アルは恐れを思い出す 5000年前の出来事
アルが目にした『ソレ』は、周りの木々を超えるほどの巨躯であった。
人類が知っている中で、最大の生物であるマンモスの大きさを、はるかに超えていた。
巨大な頭部に備えられた口は、人間程度なら一口で呑み込めそうな威容を誇る。
その内部には、鋭利に並ぶ大きな牙があり、まるで獲物を逃がさぬ檻のようだった。
金色に輝く瞳は、まるで獲物を見つけたネコ科の動物のように縦に割れていた。
それは本能に刻まれた捕食者の目であった。
肉厚で長い尾は、振り抜かれれば、あらゆるものを粉砕するであろうと容易に想像できた。
二足歩行で歩く強靭な後肢は、大地を揺るがせるほどの力で、踏みしめるたびに鈍い震動が周囲に広がる。
その歩みは、まるで大地そのものを従えるかのように響き渡る。
しかし、圧倒的な後肢に比べると、あまりにも小さな前肢が異様だった。
まるで、その巨体に不釣り合いな装飾のように、細く短く、それでいて鋭さを秘めた爪を持つ。
その腕が器用に動くたび、背筋に走るのは単なる恐れではない。
強さと、不気味さの融合。
鱗の生えた皮膚は、見るからに頑強だった。
深い青色の鱗が、光を受けて鈍く照り返し、まるで鋼鉄のような質感を帯びている。
鱗の一枚一枚が大きく分厚く、ぎっしりと組み合わさることで、まるで天然の鎧のようであった。
それは、この時代には既にいるはずのない生物。
『ティラノサウルス』そのものだった。
その巨大な生物は、人間達をその両目に捉えると、大きく吼えた。
そして疾走する。
地響きを上げその巨体に見合わず、鋭く獰猛な走り。
大地を踏みしめ、圧倒的な速度で駆ける。
踏み出すたびに、周囲の空気が振動し、足元の地面が捲れ上がる。
人々は逃げることも忘れ、迫りくるその巨体を見つめていた。
圧倒的な恐怖により悲鳴を上げることも、体を動かすことさえも許されなかったのだ。
そして、蹂躙が始まる。
千人を超える国民たちは、時間を追うごとにその数を減らしていった。
逃げることを思い出した人々は、自らの神に救いを求めるように、皆、アルのもとへと駆ける。
その生物は逃げる人々を追う。
アルは、逃げ惑う人々とその巨体を見ていた。
自分の目の前で人々が、挽かれ、喰われ、潰される。
アルは、すでに失くしたと思っていた感情を思い出していた。
——恐怖。
体の深い底から這い上がってくるような感覚。
何度も死を繰り返した果てに、忘れさったはずの恐怖が、彼の心の奥底に息を吹き返していた。
そして、巨体が目前に迫った。
圧倒的な存在感。
空気が歪み、周囲の温度がわずかに変わる。
そして嗅いだことの無いような異臭が辺りを覆う。
金色に輝く瞳がアルを見下ろす。
アルは、武器を手にした。
体が震えている。
だが、握る力は弱くなかった。
“人々の神”としての自負が、アルを突き動した。
恐怖は確かにある。
しかし、それを超えるものが、彼にはあるのだ。
勝負は一瞬、いや、勝負では無かったのだろう。
巨体が動いた。
その瞬間、全てが終わる。
その国の民は、目の前で起きた事を受け入れられず、呆然と立ち竦む。
『ソレ』は何を気にする事もなく、人々を楽しげに殺し尽くしていく。
そして動くモノがいなくなったことを確認し、どこかへ去っていった。
こうして、その国は滅んだ。
そしてその場所には、下半身のみを残したアルが、立っていた。
叫び声と共にアルは転生した。
最後の記憶を反芻する。
まるで悪夢としか言いようがなかったが、化け物の口の中でかみ砕かれた記憶は生々しく残っていた。
——きっとまた遭遇する。
それは確信だった。
アルは迷わない、過去、幾度もあらゆる困難を乗り越えてきた。
今度も必ず克服する、その覚悟があった。
あの化け物に名前を与えた。
『ゲオ』
その姿、その特徴、その絶望を言葉にし、人々へと伝えた。
そして、対処法を考える。
アルがまず行ったのは、軍隊の育成だった。
次にゲオへ遭遇したとき、誰もがただ恐れるだけではなく、戦えるようになるためだ。
そして、次の決断、外海への脱出。
アルは今までの記憶で、この大陸の地理を正確に記憶していた。
しかし、海の先に渡った事は無かった。
必要を感じなかったからだ。
この広大な大陸で、人々を増やし広がる事を使命としていた。
しかし、もしゲオへの対策が上手くいかず、この大陸の人々を喰らいつくしてしまったら人類は滅びる。
それを避けるために、他の大陸がないか探してみることにしたのだ。
漁をするための簡易的な船ではなく、長い航路を行くための頑丈な船を作り、一人で東西南北全ての方角へ順に出発した。
何度も遭難や沈没を繰り返しながら、人が住めそうな陸地を見つける。
そして、また元の大地に戻り、人々を連れ移住させた。
そんな生活を送り何度目かの転生の時、再びゲオの襲撃を受ける。
アルは前回とは違い、その国に用意していた軍隊と、その時作れる最高の武器を持って挑む。
——戦いは、敗北に終わった。
生き残ったのは、避難所として地中に作っておいた部屋に逃げ込めた者のみ。
軍隊はほぼ機能せず、ゲオの情報があったとはいえ、それを活かせるほどの力は持ち合わせていなかった。
だが、その戦いの最中、アルはゲオに傷を刻んだ。
それは、かすり傷かもしれない。
しかし、確かにゲオの鱗を削り、その絶対強者と思われた存在の血を流すことに成功した。
次の転生時、意識が戻ると同時に記憶が蘇る。
ゲオに殺された時の強烈な痛み。
そして、アルに傷を付けられた事に驚き、その金色の目を大きく開いたヤツの顔を。
アルは、大きく息を吐き、そして、獰猛に嗤った。
それは歓喜ではない——復讐の始まりを告げる笑みだった。