ディリオン王国前史
大陸西部の中央に位置するハルト地方は豊かな耕作地帯を持つことで知られ、抱える人口も一際豊富であった。それ故にハルト地方は長く分裂しており、無数の都市や城に依るそれぞれの統治者によって支配されて単一の主は存在しなかった。その混乱状態は勢力を拡大させたクラウリム王国の進出で一旦脱する事となった。
そしてユニオン市は新たな支配者クラウリム王国によって建設された。その地理上の重要性からハルト地方統治の枢要都市となるべく整備され、クラウリム王から派遣された統治官の居城が置かれていた。
クラウリム王国統治時代もハルト地方内部での争いは絶えず、南のピエニア王国や北のコーア人の脅威には晒され続けたがある程度の安定と平和が齎された。
クラウリム人の統治はその一世紀程後に終わりを告げた。スレイン王国の独立や周辺諸国との戦いで疲弊したクラウリム王国はハルト地方の確保を断念し、放棄したのだった。クラウリム人の統治官もユニオン市を去り、クラウリム系勢力はハルトの土地に帰化した領主達が残るばかりとなった。
クラウリム人の手から離れたユニオン市は複数の貴族が統治する寡頭制の都市国家として再起した。ユニオン市及び後のディリオン王国はこの独立の時を原初の年と定めていた。
ハルト地方は再び分裂状態に陥った。大小様々の勢力が並び立ったが、その内ハルト地方の覇権を握りうるだけの力を持っていたのはクラウリム系の残留勢力であるバーグホルド市のクライノア家や、港湾都市ストラスト、そして枢要都市ユニオン市など少数だった。
とは言え彼らの未来も明るい訳ではなかった。クラウリム王国が去るや、他の外部勢力がハルト地方への侵略を活発化させたからだった。特にこの時代はハルト人とっては不幸な事に各地に英主が輩出され、一筋縄では行かない状況にあった。ピエニア王フェリタス、コーア人族長トマッソノス、東のガラップ王ボエモンらは空白地帯となったハルト地方へ挙って侵略を行った。
ガラップ王ボエモンはユニオン市やストラスト市を中心としたハルト連合軍により撃退され、コーア人族長トマッソノスもクライノア勢の奮戦で侵入を押しとどめる事が出来た。しかし、フィステルス市の手引を受けたピエニア王フェリタスの侵略には耐えられなかった。118年、ヤーガーの会戦で敗れたハルト諸勢力はピエニア王に膝を屈し、ユニオン市もまた再び外部勢力の旗を受け入れる事となった。
しかし、ピエニア王国の支配も長くは続かなかった。英主フェリタスの死後、ピエニア王国は急速に衰退し、反乱と独立で分裂した。141年、ハルト人は連合軍を組んでピエニア王国軍をバイアの会戦で打ち破ると彼らを自らの土地から追い出したのであった。
ハルト人は再びハルト地方巡る勢力争いを展開した。だが諸勢力は互いに決め手を欠き、誰が勝つとも言えない泥沼の戦乱が続いた。
状況が変化したのは200年代半ばに成ってからのことであった。ハルト地方中南部の都市クッススを掌握したメイロン家が勢力を拡大させ、本格的なハルト地方統一へと動き出した。フィステルスを攻略し順調に勢力を拡大させ続けるメイロン家に対抗するべくユニオン・ストラスト・クライノア家は連合を結成し立ち向かった。268年、反メイロン連合軍はリカ=フリアの会戦でメイロン家に敗れ、ハルト地方の覇権はメイロン家が握った。
270年、メイロン家の当主ギースはハルト王への即位を宣言し、多くのハルト諸勢力は従属を受け入れた。ハルト地方全域を勢力圏とする初めての王であった。クライノア家はメイロン家への従属を拒否し、コーア人と同盟を組んで抵抗を図った。クライノア家の求めに応じて来援したコーア人は"コーアの王"ウラシュに率いられていた。味方として赴いたはずのウラシュはクライノア家を騙し打ちし、バーグホルドを攻め落とした。長らくハルト地方の主要都市であったバーグホルドはコーア人の略奪と破壊によって廃墟と化し、クライノア家は滅亡した。
275年、侵略者コーア人を撃退するべくハルト王ギースは軍を率い、タンシブレに於いて両軍は衝突した。ウラシュ率いるコーア人の怒濤の攻撃を前にハルト軍は敗北し、ギース王は戦死した。コーア人は更なる南下を続け、ユニオン市に到達した。ユニオン市は降伏勧告を拒絶し、怒ったウラシュはユニオンを包囲した。コーア軍によるユニオン包囲は十ヶ月に及んだが、余りに長期の包囲でコーア軍の方が疫病と飢えに悩まされた。ユニオン貴族のシーボウ家のエドゥアルドはコーア軍の窮状を知ると市内から撃って出て、コーア軍を打ち破ることに成功した。
コーア軍を撃退したエドゥアルドは英雄として支持を受け、ユニオン市の政治を主導した。彼は市軍や税制、都市インフラの整備を行ってユニオン市を発展させた。対外的にもその業績は著しく、ギース死後もハルト王位を自称するメイロン家を討ってクッスス市を占領すると、281年にエドゥアルドは未だハルト地方北部に居座るコーア人撃退を名分に諸勢力を糾合してハルト同盟を結成させた。エドゥアルドはハルト同盟軍を率いてコーア人を攻め、迎え撃った宿敵ウラシュをバーグホルドの会戦で敗死させた。エドゥアルドはコーア人の占領下にあった土地を解放し、バーグホルド市など破壊された都市の再建を支援した。それらの政策の結果、ユニオン市は武力ではなく権威によってハルト諸勢力の指導者として活動した。広く支持を受けたエドゥアルドであったがその功績を妬んだ他のユニオン貴族らに失脚させられ、293年に失意の内に病死した。
エドゥアルドの死後、ユニオン市は融和的な政策から一転して強圧的な政策へと代わり、大きな反発を受けた。エドゥアルドの親類や支持者は再建されたバーグホルドで独立を宣言し、それを皮切りとして多くの勢力がハルト同盟からの離脱を決めた。ハルト同盟は有名無実化し、またしてもハルト地方は動乱の時代へと突入した。
ハルト人達は互いに争い続けたが、300年代後半にアイセン人の海賊集団が襲来した際は別だった。島嶼や良港になる入江の数多く在るアイセン島は港湾都市が発展するとともに、海賊の根城としても発達していた。沿岸部も河川もお構い無しに侵入し略奪するアイセン人のもたらす被害の大きさに音を上げ、遺恨を捨ててハルト同盟を再結成した。この時は諸勢力で軍資金を出し合い、艦隊を編成してアイセン島まで攻め込む事までしていた。だが海賊問題が一応の収束を見ると同盟は自然に崩壊し、またも分裂状態となった。
その後、ハルト諸勢力が一つに纏まる事はなく、ユニオン市も膠着と退廃の中に沈んでいた。