貧民ディリオン
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"偉大なるロラン王朝の祖ディリオン王は生誕の瞬間から神々の恩寵を受けていた。ディリオン王が生まれた日には天空を一筋の流星が流れ、その生誕を祝福した程である。
ユニオン有数の名家の生まれであるディリオン王は普く全ての人々から賛美され、幼き頃から常に王の位を望まれる偉大で人物であった。
その相貌は神々の如く、その心は純粋で気高く、力強く、勇気と慈愛に満ち、正しく天上から遣わされた大いなる英傑そのものであった。"
――「ロラン朝王本伝」より
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月のかけた夜。ただでさえ薄暗い雑踏は一層暗く、しんと静まり返っている。曲がりなりにも都市であるユニオンでさえもそれは変わらない。
街を貫く大通りから一本でも脇にそれると、そこは最早闇の世界である。廃棄された汚物や動物の死骸、壊れた建材などが足の踏み場も無いくらいに撒き散らされている。それもその筈で路地裏は食うにも困る貧民の唯一の住処なのだ。
そして、そんな路地の片隅に一人の貧民が蹲っていた。その貧民は世を憎む様に唸り、ぐっと手を握りしめている。
「うー……うー……」
ぼろぼろの布切れをまとっただけの体はがりがりに痩せこけ、肌は垢や塵芥で真っ黒に汚れている。だがその目だけは爛々として闇の中でも光輝いている様に見えた。
彼の名はディリオンといった。親が誰かも分からない貧民として生まれ、ずっと薄汚れた闇の世界で生きてきた。この戦乱の世界に於いては全く無価値の存在だった。
――何故、俺はこんな生を強いられているんだ。何故、俺は誰からも救われないんだ――
ディリオンはがちがちと歯を鳴らした。幸か不幸か生来の知恵者であった彼は自分の置かれた状況が如何に惨めで救いがないかを理解してしまっていた。他の貧民どもはただただ日々の糧を得るために必死になり、麦餅の一つでも手に入れば神々に恩恵を感謝している。
――だが、そんなものが感謝に値するのか? 神々がこんな生を押し付けてきた癖に、麦餅一つ恵んだくらいで感謝されようなんて、厚かましいにも程があるではないか――
「ぐう……ぐぐぐ……」
ディリオンは呻いた。理不尽を憎悪し、哀しんだ。このゴミ溜めから抜け出すことも許されず、ただ蹲っていることしか出来ない。それしかすることが出来ない事も一層憎く、哀しかった。
――もう、救ってくれとは言わない。せめて、救いを手にする機会だけでもあれば……――
もう涙も出はしなかった。
その時、がさがさと誰かが路地に入って来る音がした。ディリオンは反射的にぱっと身を隠した。貧民のたった一つ行える防衛行為だ。
「うーん……気持ち悪いぜぇ……くそ、ここはどこなんだぁ?……」
立ち入ってきた男は兜と剣、革で出来た胴鎧を身に帯びている。どうやら街の衛兵らしい。衛兵がこんな貧民窟に足を踏み入れるなど珍しい事だった。銅貨の一枚も持たない貧民を痛めつけても彼らには何の得もないからだ。
「畜生……駄目だっ……うえぇぇぇ」
衛兵はふらふらとした足取りで壁に手をつくと下を向いて大量の吐瀉物を吐き出した。びちゃびちゃという音と共に臭い酒混じりの匂いが辺りに漂ってきた。
余程悪酔いしたのか衛兵は前後不覚に陥っていた。うんうんと唸り、体の揺れに合わせてごんごんと頭を壁にぶつけている。
その姿を見た時、ディリオンの心に光が差し込んだ。
――こ、これは……救いの機会が俺の目の前に来たのかもしれない……――
心臓が鳴り、どくどくと耳に響く。全身が冷え込んだ様に感じるのに、汗がどっと溢れ出す。
ディリオンは生きるために他人から盗み、奪い、そして傷つけて来た。
だが、人を殺したことは無かった。
迷いと興奮が頭を駆け巡り、体が硬直する。とは言え迷っていられる時間もそう多い訳ではない。何時迄も衛兵がこの状態のままいるとは限らない。
――おい、何を迷うことがある? 殺れ、殺っちまえ! その手で救いを奪い取れ!――
頭にもう一人の自分が話しかけてきた。ディリオンは決めた。
目を爛々と光らせたディリオンはすっと立ち上がると傍にあった残骸から一本の木材を引き抜いた。そして静かに衛兵に近寄ると、思いきり木の棒を振り下ろした。
「ぐうお、あがっ!」
頭を打ち据えられた衛兵は自分の吐いた吐瀉物の上で転がり回った。兜を被っていた所為か殺すまでには至らなかったようだ。
怒りに満ちた目で此方を衛兵が見てきた。彼の手は剣の柄に伸びている。
ディリオンは衛兵に飛び掛かった。体ごとぶつかって来たディリオンの衝撃で衛兵は剣を取り落とした。二人は揉み合い、つかみ合あった。
衛兵はディリオンの顔を殴り付け、引き剥がそうとした。ディリオンの顔に激しい痛みが走り、血が吹き出したが怯む事無く組み付いた。
「この、離れろ! 屑野郎が! くそっ、ぐうっ!」
ディリオンは喚いて暴れる衛兵の首に噛み付いた。そして痛みに悶える衛兵の隙を突いて、両手を首に回した。
「あがっ……止め……はな……せ……」
衛兵の首を締める手は自分でも驚くほどに力があった。振り解こうとする衛兵の力でもびくともしなかった。ぐいぐいと首を締めていくとみるみる内に衛兵の顔は青白くなっていった。
「たすけ……やめ……」
何とか逃れようと悶える衛兵の首を締めながらディリオンは爛々とした目で見つめていた。次第に衛兵の動きは鈍くなり、そして動かなくなった。
――やった、やった、やった、やった、やったやったやったやった――
ディリオンは手を首から離した。全身が震えている。頭ががんがんする。頭に声が響く。
ふらふらと立ち上がったディリオンは一心不乱に衛兵から身包みを引き剥がした。兜も鎧も剣も服も財布も何もかも。念のため衛兵の顔をめちゃくちゃに切り刻んで誰か分からないようにしてから死体を残骸の影に隠した。
そして、ディリオンは奪いとった装備を身に付けて路地から抜けた。
彼は救いを掴みとったのだった。