真黒に没んだ刻の中で
はじめましての方ははじめまして。普段、『妖刀迅譚』という小説を書いています、梯広興と申します。
「夏のホラー2026」の企画を見て、自分の身に起こった出来事を急遽書いてみました。
散文につき、御見苦しい点もあるとは思いますが、初短編ぜひとも御拝読いただけますと幸いです。
「よし、行くか」
大学進学に併せて一人暮らしを始めてはや数ヶ月。受験太りと一人暮らし特有の自堕落な生活の合せ技が祟り、高校時代など見る影もないほどにみるみると肥えていく。
今となっては体重計に乗ることすらも億劫になってきている。
そんなこんながあった末、ふと思い立つ、「痩せよう。」と…。
寝転んでいたベッドから、緩慢という言葉が似つかわしい様子で起き上がる。
「モテたい!」そんな不純極まる理由で始めたランニングも、何となくで続けること二週間。
季節は五月も折り返し。今日も今日とて、講義上がり、夜の七時になろうかという頃合い。上下共に裾長のジャージを着替え、すっかり使い古しとなったランニングシューズの履き心地と共に家を発つ。
店の明かりと街灯、ヘッドライトが照らす宵の口。それらを篝火に、そこそこのペースで地下鉄駅を通り過ぎる。
耳元のワイヤレスイヤホンからは、推しのアーティストの新曲が流れている。
プレイリストを延々と流しながら約一時間、ひたすらに走ったり歩いたりを繰り返すのがマイルーティン。
気がかりな安全対策についても、イヤホンの設定をヒアスルーに切り替えているので、不意に車が来ても気付ける安心設計。退屈なランニングに華を持たせる相棒だ。
それに加えて、ここ数日はマンネリ予防と、見知らぬ土地に慣れるため、普段のランニングコースから逸れた道を気分で選ぶようにしている。
今夜のランニングメニューは、駅裏から都市圏へと延びる国道付近を約二駅、距離にして往復3.4kmほど。
駅前から徒歩十分の所に居を構える私にとって、駅裏はまさに未知のエリア。道中、気になる店があれば、後日立ち寄ってみるのもありだろう。
まるでRPGゲームのまだ見ぬダンジョンに足を踏み入れる様な気持ちで心躍らせるながら、夜の街へと飛び出してゆく。
「うし!」
屈伸とアキレス腱を入念に伸ばし、自分を奮い立たせて軽快なステップでアスファルトを蹴る。
幹線道路を周りを見回しながら、黙々と征く。
(意外と栄えてんのね・・・)
私が脚を進めているのは、向かって東側、ハンバーガー屋やレストラン、マンションが所狭しと並んでいる一帯。
夜時においても、煌々と明かりが灯っており、郊外においても活気が漂うランニングコースとしてもうってつけの道になるだろう。
一方で西側には、一段上のところを旧道が走っているためか、歩道と旧道を繋ぐ階段と街灯があるだけの何処か物悲しい様子を醸しているが、特に変哲もない普通の道路だ。
しかし、幹線道路、それに帰宅時間ということもあるのか、バイクからトラックに至るまでひっきりなしに通っており、足元まで照らしてくれている。街灯に加えてこの交通量であれば、念のために持参した小型ライトの出る幕はなさそうだ。
何時もと何ら変わらないランニング。等間隔に並ぶ街灯の切れ目に差し掛かる。
その刹那、背筋に凄まじいほどの寒気が奔る。
(!!)
突然襲い来る感覚に思わず立ち止まる。周りを見回してみても特に何もない。
そこにあるのは、夜時真っ盛りで人で賑わうチェーンレストランのみ。
状況確認を済ませるよりも早く、寒気が瞬く間に脳にまで伝播する。
ここに至って、漸くこの感覚の異常性を理解した。
普段感じることなどあり得ない感覚。首の内側、脳幹。といっても文系の私には詳しいことは解らないが、とにかく後頭部から首筋にかけて凍り付くような寒気が絶えず襲い掛かってくる。
既視感のある怖気。何処かで感じたことがあるような、ないような。
人間の防衛本能か、それともただの探究心か。脳内の引き出しが開かれ、記憶の参照作業が猛スピードで行われる。
時間にして数秒たらず、やけに冴えてしまった脳味噌は、幾層にも積み重なった記憶を掻き分け、深層にあったそれの正体に触れ、
(――――――!!!!)
記憶の合致を確信し、魂が悲鳴を上げた。
これと同じ感覚を私は経験している。
話は高校時代にまで遡る。
塾の夏期講習に向かう際に、たまたま寄り道したところにあった何の変哲もない神社。自転車を停め、何気なしに入った境内でそれは起きた。
鳥居を二つ潜り抜けた先に広がっていたのは、ただ、背の高い木々と神社の本殿だけがある空間。
ワイシャツが肌に張り付くような酷暑と、蝉の声しか響いてこないような真夏の昼下がり。誰もいようはずがない。
広場中央にふらりと到達した瞬間、背中の髄まで冷め切るような感覚に苛まれる。
何の前触れもなく起きた現象に対し、周囲の状況を理解するよりも速く、脳味噌が全力で警鐘を鳴らす。
「ここに留まり続ければ生命はない」
信号を受けた身体は、反射的に鳥居へと脚を運び出した。逃げるように鳥居を潜り抜け、後ろを振り返ることもなく自転車に跳び乗り、その場を離れる。
一心不乱にペダルを漕ぐこと数百m、途轍もない量の汗が張り付いた服の不快感に気が付いた時には既に寒気と警鐘は雲散霧消していた。
後日、その話を近所の友人にしたところ、彼自身もそこで「誰かに見られているような感じがした」と話していたのだ。
あの時の感覚が黄泉返り、改めて脳幹が冷めて震え上がる。
ここにいちゃいけない。ダイエットという御題目も忘れ、ペースも無く、ただこの危険地帯を脱するべく南へ駆ける。
偏に寒気と言っても、風邪やインフルエンザの時に感じる寒気とかそんな生優しいものでは断じてない。
怖気に近いが、それとも何かが違う。言うなれば、もっと悍ましく、根深い、原初的な恐怖。
いくら走っても全く消えることがない怖気。寧ろ、そこに痺れも加わり、増しているような感触すらある。
少し進むと、歩道橋が見える。退くか、進むか、二つの選択肢が浮かび上がる。
元いた場所には戻りたくない。とはいえ、このまま南に逃げてもこの感覚からは逃れることは出来ないだろうと思えるほどに寒気、怖気、痺れは心身を侵食しつつあった。
ならば、採るべき選択は第三の選択肢。これ幸いと階段を駆け上がる。
とにかく反対側に渡ろう、そして取り返しがつかなくなる前に、このエリアから逃げよう。
国道の真上を通る。こんな状況に陥り、恐慌状態の直中にいる私など知る由もなく、車の往来は先ほどと変わることなく激しく、ヘッドライトの葬列は止め処なく続いていた。
しかし、不思議なことに、車の走行音が全くと言っていいほど聞こえない。更に、今の今まで気が付くことがなかったが、耳元で流れていたJ-POPも頭に響いてくることがなかった。
危機に置かれ、脳が聴覚情報をシャットアウトしたのか、子細は知らないが、そんなことお構いなしに脚を進める。
今の私にとってこの異常事態ですら気にしている余裕はなかった。
歩道橋も終点に近付き、一味変わった点に気が付く。
歩道橋の出口は、旧道方面と歩道方面に枝分かれており、それぞれ、もと来た方向へ道を延ばしている。
善は急げと、近場の旧道側に向かうべく、踏面に足を伸ばす。
半歩足を踏み出し、一段下がった所で、足がピタリと止まる。というより、これ以上、足を進めることができない。
脳内で強まっていた怖気がまた一段と強くなる。
脚元を見つめ、一つの確信に至る。
此処に足を踏み入れれば
『死ぬ』
なぜこの帰結に至ったのかは、理由などは判らない。
ただ、以前にも経験したものとは比較にならない程の警鐘が頭の中で鳴り響いている。
(ここにいるのはヤバい!)
飛び降りるように下側、国道の方向に向かい、歩道橋を離れる。
生存本能か、魂の叫びか、身体に伝わる信号に従って、ただひたすらに走る。
手足の感覚は、靄が掛かったかのように朧気になり、聴覚に至っては機能しているかも怪しい領域にまでその役割を果たせていない。
視覚だけがボヤケながらも働いているような状況の中、視界の端にとある看板を捉え、足が不意に止まる。
『刑場跡』
時代は遥か遡り、江戸の世。
この土地を治めていた大藩が約百七十年に渡って運営していた刑場があり、そこでは磔、火焙り、斬首などの今では考えられないような凄惨な刑が執行されていたという。
ホラーや怪談話が苦手な私にとって何があっても出会いたくはなかった場所。
この辺りにあるらしいとは聞いていたが、精々、自身の行動圏内にはない、どこか別の世界の話だろうと思っていた。
まさかこんな近い所にあったとは、こんな所で遭遇するとは露ほども思っていなかった。
止めたくなかった脚が動きをやめ、矢印で示された先を階段の下から望む形になる。
つい今しがた足を踏み止めた先にあったであろう、ありえた可能性の景色は、ただ真黒い夜闇が支配する静寂の空間。
周囲には街灯も車通りもある。しかし、その区画だけ、そこだけがトーン張りされたかのように黒一色に染まっている。
まるで光すら、音すらも飲み込むような暗晦。
それは、まるで来訪者を拒んでいるのか、それとも、誘っているのか。
瞳孔が引き絞られ、全身が総毛立ち、声こそ出ることは無かったが、確かな叫びが脳内に響く。
手持ちのライトを使う余裕など、残されていようはずもない。
怪談が苦手な臆病者という一言では片づけることのできない何かがそこにはあった。
最早、形振りなど構っては居られず、全速力で歩道を走り抜ける。
もう何も入らないように、視界の中央だけに意識を移して、感覚すら残らない脚を前に出し続ける。
赤信号にぶつかり、意識が引き戻される。時間にしてほんの数分だったのだろう。しかし、永遠とも思える時間、一心不乱に走り続けたためか、駅からそれなりに離れた場所まで辿り着いている。
その時にはいつの間にか怖気は消え、大型トラックが走る音、いつの間にか流れに流れたプレイリストの旋律も耳に届くようになっていた。
途方もない程の恐怖と、総毛立った感触が遺る腕を長袖の上から擦り潰し、音圧の強いロックナンバーで押し流しながら、覚束ない脚を奮い立たせて家路につくのであった。
あれから二年ほどが経った時だろうか、この頃の私は、論文の材料集めで半ば図書館の住人となっていた。
薄暗い書庫の中で専攻分野である地域史研究に役立つ文献を求めて、とある本に手を伸ばす。
『〇〇市史』。江戸時代には置かれていた大藩の藩祖が、地元と縁のある武将であったため、この本には大変世話になっている。
数十分後、資料の要約にも一区切りが付き、背伸びをする。
次なる資料を求めるため、一先ず市史を本棚に戻す所で初めて気が付く。隣には『〇〇地区の歴史』という本があった。
今日のノルマは達成できている、一息つくのも良いだろう。箸休めがてら、本を棚から引き抜く。
パラパラとページを捲る中で、地域の史跡なる項目が目に飛び込む。当然の如く、例の刑場跡の記載が見えた。
(そういや、んなこともあったな…)
あの一件以来、あの近辺、駅裏には足を踏み入れていない。
二年も前の出来事、今更何を知った所でどうってことはないだろう。
そして何より、一つの歴史として知り、表も裏も併せ呑むことも歴史研究では必要なことだ。
怖いもの見たさ、興味本位で読み進める。
ページをさらに進め、行き着いた記述を見て、驚愕する。
当時、刑場が稼働されていた当初は、今よりも東側にあった。しかし、昭和期に行われた道路拡張の影響で史跡を移転させて今に至る。そして、その場所とは、国道を挟んで反対側、レストランがある地点と合致するということ。
途端にフラッシュバックする記憶。
脳が冷え切る程の怖気、脳内で鳴り響く警鐘、音が消え、手足が朧気になる感覚。
その発端となった寒気を感じ始めた位置こそ、レストランを過ぎたあたりであった。
本が手元から滑り落ちる音で、我に返る。
周りの眼すらも、気にすることなどできない程に取り乱しながら、本棚に叩き込むように仕舞い込み、逃げるように図書館を出た。
あれから数年が経つが、あのような脳が冷え切り、脳が一切合切の情報を遮断したような感覚に陥るような事柄は起こっていない。
あの感覚は霊感と言われるものだったのか。
もし本当に霊がいたとして、私に何を伝えたかったのだろうか。
そもそも、あれは本当に霊障だったのだろうか。
ふと思い出しては、記憶の墓場にしまい込んでおきたかった、実際に感じた『寒気』と音が途切れた世界がゾンビ映画の導入の如く、手を伸ばしてくる。
脳内にこびり付いて落ちない、あの感覚を思い出しては、それをヒントに、答えの出ることのない論題だけが空虚に堂々巡りしていく。
思い出しながら書くのは体力要りますね・・・
数年前の出来事なので抜け抜けの部分や、短編にするにあたって、一部脚色を加えている所はありますが、あの時感じた『寒気』と音が聞こえなくなったのは事実です。
あの感覚は一体何だったんだろう…




