ep.8
ざわめきは、やがて疑念へと変わっていった。
扇の陰で顔を見合わせる貴婦人たち。
視線を逸らす男たち。
誰もが、自分は関係ないと祈るように沈黙している。
──だが、遅い。
「どうして……どうして今さらそんなものを……!」
ついに、ベルティーナの声が弾けた。
仮面のように完璧だった微笑みはひび割れ、赤面した頬に怒りが宿る。
「姉様の日記だなんて、そんなもの……! 誰が本物だと証明できるって言うの!?」
叫びは会場に響いた。
その裏で、幾人かが囁く。
「やっぱり、あの事故……」
「メリセラ様、疑いもあったものね」
「ロルデナ家って──あの時、急に態度を変えて……」
声が広がる。疑いが染みる。
もはや、王宮の空気は、元の絹には戻らない。
そのとき、壇上で黙っていた王子が、静かに一歩を踏み出した。
「──やめなさい、ベルティーナ」
低く、けれど通る声だった。
ベルティーナはその名を呼ばれた瞬間、表情を固めた。
「……殿下?」
「貴女は言葉を慎みなさい。これは、民の前で交わされている正式な場です」
「で、でも……わたくしは……っ」
王子は視線を逸らさない。
そして、わたくしの方を見た。
「──貴女。まだ名を明かすつもりは、ないのですか」
問いかけではなかった。
確認するような、いや──挑むような目だった。
わたくしは答えなかった。
ただ、一歩、彼に近づいた。
まるで、火刑台の記憶が再現されているようだった。
けれど今度は、わたくしの方が、先に足を踏み出した。
「なら、決着をつけましょう」
王子の声が、すべてを割るように響いた。
騎士たちがざわめき、貴族たちが色を失い、ベルティーナはわたくしを見る。
まるで初めて見る人間のように、戦慄をその目に宿して。
仮面の下、わたくしは微笑む。
──火では終わらなかった女が、今、裁く番に立つ。
わたくしは壇上へと歩を進めた。
誰もが見ていた。
扇の動きが止まり、グラスの音が鳴りやむ。
「……では、はじめましょうか。──公開の、御裁きを」
仮面を外したのは、一瞬だった。
場の空気が爆ぜたように揺れた。
叫び声。息を呑む音。誰かのグラスが床に落ちて砕ける音。
「ス、ステファニア……?」
ベルティーナの声が割れた。
その名を、死者の名を呼んだ瞬間、彼女の顔から血の気が引いた。
「あり得ない……っ、あなたは死んだ! 火刑に処された! 目の前で……!」
「そう。確かに燃えましたわ。あなた方の都合と、母の沈黙と、父の野心によってね」
わたくしは、まっすぐ彼女を指差した。
王子も、父も、母も、誰も動けなかった。
「偶然の事故で姉が死んだ日。階段の上にいたのは、あなたです」
「違う……っ! わたくしじゃ──!」
「姉は黙っていました。あなたを守るために。けれど、その優しさに甘えて、あなたはまた侍女を罵り、献品を隠し、誰かの名誉を踏みにじってきた」
「黙りなさい……黙って……!!」
ベルティーナの叫びは、もう誰の耳にも届いていなかった。
「父上」
「……っ……」
「あなたは姉が死んだその夜、すぐに次はベルティーナを王妃にと口にされたそうですね。
メリセラが遺した書簡に、それが書かれていましたわ。父の視線は、わたくしを通り越していた、と」
「ステファニア、おまえ……っ、誰にそんな──!」
「そして母上」
母は凍りついたように動かない。
けれどその瞳は、どこか別の世界を見ているようにぼんやりとしていた。
「あなたは、わたくしの燃え残った灰に、何の意味も見出さなかった。
それどころか、都合よく燃えたと、笑っておられたわね。先日のお茶会で、何人もの貴婦人が耳にしていましたわ」
誰かが、息を呑む音を立てた。
それはやがて波紋のように、会場全体へと伝播していく。
「これがロルデナ家の素顔です。──あなたたちは、王家の婚約者にふさわしくありません」
貴族たちがざわめいた。
そのざわめきは、恐怖と興奮と、そして誰かが声をあげてくれた、という解放のような色をしていた。
「……ステファニア」
王子の声が割って入る。
わたくしはそちらを振り向く。
「貴女は、今この場を、ただの告発で終えるつもりですか?」
「いいえ。──これは宣言ですわ」
わたくしは壇上に立ち、会場全体を見渡した。
「わたくしは、死んだことになっています。ですから、あらゆる罪も、記録も、失われておりますの。
けれど──正義とは、記録された罪だけを裁くものではありませんわ」
誰もがわたくしを見ていた。
美辞麗句は不要だった。
この目、この手、この声で、罪を叩きつけるだけでよかった。
「あなたたちがわたくしを焼いたあの日、すべてが始まったのです。わたくしの命は、あなたたちの手によって終わったのではなく、裁く者として生まれ直したのですわ──」
王子が、静かに目を伏せる。
「……この件、正式に審問の場を設けましょう。王家の名のもとに、証言と記録をすべて精査し、真偽を問います」
ベルティーナが崩れ落ちた。
母が顔を覆った。
父は、わたくしをにらみつけたまま、言葉を吐けなかった。
舞踏会は、もはや祝祭ではない。
ここから先は──裁きの劇場。