6.お風呂に入る時は着替えの準備を忘れずに
裸とかおっぱいとか。
そんな事ばっかり言ってるお話も、次のお話でとりあえず一段落です。
前回お風呂に入ったのはいつ頃だったか。
ちょっと思い出せない辺り、かなり前だった気もする。
年頃――はもう、ずいぶん彼方に過ぎ去っているとはいえ、見てくれだけは年頃の女の子なのだから、そういうのはどうかと思わない節もなくはない。
だが、もう、そんなのどうでもいいのだ。
「君のせいでえらい目にあったんだからね!無理にでもお風呂に入ってもらうから!」
そう宣言し、全裸で仁王立ちするまどかの足元で、いぬこは「ひーん」と哀れげに鼻を鳴らす。
家を出るまではたるんだ皮膚に、ふさふさとした毛皮という出で立ちだったいぬこ。
だが今は、その毛はすべてかりとられ、たるみだけが残った貧相な姿になりかわっていた。
全身の毛をかられた上から皮膚病の塗り薬も塗りたくられて、ぬめぬめと光るその姿ははっきりと不気味だ。
なんのことはない。
臭かったのはいぬこだったのだ!
「のみに皮膚炎。それから、汚れ!全部落ちるまで洗いまくってやるんだからね!」
そう宣言したまどかの足の間をすり抜けるように走り出すいぬこ。
あるいは、昼間なら逃げられたかもしれない、なかなかの速度だったが、まどかとて夜の王と言われる――まぁ、現実はそんな大層なものでもないのだが、吸血鬼のはしくれ。
身体をぐわっとひねり、いぬこの身体を組み伏せる。
全身に塗られた塗り薬のぬめぬめが気持ち悪いし、なんといってもつかみどころがない。
それでも、指にしっかりと力を入れて、たるんだ肉をつかみ離さない。
もう、いぬこだけの問題ではないのだ。
いぬこが嗅ぎまわった服も、一緒に寝た布団も。それから、今日着てたジャージも。
もう、家じゅうのなにもかもが、いぬこの身体についていたのみやらなにやら。
とにかく、なんだかよくわからない物に汚染されていた。
幸いというべきか、吸血鬼はそういうものに刺されないし。そいつらが伝染病を持っていたとしても、それに倒れる事はない。
だがしかし、もう今日着る服がないのだ!
この怒りのやり場をどうすればいいのか。
「さぁ、お風呂に行きますよ!」
とりあえず、嫌がるいぬこを洗い倒して溜飲を下げるほかないだろう。
そんなもんで下がる、安い溜飲なら我慢すればいいと、まどか自身も思わなくもないが……沽券の問題だ。
暑い日だし、快適だからいいか。
なんて思うのは、おそらくまどかだけで、足元ではいぬこが歯をがちがち鳴らしている。
かなり長い間、ご無沙汰だったお風呂。
あんまり構わないでいたせいなのか、湯沸かし器――昭和五十年代製のベテラン選手は、すっかりご機嫌斜めで、その役目を放棄していたのだった。
その内あったまるだろうって、情け容赦なくいぬこを洗って。お湯が出ないなあ……と、まどかが気づいたのは、いぬこを泡まみれにしてからだった。
「はい、泡を落としますよー」
「うー」
自分でも気持ち悪いくらいの猫なで声で呼びかけてみたが、いぬこは低く唸るばかり。
なんの準備もなく冷水を浴びせられ。抗議しても押さえつけられ、冷水を浴びせ続けられたのだから、無理もない。
しかも、さらにそれを上塗りしようというまどかに腹を立てないとしたら、それこそ野性を失っているという証拠になってしまう。
とはいえ、今更野生を発揮して、泡だらけのまま外に出られでもしたら、被害は広がるばかり。
逃がすつもりもない。
冷水をじゃーじゃー噴き出すシャワーノズル片手に、いぬこを風呂場の隅っこに追いやったところで気づく。
(あれ?こんな時間に、家の前に車が……)
と、思った瞬間。
身体の底を揺さぶる様な衝撃が、屋敷の中を。それから風呂場を駆け抜けていった。
風呂場から顔を出して様子をうかがう。
そこには、玄関からにょきりと顔を出したトラック。
ぼろ屋とはいえ古い作りの洋館は頑丈だったらしく、ガラスが割れ、あちこちへ混んで傷だらけになったその中から、やけにだぶついたズボンをはいた三人の男が降りてきた。
手にはつるはしやらしゃべるやら。工事の道具を持っている。
知り合いにはいないタイプの、日に焼けた。筋骨隆々の男達だ。
「なんなんですか、貴方達は!」
風呂場から首だけ出して。でも、全裸なので外に出る訳にもいかないまどかの問いかけに、その男達はこたえなかった。
答えないまま、一直線に風呂場に向かってくる。
トラックで家に突っ込んでくるような人間に、悪意がない訳などない。
(馬鹿だ、私!)
声さえかけなければ、パンツくらいは履く時間があったかもしれない。
だが、声をかけて、自分から所在を教えてしまった。
歯ぎしりしながら後悔をかみしめて。でも、どうしていいのかよくわからなくてあわわ、あわわと思っている内に、風呂場の扉が破られた。
「おい、犬を返してもらうぞ!」
「は?」
犬を返せ?
犬?
いぬこの事か!?
扉を破ると同時に発せられた、余りに予想外の要求におっぱいも股間も隠すタイミングを失って棒立ちのまどか。
それから、よもや全裸とは思っていなかったのだろう男達。
両者の視線が絡み合って、それから
「「ぎやあああああああああああー!」」
どちらからともなく悲鳴を上げた。
かたや、裸を見られた羞恥で。
かたや、その恥ずかしさで、手加減のきかない吸血鬼の鉄拳を受けて。
そこから先は地獄絵図そのものだった。
事情を斟酌せず、とにかく全員をのして、それからちょっぴり血を失敬したまどかは、いぬこを連れてお勝手口――トラックが突き刺さった玄関は、もう使い物になりそうもない。
そのお勝手口も、長い事開け閉めしていないからなのか、それともトラックが突っ込んだせいなのかはわからないが、ぎしぎしとなかなか開かなかったのだが。
ともかく、なんとか外に出た。
……のみにたかられたままのジャージ姿――下着は回収できなかったから、地肌にジャージ。
もう、なんだか泣けて来たけど。それでも、なんとか外に出る。
玄関前のポーチの辺りに出ると、そこには黒光りするドイツ車が停められていて
(あー、やっぱり)
その横にその持ち主であろう、パンチパーマの男。
鮫島がいた。
「おい、あいつらどうした」
「中で伸びてますよ」
「だらしねえ……」
鮫島は舌打ち一つ。
それから、煙草をくわえ、ふいっと大きく吸い。そして、ゆっくりと煙を吐き出す。
「あの。いぬこが鮫島さんの犬だっていうなら返します。この子、友達から預かっただけなんです」
「おめえさん、ここまでやられてまだそんな腑抜けたこと言ってんのかい?」
じゃあ、どうしろっていうんだ。……と、心の中で舌打ち一つ。
七十年近く生きてきて、ここまで滅茶苦茶な事をしてくる人間は――吸血鬼には、たまにいるのだが、それはさておき。
少なくとも、家にトラックを突っ込ませるというのは異常事態だ。
まどか自身も、この男をどうしていいのか測りかねていた。
「家族を連れ去った奴を、そのままにしておく手はねえ。それくらいはわかるだろ?」
「あー、あの。変な映画の見すぎなんじゃ……」
「うるせえ!」
頭に血が上っているであろう鮫島の怒声が、びりびりと辺りを震わせる。
まどかも。そして、いぬこも首をきゅうっと縮ませた。
「おれ直々に、おめえさんを相応の目にあわせてやるから覚悟し……」
のしのしと歩み寄ってくる鮫島の胸ポケット辺りで、『わんわん』『わんわん』と犬の声が鳴った。
『ちょっと待て』とでもいうように、まどかに手を向け、じゃらじゃらと、なんだかよくわからない飾り――だが、どれも犬をモチーフにしたもののついた携帯を取り出す。
(着信音まで犬ですか……)
もう、なんだかげんなりするまどかを尻目に
「鮫島!」
と、名前だけを名乗って電話に出た。
こういうの、テロリストを二十四時間追いかけるドラマで見たなあ……。とか。
そういえば、吹き替えの人と声がそっくり……。とか、益体のない事を考えていたまどかの耳に、聞き捨てならない言葉が飛び込んだのは次の瞬間だった。
「なに!?ジョルティちゃんが見つかった!?」
驚いたのは鮫島だけではない。
まどかだって驚いた。
いぬこも。
まぁ、いぬこは声の大きさのせいだろうが。とにかく、びくっとなっていた。
そんな外野の様子とは関係なく、電話の向こうではまだ説明が続いているようで、その説明を聞きながら、鮫島は少しずつ顔色をなくしていく。
そして、ちらちらとまどかを見るようになった。
「警察から……預かってるって電話が……あ、あぁ。わかった。すぐ行く」
ぶるぶる震えながら、鮫島は電話を切った。
「あー。鮫島さん、ちょっとお話したい事があるので、今の人にちょっと遅れるって電話かけてもらっていいですか?」
「……はい」
一回り以上小さくなったように見える鮫島に、いぬこが一声「わうん」と吠えた。
夜はまだまだ長い。
勘違いとか手順の間違いで、事が大きくなるってありますよね。
我が家のわんこは数日間、お隣さんに飼われていた期間があります。
私と旦那が必死に探して、警察とか保健所とか、ほうぼう探し回ってたのに……。




