ep.7
その日、ポルフィリオは書庫の裏庭にいた。
わたくしが近づくと、珍しく自ら声をかけてきた。
「また会いましたね、セラフィーナ」
わたくしは、わずかに首を傾げて応じる。
「偶然、とは思えませんわ」
「……それは、お互いに」
彼は、白い石畳の上に腰を下ろし、隣を指差した。
誘われるままに腰をおろすと、やわらかな沈黙が流れる。
会話はない。けれど、言葉の前に必要な“間”だった。
「……ステファニアのことを、どう思っていましたか」
わたくしは問うた。
静かに、感情を含めずに。
王子は、すぐには答えなかった。
目を伏せ、しばらくののち、低く、口を開いた。
「……聡明で、少し冷たくて、よく笑わない女性だった。けれど、間違いなく、正しいものを見ようとしていた」
言葉に、演技はなかった。
本当に、彼は覚えていたのだ。
わたくしが燃やされた日よりも、もっと以前の彼女を。
「では、なぜ助けなかったのです?」
王子は答えなかった。
けれど、視線が揺れた。
「あなたは、あのとき、火刑台の下にいました。命じたのはあなた。無言で背を向けたのもあなた。なのに──今さら、惜しい人を失った顔など、していただきたくありませんの」
強くは言っていない。
ただ、確かに刃を渡すように、言葉を差し出した。
王子は、静かに目を閉じた。
「……わたしは、王族だ。制度を守る立場にいる。たとえ間違っているとわかっていても、口をつぐまなければならないときがある」
「便利ですわね、その言い訳」
わたくしは立ち上がった。
それ以上、言葉を交わす気はなかった。
「けれど、制度ではなく、あなた自身が沈黙を選んだのだとしたら──それは、いずれあなたを焼く火になりますわ」
振り返らずに、その場を離れる。
背中から届く声はなかった。
それでも、誰かが残した沈黙ほど、重たいものはない。
言葉より、ずっと雄弁に心を語ってしまうから。
王子の沈黙は、答えではなかった。
けれど、沈黙のかたちをしている分だけ、言葉よりも深く沁みた。
わたくしは問いを手放した。
もう、あの時の理由がどうであれ──この道を進むことに迷いはない。
その夜、部屋に戻ってから、メリセラの日記をもう一度開いた。
そこには、最後に小さくこう記されていた。
それでも、誰かがこの世界を信じていられるように、私はまだ、善くありたい。
姉は、最後の最後まで、諦めなかった。
誰かのために、手を差し出すことをやめなかった。
だからこそ、わたくしがそれを引き継ぐわけにはいかない。
これは、信じる者の祈りではない。正す者の手でなければならない。
(そう……ここからですわ)
今までは、ただの下準備。
微笑みながら毒を仕込み、沈黙の中に罠を張り巡らせていただけ。
けれど、これからは違う。
仮面の内側から刺すのではなく、
誰の目にも明らかな形で、ゆっくりと、確実に。
それが、わたくしの選んだやり方。
姉の分まで、この手で掴む正義。
──復讐は、ここからですわ。
年に一度、王都でもっとも華やかな夜がやってくる。
それが「暁光の舞踏会」と呼ばれる、王家主催の祝祭だ。
国内すべての上流貴族に招待状が届き、煌びやかな衣装と装飾、選び抜かれた音楽と料理が揃うその夜は、
ただの舞踏会ではなく──見せつける場だった。
見せるのは、権力。血統。美徳。
そして今年、それに加えられるのが──王太子ポルフィリオと、ベルティーナ・ロルデナの正式な婚約発表。
王宮の中央大広間は、金糸の天幕と水晶の燭台で満たされていた。
赤い絨毯の先、高座には玉座が設けられ、王子が並ぶのは、
──あの女だった。
「まあ、あのドレス……マリアント侯爵家の家紋入りよ」
「ロルデナ家、本気で後ろ盾つけに来たわね」
「でもほら、あの笑い方。相変わらず“作ってる”わよ」
招かれた貴婦人たちが、扇の陰でささやく。
ベルティーナは白金のドレスに身を包み、胸元には王家の婚約印。
まるで自分がこの国の未来を担う女であるかのような表情で、群衆を見下ろしていた。
──舞台は整った。
わたくしは、柱の影からその様子を見ていた。
名もない客のひとりとして。
舞踏会に紛れ込むための仮装をまとい、仮面をつけて。
今夜が、その時。
整えられた虚構の祝祭に、ひとひらの血の証言を落とす。
誰もが踊るその只中で、わたくしひとりだけが、真実を掲げて立つために。
扉が開いたのは、三度目の曲が始まる直前だった。
舞踏会では、誰もが入場の順番を知っている。
誰が中央を通るか、誰が主賓に拝礼するか──すべてが、台本通りの美。
だが、その時現れた人物の名は、台本になかった。
「……誰?」
ざわめきが、会場の端から端まで走った。
わたくしは、深紅のドレスに身を包み、金糸の仮面で顔を隠していた。
名前も、地位も、招待もない。
けれどこの場に立つことを、わたくし自身が選んだ。
歩き出す。
一歩ごとに、絨毯の上に沈黙が重なる。
誰もが、見てはならぬものを見ているような顔。
その視線を背に受けながら、わたくしは舞踏の中心へと進んでいく。
ただの仮面舞踏会の来客であれば、警備に制止される。
けれどこの場に限っては、誰も動けなかった。
──それは、恐れではなく、違和感だった。
「……あの仕草、どこかで……」
「立ち姿が……」
「まさか、でも……」
誰かが息を呑む音が聞こえた。
その中心で、ベルティーナが固まっていた。
完璧な笑顔が、僅かに引きつる。
それでも彼女は、どうにか笑みを保ち、王子の袖に指を添えた。
「まあ、殿下。今夜は随分、仮面の趣味が悪い方もいらっしゃるのですね」
声が震えている。
視線が逸れていく。
ポルフィリオ王太子は黙っていた。
けれどその目は、わたくしをまっすぐに捉えていた。
まるで、すべてを知っている者のように。
──名乗る必要は、まだない。
けれど、名乗らぬことが、最も効果的な正体明かしとなる夜もある。
わたくしは、微笑んだ。
そして、口を開く。
告発の前の静寂を、壊すために。
「──皆さま、ごきげんよう」
わたくしの声は、静かだった。
それでも、舞踏の音楽が止まり、空気が固まるのを感じた。
「お騒がせいたしました。ほんの少し、この場をお借りいたしますわ」
誰も許可は出していない。
けれど誰一人として、否定の声もあげなかった。
話を聞かずに済ませてはいけないと、空気がそう囁いていた。
わたくしは、懐から一冊の手帳を取り出した。
深い紅の革表紙──メリセラの日記。
「このたびのご婚約、まことにおめでとうございます」
言葉の端に微笑みをのせると、ベルティーナが顔をひきつらせるのが見えた。
声は出さない。
けれどその手が、王子の袖を強く握りしめている。
「……ですが、ひとつだけ、気になることがございますの」
わたくしは日記を開いた。
誰もが静かに息を飲むなか、ページを一枚めくる。──あの夜、階段の上にいたのは、あの子だった。言えば、母が困る。父が怒る。あの子は泣く。だから、わたしは黙っていた。でも、本当は知っている。知っていて、目をそらした。
「これは、故・メリセラ・ロルデナ様が生前に記されたものです。王家の者であれば、ご存じでしょう。彼女が事故死とされた夜の、前後の記録ですわ」
何人かがざわめく。
ベルティーナは笑おうとしたが、顔が引きつっていた。
「……あの子、とは?」
ようやく絞り出した声は、明らかに上擦っていた。
わたくしは、あえて答えなかった。
ただ、もう一文を読み上げる。
許そうと思った。でも、それが繰り返されるなら──あの子は、きっと、誰かをまた泣かせる。
王宮の空気が変わった。
明るく灯された水晶のシャンデリアの下、沈黙が重くのしかかる。
視線が、ベルティーナへと集まっていた。
笑顔が張り付いたまま、動けずにいる妹の姿が、あまりにも滑稽に見えた。
──これが、最初の一刺し。
けれど、ここで終わるつもりはない。
まだ、幕は上がったばかり。