5.男とか女とかそういうのを気にするのは小さい
我が家の犬は、動物病院から脱走して行方不明になった事があります。
無事見つかりましたけど。
自分を大きく見せる。
それは争いを避けるために必要な、最低限の備えだ。
身体を大きくするのには限界がある。だからこそ、それ以外の方法で自分を広く周知する様々な方法が進化の過程で考え出されてきた。
方法は無論一つではない。
だが、効果的なものは限られている。
例えば……
「お姉さん、臭い」
もう閉店間際だというのに、ペットショップ併設のペット病院のあまり広くはない待合室はにぎわっていた。
にぎわっているというより、混雑しているというのがふさわしいその空間に、子供特有の少し甲高い。でも、とげのない声が響く。
「え、あ。え?」
不躾な言葉を叩きつけられたまどかは、まず周囲を見回した。
自分の周りに、お姉さんなんて呼ばれる年齢の人――そもそも、待合室には女性がその子のお母さんしかいなくて。しかも、あんまりお風呂に入ってなかったり、家から着てきた小豆色のジャージもしばらく洗濯してなかったり。
とにかく、心当たりが多すぎて、自分じゃないと思う事も出来ず、その子の顔を思わずじっと見てしまった。
なんの悪意もない笑みを浮かべたその顔に
(やっぱり臭かったんだ、私)
ちょっとそうなんじゃないかと自分でも思っていたのだが、事実と向き合うことを強要されて、まどかの心は早くも折れそうになった。
呼吸をしないまどかにとって――というより、多くの吸血鬼もそうだと思うのだが、匂いというものを感じ取ることはとても難しい。
だからこそ、無自覚である者も少なくない。
映画の吸血鬼が自分の発する死臭に気づかないというのが、まさか自分に降りかかるなんて。
「あ、あの。私、臭いですか?」
「そ、そんなことありませんよ!ねぇ?……ほら、しんちゃん謝って!」
だが、現実は現実だ。
臭いと言い放った子供――しかも、お母さんがいくら謝れって言っても「だって、ほんとに臭いんだもーん」なんて、反省なんかかけらもないその子。
子供に注意しながら。でも、ちょっと苦しそうな笑みを唇の端っこにはりつけたお母さんの態度も、口にしたフォローを裏切ってる。
(は、恥ずかしい……)
子供が臭い臭いって連呼してるからなのか、待合室中の視線は自然とまどかに集まって。もう、いたたまれなさが半端ない。
自意識過剰なのかもって思えればいいのだが、近くに座っていた男の人も。ちょっと離れたところにいるおじいさんも。ペットショップの店員さんも。もう、どいつもこいつも、まどかと目が合うとさっと視線をそらすのだ。
「あふぁ」
どんなに恥ずかしくても顔に血が上ってくることなんかあり得ないのだが、それでもほっぺが厚くなる感じがするのは錯覚ではないのだろう。
こっちは恥ずかしさで口をかみしめているのに、犬はのんきにあくびをしていて。その口を無理やり閉じてやりたい気持ちがむくむくと頭をもたげるのを必死に我慢。
もう、太陽の光を浴びて、灰になってしまいたい!って、全力で思っても、今はあいにくの夜だ。
どうせそんなのかないっこない。
姿を消す能力でも使えれば。あるいは霧にでもなれたら、本当に消えてしまうことも出来るのだろうが、そんなの土台無理だ。
ああいうのはフィクションの中だけの力だ。
(早く済ませて帰りたい……)
帰りたいのに、なんだか受付のところにはりついてる人がいて、まどかはいまだ受付さえしてもらえていない。
襟のあいたシャツの隙間から、金色のネックレスがのぞく。
わざわざそういうイメージを作ってるのか、髪の毛もご丁寧にパンチパーマのその人は受付のカウンターをバンバン叩きながら
「なんで見つからねえんだ!真面目に捜してんのか!あぁ!?」
とかなんとか。
とにかく、口の端っこに泡を作って、受付の女の子に詰め寄って、かれこれ三十分が過ぎようとしている。
威圧感たっぷりのその男――大抵の人間が、恐れて要求に従ってしまうのではないかと思える風貌なのだが、受付の女の子は動じていない。
それどころか
「何度も申し上げていますが、この病院にはそれらしい子は来ていません!もし、心配なら保健所にでも連絡してください!」
「保健所になんか行ってるわけねえんだよ!血統書つきだぞ!盗まれたに決まってるんだ!皮膚病の治療の途中なのに、可愛そうなジョルディ。どっかで寒い寒いって泣いてるかもしれねえだろうが!」
「いま、真夏ですよ。そんなことある訳ないでしょ!だいたい、そんな心配するなら警察に行けばいいんですよ!保健所に行ったって、迷い犬は拾得物扱いで警察に届けられるんですから……」
大声を上げる男に対して、毅然とした態度で言い返してまでいる。
見る人が見れば、それはちょっとした活劇だ。
だが、臭いといわれた衝撃は、そんな光景を楽しむ余裕を奪っていた。
「あの。受付だけでも先にしてもらえませんか……」
頭の中をぐるぐる廻る「お姉さん、臭い」という言葉に押されて、その活劇の現場に踏み込んだまどかを、パンチパーマの男はじろりとにらんだ。
「ほら、鮫島さん。どいてください。こちらにどうぞ」
「お、おう」
この場で一番迫力があったのは受付の女の子だったらしい。
鮫島はカウンターの前のスペースを少し開け、そのまま、そこから一番近い席にどさっとわざわざ威圧的に、音を立てて腰かけた。
その音に、明らかに舌打ちをした受付の女の子――研修中と書いてあるネームプレートには、おおいずみとひらがなで書かれている。
ほっぺにそばかすの浮いたその子は、手元の要旨を取り出すとまどかの前に置いた。
「こちら、太枠のところを記入してくださいね」
「あ、はい」
渡された紙に、名前、住所、電話番号……必要事項を記入していく。
年齢は……十八歳、でいいかな?
ちょっと悩んでいると、すぐ横から
「お嬢ちゃん、わんちゃんの名前は?」
「あ。え゛?」
「名前はって言ってんだよ」
名前。
いや、名前!?
「な、名前ですか!?」
「おう。名前だよ」
ぐっと喉の辺りに言葉が詰まって、まどかは飲み込むものもない口の辺りをごくりと鳴らす。
鮫島の問いがなくても考えなければならなかったのだ。
手元の書類にも、ペットの名前を書く欄があるのだから。
「い……」
「い?」
「いぬこ、です」
「オスなのにか?」
お、オス!?
雄なの!?
鮫島の言葉は、さらにまどかの動揺を誘う。
オスかメスかなんて、気にしてもいなかったのは確か。
「わふん」
あんまり長い待ち時間に飽きたのか、犬――たった今、いぬこと名付けられたそいつは、まどかのお尻を支えに後足だけで立ち上がっていた。
その股間には、立派なキノコがそそり立っている。
「お、オスでも。です!!!」
勢いをつけて言い切ったまどかをぎろっとにらむ鮫島。
眼をそらしたら、なんかされる!
……というのは思い込みかもしれない。
でも、鮫島の威圧感はぎらぎらと強くて、それなりの荒事を踏んできたまどかの言葉尻とか膝の辺りとか。あちこちをふるわせた。
「……いぬこ、な」
「そ、そうです。いぬこです、よ」
もう、なんだかいろんなことに自信がなくなってきた。
それでも、まどかはボリュームのない胸を精一杯張って、鮫島を睨み返す。
沈黙一瞬。
時が止まったみたいなその一瞬の後、鮫島はふいっと目をそらし
「わかった。おい、行くぞ!」
と待合室中に低い声を響かせた。
その声に、椅子に座っていたそこここの男達が立ち上がると、ざかざかと歩き出した鮫島の後に続いていく。
混雑しているように見えた待合室は、鮫島達の一団が立ち去ると、さっきの子供とお母さん。
それから、カメを連れたお爺さんしか残らなかった。
「なんだったの、あれ……」
「馬鹿なんですよ。ただただ純粋な、大馬鹿です」
おおいずみさんは言下にそう言い切ると、まどかの書いた書類を引っさらうみたいに自分の手元に置くと、自分の仕事に取り掛かった。
呼吸をしているなら、確実にため息をついたところだろうが、あいにくまどかは息などしない。
吸血鬼は、呼吸などしないのだから。
子供の何気ない一言は、親にとって結構困り物です。
「あのおじさん、どうして毛がないの?」
と、旦那様の上司に話しかけた次男の事、上司の方はいまだに覚えているようです。




