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彼が創り出したわたし、1つの心に2つの心が混ざり会う切ない物語

第一章 わたしのはじまり


 動画投稿サイトを開くと、わたしの名前と数十点の動画が無機質に並んでいる。

 動画の中で、わたしは誰に向けているのかも、わたしを見てくれる人がいるのかもわからないまま、歌い続けている。


 ある日、彼はわたしの歌声を聴いて言い出した。


 「動画サイトにアップしよう。」


 彼もわたしも曲を作る才能はなかった。

 彼がわたしの声に合いそうなアーティストを選び、わたしは歌い始めた。


 わたしは動画の中にだけ存在している。

 誰もわたしの名前を呼ぶこともなく、言葉も交わせず、互いに触れ合うこともできない。

 唯一温もりを感じるのは、彼がわたしにメイクをしてくれる時だけ。

 メイクが終わると彼は決まって鏡に映るわたしにこう囁きながら微笑む。


 「可愛くできました。」


 メイクも衣装も撮影機材も全て彼が用意して、わたしはカメラの前で彼が選んだ曲を歌うだけ。



 ただそれだけのはずだった。



第二章 創られていくわたし


 全てが初めてだった。

 動画サイトに投稿すること、わたしを撮影すること、わたしが外に出ること、わたしがメイクをすること。

 わたしが形付けられるその全てが初めてだった。


 メイクをしたことのなかったわたしのために、彼は雑誌やネットを使い、メイクのことを調べた。

 化粧品を購入してくるのも彼だった。


 「姉に頼まれて・・・。」

 「よくわからないんだけど、これで眉毛を描くの?」


 そんな嘘をいろいろなお店で使い分け、彼はわたしに合いそうな化粧品を探してきた。

 凝り性の彼が一番苦労したのは、ファンデーションだった。

 厚くなり過ぎたり、白くなり過ぎたり。

 わたしは初めて手にする化粧品に、首を傾げる彼がまるで何かに夢中になっている少年のようで、面白かった。


 初めて彼が満足のいくメイクができた時だった。


 「やっと可愛くできたよ。」


 彼がそっと置いた鏡に映る自分を見た時、わたしは恥ずかしさと嬉しさで身体が火照るのを感じた。

 彼が慣れないその手でわたしにしてくれたメイクの下の頬が紅くなっているのを感じた。


 彼は目が悪いわたしのために、眼鏡まで用意してくれた。

 細い茶色のフレームに少し細長のレンズ。


 「事務員さんみたいだね。次は可愛い眼鏡を探してくるね。」


 わたしはその眼鏡で満足だった。

 眼鏡を掛けて鏡に映る自分を見ながら、わたしは気持ちが昂るのを感じた。

 そこにわたしが確かに存在していることに、身体が心が反応していた。


 動画の衣装となる洋服も彼が用意してくれた。

 彼は最初、古着屋を廻り、わたしのサイズや曲の雰囲気に合いそうな洋服を探していた。


 「劇団の小道具を担当していてね。」 ワンピースやチュニック、スカートを買う時はそんな言葉を並べていた。


 「化粧品はある程度買うものを決めておけば、さっと売り場から出られるけど、洋服はサイズを確認しなくちゃいけないからね。

 さすがに周りの視線が気になるね。」


 彼は苦笑いしながら、話してくれた。

 彼が初めて用意してくれたのはグレーのニットワンピース。

 彼にメイクをしてもらい、ワンピースに袖を通す。


 「よく似合っているよ。」


 もうその声はわたしの耳に届いていなかった。


 ファンデーションにチークに口紅。

 フレームが茶色の眼鏡。

 グレーのニットワンピース。


 わたしは鏡に映る自分の虜になった。

 震える手で、そっと髪を撫で、頬に唇に触れた。

 ワンピースの裾を気にしながら、前から、横から、少し後ろから自分の姿を眺めた。

 昂る気持ちと震える身体を包むように、わたしは両手で肩を掴み、自分を抱きしめた。



 そして、わたしが創られていった。



第三章 視線を感じて


 彼が撮影用に選んだのは、車で15分程の雑居ビルにあるカラオケボックス。

 彼が用意したメイク道具とカメラと三脚をカバンに入れて、わたしは一人カラオケボックスに向かう。

 玄関を出たところから、わたしの緊張と興奮は高まり続ける。

 膝が小さく震え、視線は俯き加減になり、恥ずかしさから、今にも消え入りそうな心と、誰かに見られている、誰かに見てもらいたいという外の世界へ出てきた解放感で興奮する心がわたしの中で入り交じる。

 スカートの裾から入り込む風がわたしの太ももに当たるだけで、今まで体験したことのない感覚に陥る。

 玄関から車までだけでも、わたしは恥ずかしさと興奮から全身が紅潮した感じになる。


 運転席に座ると、ほっと息をつく。

 バックミラーでメイクを確認して、ワンピースの裾を整え、車を発進させる。

 一度興奮した心は治まることなく、次の興奮へと繋がる。

 行き交う車や人が自分を見ているのではないきという錯覚に陥る。

 特に対向車とすれ違い様に相手と目が合った時などは、一瞬身体が硬直するほど、敏感になっている。


 コインパーキングからカラオケボックスまでのたった50メートルにも満たない歩道も、さらに緊張と興奮が続く。

 間近ですれ違う人々。ふと目が合う男性。一度視線を変えもう一度こちらを見る男性。

 わたしはその視線に全身を触れられているようで、怖くなる。

 一度、ある男性が明らかにわたしをじっと見つめ、その視線がわたしの頭の先から爪先まで見ているとわかったときは、まるで洋服の下まで見られているようで、思わず小走りに雑居ビルに飛び込んだ。

 エレベーターの中で呼吸を整えながら、わたしは恐怖心とともに、えもいわれぬ快感に包まれている自分を感じた。

 誰かの視線を感じることが、これほどまでに心を波立たせるものとは、思いもしなかった。


 カラオケボックスの受付でわたしは初めて彼以外の人と言葉を交わす。

 交わすと言っても、利用時間の確認など、うなずくだけで部屋へと案内される。

 それだけでも、わたしは緊張で身体がこわばり、掠れた声を出すのが精一杯だった。

 受付のカウンター越しにわたしを見る視線。

 手渡される利用伝票と触れそうになる互いの手。

 そのやりとりのあまりの近さにわたしは思わず後退りするところだった。

 部屋に入ると、脱力感からソファーに座り込む。

 自分が想像していた以上の視線とそれに反応するわたしの心と身体。

 期待と不安、恐怖と願望。



 わたしの中で、今まで心に秘めていた感情が動き始めていた。



第四章 カメラの前で


 案内された部屋はとても狭かった。

 わたしはバッグからカメラと三脚を取り出し、撮影の準備を始める。

 壁を背景にカメラをセットし、ほぼ真横の角度から撮影することにした。

 歌い始めたころは、自分を正面から撮影するなど、恥ずかしくてできなかった。

 初めて撮影に選んだ曲は、女性アーティストが歌う彼が大好きな曲だった。

 彼も原曲のキーを下げて、何度も歌った曲。

 わたしは原曲も好きだったが、彼がキーを変えて歌う曲も彼の歌声も大好きだった。


 月を見上げながら、好きな相手のことを想う素敵な曲。


 何度も聞き、口ずさんだ曲だったので、わたしは少し自信を持ってカメラを録画に切り替え歌い始めた。

 しかし、ふとカラオケのモニターから視線を外し、視野の中にカメラが入ってきた途端、思わず動揺して歌詞を間違えてしまった。

 慌てて録画を中断して、深呼吸をしながら自分を落ち着かせようとした。

 落ち着こうとすればするほど緊張が高まってきた。

 わたしはカメラを通して誰かに見られることの、怖さと興奮を感じていた。


 『わたしの動画を誰かが見るのか、もし見たとしたらその人はどう思うのか、見た人から反応があったら・・・。』


 わたしはビルに入る前に体験したあの視線を思い出していた。

 食い入るように見られ感じた怖さと見られることで初めて体験した高揚感。

 わたしはソファーの上で膝を抱えながら、動けなくなった。

 しばらくして、同じ曲を録画せずに歌い直したが、声が震えたり、キーを外してしまい、最後まで歌いきることができなかった。


 曲を歌いきることも、録画することもできず、カラオケボックスを後にした。

 帰り道は彼に謝りたい気持ちでいっぱいになり、すれ違う人や車、行き交う人達の視線を気にする余裕すらなかった。

 せっかく彼がわたしのためにメイクや眼鏡、ワンピースまで用意してくれたのに、ちゃんと歌えなかった自分が情けなくなり残念がる彼のことを思うと涙が頬をつたっていた。


 家に入り洗面所に駆け込む。

 涙で目が赤くなり、メイクも崩れていた。

 そんなわたしに彼は鏡越しに優しく声をかけてきた。


 「大丈夫?何があったの?」


 わたしは彼の声を聞き、その場に泣き崩れてしまった。

 彼はわたしが落ち着くまで、何も言わずそばにいてくれた。

 わたしは彼に外の世界で感じたことをありのまま伝えた。

 緊張したことも興奮したことも、何もかもを彼に知って欲しかった。


 「今日はゆっくりお休み。」


 彼はわたしのメイクを落としながら優しく微笑み、そっとわたしを包み込んだ。

 わたしはその身を委ねながら彼の中で眠りについた。



 わたしの中の感情のうねりは暫しの安らぎに包まれた。



第五章 もう一度外へ


 あれから1週間が過ぎた。

 せっかく覚え始めたからと、彼がメイクをしてくれた。

 彼は相変わらず、まだ慣れない手つきで悪戦苦闘していた。


 「どうしても、この部分のファンデーションが上手くいかないんだよね。」

 「リップはピンク系がいいかな?」


 彼はまだ落ち込んでいるわたしを和ませるかのように、優しく問いかけながらメイクをしてくれた。

 わたしは彼の優しいその手と声に、ただ身を任せていた。

 メイクが終わると、彼が鏡越しに声をかけてきた。


 「こうして、ぼくに見られても、緊張する?」


 わたしは小さくうなずいた。


 「見られるのは嫌?」


 わたしは少し考えて、小さく首を振った。


 「他の人に見られると怖い?」


 わたしは小さくうなずいた。


 「動画をアップするのは、止めようか?」


 わたしは大きく首を振った。

 彼がわたしの歌声を誉めてくれたこと、撮影のためにメイクや洋服を準備してくれたこと、そのことを無駄にしたくなかった。

 何より、彼が触れてくれるこのメイクの時間にわたしは癒されていた。

 そして、また様々な感情に振り回されるかもしれないが外に出たいという思いがあった。

 彼はじっと黙ったまま、何かを考えているようだった。


 「今度もう一度撮影しよう。カメラが気になった時は、ぼくが見ていると意識して。上手くいかなくてもいいよ。動画をアップすることは、ひとまず考えないで。」


 彼はそういって、鏡に映るわたしの目を見つめた。


 「大丈夫。自信を持って。」


 彼の優しい声と瞳にわたしは勇気づけられ、もう一度外へ出ることを決めた。


 次の彼のお休みを利用して、外出することになった。

 選曲は同じ曲。わたしは何度も聞き直し、歌詞を覚えた。


 そして当日、彼はわたしの緊張をほぐすかのように、優しく語りながらメイクをしてくれた。


 「ファンデーションは上手に塗れたね。」

 「チークはあまり濃くならないように。」

 「やっぱりリップはピンクが似合うよ。」


 わたしの緊張は彼の声とその手の温もりでほどけていった。

 グレーのワンピースに袖を通すと、前回と同じように気持ちが昂るのを感じた。

 メイクをした興奮は変わらないし、変えたくなかった。

 彼もその気持ちを察してくれた。


 「今日も可愛く仕上がりました。」


 まるで子供をあやすかのように彼が話しかけた。

 それでもわたしは嬉しかった。

 鏡に見いるわたしに、彼がいつもよりさらに優しく語りかけた。


 「人の視線が気になり過ぎるようなら、戻っておいで。」


 わたしは彼の目を見つめながら、そっとうなずいた。


 「もしカラオケボックスにたどり着いたら、まずはお茶を飲んで落ち着くこと。」

 「次にカメラの位置を決めたら、また一呼吸入れること。」

 「落ち着いたら、1回歌ってみて、歌いづらいところを確認すること。」

 「練習だけで帰ってきてもいいよ。でも歌えそうだと思ったら、録画を始めて、間違えたりした時は、録画を止めずに、自分のペースで歌い直すこと。」

 「歌詞はほぼ覚えたみたいだけど、歌っている間はモニターを見ていること。」

 「もしカメラの視線が気になったら、僕が見ていると思って。」


 最後の一言は少し照れながら話した彼がかわいかった。


 『大丈夫、きっと大丈夫。』


 わたしは鏡に映る自分の目を見つめ、何度も言い聞かせた。


 彼が用意してくれた荷物を抱え、玄関を出る。

 頬に当たる風がわたしの心を昂らせる。

 嬉しさと恥ずかしさ、興奮と不安がわたしを取り巻く。

 わたしの視線は足元にいき、回りの視線を避けようと自分の少し高い背を丸めて歩く。

 以前、そのことを彼に話したことがある。


 「視線が気になるかもしれないけど、顔を上げて歩いてごらん。恥ずかしがらずに颯爽とね。きっと人の視線が違って感じられるから。」


 わたしはまだ、そこまでの勇気が持てず、パーキングからカラオケボックスまで、小走りに駆け込んだ。


 受付を済ませ、部屋に入ると、前回同様ソファーに座り込んでしまった。

 飲み物を口にして、少し弾んだ呼吸を整える。

 身体が火照っているのは、走ったせいなのか、視線に敏感になり過ぎたせいなのかわからない。

 ポーチから鏡を出し、メイクを確認する。

 口紅を塗り直し、準備に取りかかる。

 カメラは前回同様、ほぼ真横にセットし、自分の立ち位置を決める。


 『ふ~っ。』


大きなため息とともに、ソファーに座り込む。


 『大丈夫、大丈夫。』


 そう呟きながら、ソファーの上で膝を抱え頭を埋める。


 『・・・彼に、彼に会いたい。会いたいよ・・・。』


 思わず口走った言葉でふと我に返る。

 わたしと彼は特別で不思議な関係。

 そのことを思い出し、鏡の中の自分に声をかける。


 『今日も可愛くできたよ。』


 それはメイクの後、必ず彼が言ってくれる、わたしにとって、とても大切な言葉。

 わたしはマイクを持って歌い始めた。


 何度も聞き直し、何度も練習したのに、声が上ずったり、歌詞を間違えたりの繰り返し。

 落ち込みそうになる自分をなんとか奮い立たせ、マイクを握る。

 もう何回歌い直したかわからなくなっていた。

 もう一度、鏡の中の自分に声をかける。


 『大丈夫、絶対、絶対大丈夫。』


 まだ一度も最後まで歌いきれていなかったが、録画ボタンを押した。


 『わたしが歌うことを彼が信じて待っている。ここで頑張らなきゃと。』


 そう心に決め、マイクを握りしめた。


 モニターを見つめながら、その向こうに彼の優しい笑顔を思い出しながら、精一杯歌った。

 わたしは、曲の世界に入り込み、横で録画しているカメラのことなど忘れていた。


 今、思い出すと、自分でも驚くほどの集中力だった。 あれほど、練習では失敗をしたのに、たった1回で歌いきれた。

 歌い終わると、ソファーに座り込み、録画ボタンを止めることも忘れて呆然となっていた。

 しばらくして、涙が頬を伝っているのを感じたが、わたしは拭うこともせずにそのままにしていた。

 ほどけていった緊張と歌いきれた喜び。



 わたしは達成感に酔いしれていた。



第六章 動画サイト


 彼はカメラからパソコンに動画をインポートし、わたしが歌っている姿やその後の様子を黙ったままじっと見ていた。

 わたしは、恥ずかしさでいっぱいになっていた。

 歌っている横顔も泣いている自分の姿も。


 彼はモニターの中で、泣いているわたしを慈しむように見つめ、そっとモニターの中のわたしの顔を優しく撫でてくれた。

 まるで、直接彼に撫でられているようで嬉しかった。


 「がんばったね。お疲れさま。」


 彼の声は、どこまでも優しかった。


 動画編集ソフトを使い、加工して動画サイトへアップロードする。


 「そうだ、名前をつけないとね。何がいいかな?」


 彼は動画を見ながら、わたしの名前を考えた。


 「nagomi」


 彼はタイトルにそう打ち込んだ。


 それがわたしの名前になった。

 わたしはとても嬉しかった。

 自分に名前があること、それはわたしが存在していること。

 大げさかもしれないが、わたしと世界が繋がった気がした。


 タイトルには曲名とわたしの名前、コメント欄には、曲に対する感想を書き込み、彼は「公開する」をクリックした。

 いよいよ、わたしの姿がネットに公開された。

 見てくれる人がいるのか、何か反応があるのか、まるで予想することはできなかったが、わたしにとって、外の世界へと繋がる小さな一歩だった。

 わたしは彼に内緒で、もう一度動画を見た。

 自分の姿にドキドキしながら、喜びを感じていた。

 震える手を伸ばし、そっとモニターの中の自分に触れた。


 『na・go・mi』


 わたしは消え入りそうな声で、彼がつけてくれた名前を何度も繰り返した。

 涙が止まらなかった。

 なぜ涙がこぼれるか理由はわからなかったが、堰を切ったように涙が溢れた。

 わたしは彼の手によって創られ、仮想世界にいるこの小さな存在。



 わたしはわたしであり続けたいと強く激しく思い始めていた。



第七章 試行錯誤する二人


 1曲アップすることができ、彼は喜んでいた。

 彼は次の曲を考えたり、曲に合いそうな洋服を探したり、メイクの技術を上げようとネットでメイク方法を調べたりと、いろいろと忙しくしていた。


 彼が選曲したのは、大人の女性が相手を想う曲が2曲。

 1曲は舞い散る雪を華に例えた曲。

 冬の始まるこの季節に合っていた。

 もう1曲は好きな相手と出会う奇跡は、自分のそばにあると歌った曲。


 2曲ともお気に入りの曲でわたしは嬉しかった。

 しかし、2曲ともとても難しい曲であることも知っていたので、何度も何度も練習した。


 彼はグレーでハイネックの長袖ワンピースに、黒のノースリーブワンピースを重ね合わせ服を用意してくれた。

 口紅は前回よりも紅いものにし、アイラインも準備していた。


 わたしは前回よりも服やメイクに懲り始めた彼が面白かった。

 彼は自分の洋服や小物、車やバイクなどにもあまり拘りがなく、はまり込むような趣味もなかった。

 その彼がわたしの洋服やメイクに対して、自分のこと以上に真剣になっている姿が嬉しかった。

 彼にとって、わたしの存在がどういうものか、わたしの動画を撮ることに対して、どう思っているのか、正直なところ、わたしにはわからなかった。

 でも、わたしのために服を選んだり、メイクを調べてくれることが本当に嬉しかった。


 「今回は少し大人の女性を意識したよ。可愛くできました。」


 録画当日、彼はいつものように、鏡越しに微笑んでくれた。

 わたしは、少し紅い唇にそっと指を当て、自分の頬も赤らんでいるのを感じていた。


 相変わらず、俯き加減にカラオケボックスまで向かう。

 まだ顔を上げて歩くのは、恥ずかしい。

 それでも少しずつ外の世界に慣れたのか、部屋に着いても、座り込むこともなく、準備を始めた。


 以前、彼に言われたように録画せずに、まずは練習をしてみる。

 そこでわたしは、低音域がうまく出せないことに気づいた。

 高音域はある程度まで声量を保てるのだが、低音域では声量が保てず、無理をすると声色が変わってしまう。

 2曲とも難しいのはわかっていたが、想像以上だった。


 わたしは、低音域に注意しながら歌い直したが、うまく歌うことはできなかった。


 『悔しかった。』


 でもわたしは、泣かなかった。

 悔しい気持ちがいっぱいで、泣けなかった。


 家に着き、メイクを落としながら、彼に悔しい気持ちを伝えた。

 彼はわたしの目を見つめ、こう続けた。


 「うまく歌えない曲もあるよ。でも君の声に合う曲も必ずある。一緒に見つけていこう。」

 「まだ『nagomi』は始まったばかり。がんばろう。』


 わたしはまだ『nagomi』でいられることが嬉しかった。

 彼がいてくれれば、わたしはわたしでいることができる。 わたしは『nagomi』であり続けたいと強く思い始めていた。



 それが二人にとって、どんな未来になるのか、わかるはずもなかった。



第八章 新たな曲との出会い


 彼は熱心にわたしに合いそうな曲やアーティストを探し始めた。

 元々、あまり音楽を聴くタイプではなく、聴くのも自分が好きなアーティストだけ。

 女性アーティストで好きなアーティストも2、3人程度。

 加えて、好き嫌いがはっきりしている彼は、好きになった曲やアーティストの曲は何度も聴くのに対し、一度嫌いと思ったアーティストの曲は、どんなに有名な曲であっても聴くことはなかった。

 そんなに彼にとって、選曲するという作業は大変だった。


 音楽サイトのランキングを見ても、名前すら知らないアーティストばかり。

 知っている曲とアーティストが結びつかないなど、何故わたしが歌っている姿を動画サイトにアップしようとしたのか、首を傾げるほどだった。 音楽サイトと動画サイトを何回もチェックして、やっとわたしの声に合いそうなアーティストを一人見つけた。

 歌詞も声も素敵なアーティストでわたしはすぐに好きになった。

 彼も自分が選んだだけあって、お気に入りになった様子だった。

 たくさんある楽曲の中から最初に選んだ曲は、女性が産まれてきた我が子のことを愛しく歌った曲だった。

 母親の子供に対する無償の愛を表現した温もりが溢れる曲。


 わたしは歌詞の言葉ひとつひとつに心惹かれた。

 歌っている女性の声も素敵だった。

 曲が決まると、彼は服のコーディネート、わたしは歌の練習が始まった。

 彼も気に入った様子で、熱心にアーティストのことを調べ、他の楽曲も聴き、イメージを膨らませていた。


 わたしは歌の練習をしながら、他の楽曲も聴き自分の中でそのアーティストをイメージするようにした。

 どの曲もとても素敵で、曲調は様々だったが何よりも歌詞が素晴らしかった。

 気持ちや感情をとても上手にかつストレートに表現しつつ、言葉に優しさや温もりが感じられた。

 作詞作曲もこなし、歌も上手、その上とても可愛らしい女性アーティスト。

 わたしが持っていない才能に溢れた彼女に憧れや少しの嫉妬を感じながら、彼女の曲や歌声が大好きになっていった。

 その楽曲の中に、一際わたしの心の琴線に触れる曲があった。

 それは恋した女の子の気持ちを切なく表現した曲。

 わたしはいい曲だなと思い、いつかこの曲も歌いたいなと考えていた。

 この時は、練習に夢中で、自分の感情が少しずつ変化していることに気づいていなかった。

 この曲に綴られている気持ちを自分が抱くことなど、想像もできなかった。


 彼が今回用意してくれたのは、白のセーターとジーンズ生地のスカート。

 わたしは、洋服が増えていくことが嬉しかった。


 「今回は以前のメイクにするね。」

 「少しは上達しているかな?」


 彼は相変わらず、優しく語りかけながらメイクをしてくれた。

 わたしはこの時間が一番好きだった。

 彼の声や手の温もり、それによって、変わっていく自分。

 心地よい時間が流れていく。

 こう感じることができるのは、少しずつ慣れてきたのかもしれない。

 しかし、メイクをして洋服を着替えた後のあの高揚感は変わっていなかった。


「今日も可愛くできました。」


 いつもの言葉も心地よい。

 わたしはいつものように、鏡の前で自分の姿を確認して、嬉しくなる。

 「今回の曲は、息継ぎが難しそうだから、ソファーに腰掛けながら歌ってもいいよ。」

 「無理しないようにね。」


 出掛ける前のアドバイスを受け、わたしは部屋を後にした。


 外に出ることにも、少しずつ慣れてきた。

 車の窓から入ってくる風を感じたり、街の景色を眺めたり、お店の窓ガラスで、髪型や服を直したり、歩き方をチェックしたり、気持ちに余裕が出てきた。

 ただ、相変わらず人の視線は苦手のままで、目が合うと、すぐに視線を外してしまう。


 カラオケボックスに着くと、すぐにカメラの位置を決める。

 今回は少し斜め前にカメラをセットしてみた。

 彼から言われたように、ソファーに座りながら歌うことにした。

 カメラが少し気になるけど、自分の姿を動画で見た時から何かが変わり始めていた。

 見られたいという思いもあったが、自分が動画の中に存在していることが嬉しかった。

 今回は前とは少しだけ違う自分を表現したかった。

 いや、動画に残したかったのだと思う。


 カメラに少し緊張しながら、練習を始める。

 思っていた以上に、息継ぎの間が長く、声が続かないところもあった。

 アーティストって、すごいなと感心しながら、自分なりの歌い方を模索した。

 無理に歌い続けるよりも、歌詞やメロディと合わせながら、自分に合うところで息継ぎをするように心がけた。

 練習を繰り返し、飲み物で喉を潤す。

 録画ボタンを押し、撮影を始めた。

 カメラが気にはなったが、視線はモニターに、気持ちは歌うことに集中した。

 無事に最後まで歌いきり、ほっと一息をつく。

 少しの間、ぼんやりしていた。

 いろいろなことに慣れ始めている自分を感じた。


 『もっと、もっと歌いたい。』


 部屋に戻り、メイクを落としてもらいながら、そのことを彼に伝えた。


 「大丈夫?無理していない?」


 彼は優しく語りかけてくれた。

 わたしは鏡に映る彼の目を見つめ、すがるような思いで、小さくうなずいた。


 「じゃあ、今回の曲をアップしたら、さっそく次の曲の準備をしよう。ただし、お互いに無理はしないこと。いいね?」

 わたしは嬉しさのあまり、大きくうなずいた。

 彼はそんなわたしを見て、優しく微笑んでくれた。

 外に出ること、歌うこと、その全てがわたしがわたしでいるために欠かせないものになっていた。


 わたしの中に、何かに目覚めた。

 しかしそれは、本当は目覚めてはいけないものだったのかもしれない。



第九章 強くなるわたしという存在


 彼はわたしに合う洋服をネットで探すようになった。

 きっかけは、わたしにチャイナドレスを着せようとしたことだった。

 わたしは、身体のラインが出るのが嫌で最初は乗り気ではなかった。

 しかも、彼が選ぶものが膝丈ばかりで、わたしは困ってしまった。

 わたしがあまり乗り気ではないことに気づくと、彼は照れ笑いしながら1着のチャイナ服を渡してくれた。

 探すふりをしながら、もうすでに用意してくれていた。


 「ごめんね。この服ならどうかな?」


 それはチャイナドレスというより、それ風のワンピースだった。

 わたしは、少しドキドキしながら袖を通した。

 思っていたほど身体のラインも目立たず、膝下の裾もちょうど良かった。

 色も紺色で、派手な感じはなかった。


 「これなら似合うかなと思って。すごく似合っているよ。」


 彼は鏡越しに微笑んでいた。

 わたしは服の上から身体を触りながら、ドキドキと嬉しさでいっぱいになっていた。

 今まで彼が用意してくれた服は中古品がほとんどで、初めて新品の服だった。

 やっぱり新しい服は気持ちが良かった。


 わたしだけの服。

 わたしだけの靴。

 わたしだけの物が増えていくことが嬉しかった。


 彼はネットで2~3店舗選び、チュニックやワンピースを用意してくれた。

 服が届くたびに、試着する。

 中にはサイズが合わない物もあって、苦笑いするしかなかった。

 彼は子供におもちゃを与えるように、次から次へと服や靴、鞄をわたしにくれた。

 その多さにわたしは戸惑ってしまった。

 わたしがそれらの服を着るのは、動画を撮る時だけ。

 カラオケに行けるのも、週に1回行けるかどうかだった。

 もう何十回分もの服が届いた。

 わたしが困惑していると、さらに彼は驚くことを言い出した。


 「曲ごとに服を替えよう。カラオケボックスで着替えられる?」


 わたしはびっくりしてしまった。

 カラオケボックスの室内で着替えまでするとは考えてもいなかった。


 「アーティストごとでもいいかも。それならたくさん持っていかなくて済むかな?」


 もう彼の中では、着替えることが決まっていた。

 最初はどうしようかと悩んだが、ちょっと面白そうなのと、いろいろな服が着ることができる喜びで、わたしも着替えることに決めた。


 彼は選曲に合わせ、アーティストや曲のイメージに合いそうな服も選んでくれた。

 わたしは、彼が選曲した曲の練習を繰り返した。

 新しい服の試着もした。

 チュニックやワンピース、スカートなどたくさんの服に着替えた。


 服が増え、いろいろな自分を鏡の中に見ているうちに、わたしの中にある思いが生まれた。


 『いろいろな服を着て、外に行きたい。カラオケじゃなくて、普通に街を歩きたい。』

 『みんなと同じように、毎日おしゃれをして、出かけたい。』


 それが叶わぬことを、自分が一番知っていた。

 それでも思いは増していくばかり。

 わたしは、服に顔を埋め泣いていた。


 『わたしはいつでもわたしになりたい。わたしはわたし。』



 わたしの中で強くなったその思いは、やがて彼を侵食することになる。


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