ。
「違うっ、違ううぅぅぅっ! 私はっ、わだじはああああああああぁぁぁぁあっ!」
パーラは急に暴れだした姉に慌てて近づき、戸惑いながらも抱き上げる。
エルレアの手足では彼女の腕を振り払うことは出来ない。
絶えず暴れ、叫ぶエルレアに、パーラは子供をあやすように繰り返す。
「ごめんね、ごめんね、本当にお姉ちゃんには申し訳ないと思ってるから」
エルレアの耳には、その言葉が自分の神経を逆なでしているようにしか聞こえなかった。
ヴェルはとりあえず立ち上がったものの、暴れるエルレアに引いてしまってそれ以上近づく様子はない。
この場に、彼女の感情を理解している者など誰も居なかった。
「はなじでっ、はなせっ、離せええええええええええぇっ!」
「ダメだよお姉ちゃん、そんなに騒いだら近所迷惑だから。ヴェル、そこの布巾とってもらってもいい?」
「……わかった」
パーラはヴェルから受け取った布巾を丸めると、躊躇なくエルレアの口に突っ込んだ。
「あ、んぐっ……んううぅぅぅぅっ、うううううううぅううぅぅっ!」
「本当は私もこんなことしたくないんだよ、お姉ちゃんが暴れるのが悪いんだからね」
そしてジタバタと必死に手足を動かすエルレアを、そっとベッドに寝かせた。
放っておけば大人しくなるだろうと、本気でそんな風に考えているようだ。
「ぐううぅぅぅっ、う、ぐぅうううううううううっ!」
それでもエルレアは、声にならない叫びを吐き出し続ける。
『ふざけないでください、私は人間なのに、みんなと同じ人間なのに!』
届かないことを知りながらも、それでもなお叫ばずには居られなかった。
『見返りを求めたわけじゃないっ、みんなが幸せになってくれればそれでよかったっ、けど、それでもっ!』
本当は、普通の女の子として生きていたかった。
『こんなっ、こんな……人間以下の、家畜みたいな扱いをされたくてあなたに目を渡したわけじゃないっ!』
そのまま生きていられれば、イングラトゥスに残って、ヴェルと恋をすることも出来たかもしれない。
結婚するのはパーラではなく自分だったかもしれない。
そんな些細な夢すら、もはやかなわない。
『返してっ、返してよぉっ、返せええええええぇぇっ!』
奪った人間だけがのうのうと幸せに暮す世界など、許されるものか。
善人こそ幸福であるべきだ。
けど……そうではないことを、エルレアは岬と共に過ごした旅の中で知った。
悪意はいつだって理不尽で、簡単に善意を踏みにじり、全てを奪っていく。
与えているつもりだった。
でも、違う。
エルレアは今まで、奪われていただけだったのだ。
「う、ぐ、ううぅぅぅぅうう……ううううぅぅぅぅううっ……」
叫びはやがて嗚咽へと代わり、エルレアは自らの無力さに涙を流す。
返せと叫んだ所で、何も戻っては来ない。
家族は良心の呵責すら感じない。
『助けて』
奪おうにも、エルレアにはそんな力すら残っていない。
『誰か、助けて』
絶望の底に堕ちた彼女が最後に縋った相手は――
『ミサキ……助けて、ください……っ!』
――自分が最も嫌悪していたはずの、復讐鬼だった。
人の命をゴミクズのように扱う人間に助けを乞うという意味。
それを知りながらも、岬にすがり続ける。
与えられる救いが、この町を滅ぼすことだったとしても。
『それでも……いい……』
ただ、自分を救ってくれるのなら。
道具としてではなく、ペットとしてでもなく、人間として自分を必要としてくれるのなら。
他人の命なんてどうでもいい。
自分を省みない家族なんてもうどうでもいい。
「んううぅぅ……んぐ、ごほっ……うぅ……」
岬はヒーローじゃない。
都合よく、自分が呼んだからと言って来てくれるとは思っていない。
そもそも、エルレアは岬を嫌ってきたのだ。
色んな世話までさせておいて、なおかつ嫌ってくる相手を助けになど来るものか。
『来ない……はず、なのに――』
エルレアは、部屋に侵入する第三者の気配を感じた。
それはナイフを構え、ヴェルに突きつける1人の少女。
ずぶ、ぐちゅ。
銀色の刃が、男の首筋に沈み込む。
突き刺したナイフをぐぐ、と平行にスライドさせると、傷口からごぽりと血が溢れ出した。
「げ、ぼ……がっ……」
ヴェルが口から大量の血液を吐き出し、地面に倒れ込む。
やってることはヒーローなんかじゃない。
ただの殺人だ。
しかも、死んだのは自分が恋していた幼馴染だというのに――今のエルレアには、血まみれのナイフを持って佇む岬を、救世主としか思えなかった。
その時、彼女は真理に気づいた。
自分を救うのは天使でもなければ神でもない、岬だったんだ……と。
「ごめん、約束破っちゃった。手を出さないって言ってたのに」
ベッドに寝かされたエルレアに近づき、口に詰め込まれた布巾を取り出す岬。
「構いません。来てくれた、ただそれだけで、十分なんです……!」
エルレアの様子を見て、岬は確信する。
この部屋で行われた会話の詳細まではわからないが、彼女は全てを知ってしまったのだ。
そして――絶望の末に、自分に助けを求めたのだ、と。
だから、答えは全てわかりきっていたが、あえて問いかける。
「エルレアは、この町を、ここで生きてる人たちをどうしたい?」
彼女はボロボロと涙を零しながらも、満面の笑みで答える。
迷いなく、はっきりとした口調で。
今まで全方向に向けてきた信頼を、ただ1人、岬だけに向けながら。
「みんな……パーラも、お父さんも、お母さんも、みんな、みーんな……ぐちゃぐちゃにして、殺してしまいましょう!」
返事を聞いて、岬は心底愛おしそうにエルレアの頬に触れ、頷く。
エルレアもまた、愛おしそうに目を細めて岬を見つめる。
2人の心が初めて通じ合った瞬間。
それは、イングラトゥスという町の終焉を意味していた。