ep.6
朝の光が、王宮の回廊に斜めの影を落とす。
その中で、ひときわ高い声が響いた。
「こちら、拭き残しがありますわよ。セラフィーナ。まったく、気が利かない方ですこと」
──また、始まった。
床に膝をつき、磨き布を手にしていたわたくしは、動きを止める。
けれど顔は上げなかった。
仮面が、ここではとても役に立つ。
「申し訳ございません、ベルティーナ様。すぐにやり直します」
柔らかく答えるその声は、もはや反射のように出てきたものだった。
わたくしの顔を見下ろす妹は、満足げに鼻を鳴らす。
「やっぱり、平民出の方には貴族の感覚なんてわかりませんのね。まあいいわ、教えて差し上げますわ」
貴族。平民。血筋。格の違い。
あの子は、その言葉をどれだけ武器のように使い回してきたのだろう。
彼女は知らない。
わたくしが何者かも、どれだけの痛みを飲み込んできたのかも。
──知っていても、たぶん関係ないのだろう。
この場にいるセラフィーナは、使用人のひとり。
彼女の前で口答えすることも、視線を返すことも許されない存在。
「ねえ、皆さんもそう思いませんこと? この方、気が利かないでしょう?」
周囲の侍女たちは笑わない。
ただ、目を伏せる。
顔に出せない哀れみが、空気に漂っていた。
(……これが、今の立場。ならば──)
わたくしは手を動かす。
無言で床を磨く。
誇りも、怒りも、今はすべて静かに沈める。
なぜなら、ここは戦場だから。
復讐とは、刃を振りかざすことではない。
じわじわと冷たく、皮膚の下に毒を流し込むようなもの。
仮面の奥で、それを嗜む余裕がなければ、淑女の復讐は務まらない。
わたくしは今日も、黙って跪く。
けれどその指先に力がこもるのを、気づく者はまだ、いない。
王宮の書庫には、誰にも見向きもされない棚がある。
献上記録、奉仕人員表、舞踏会の余剰品──そんな誰にも必要とされない紙片たち。
だが、わたくしはそれを証拠と呼ぶ。
「……ここですわね」
一枚の紙を取り出した。
王都東部、修道女育成院。
三年前の報告書に、気になる一文があった。
当時見習いであったベルティーナ・ロルデナ嬢の行いにより、献品一部が紛失。
証拠不十分につき、内部処理とす。
名前は伏せられていなかった。
むしろ、堂々と残っていたのはロルデナの名が、それだけ大きな影響力を持っていたからだろう。
(奉仕の修道女を……下働きとでも思っていたのかしら)
ふと、灰色の記憶が蘇る。
姉の慈悲深さに嫉妬するようにして、あの子が侍女を泣かせていた日々。
──ただの意地悪で終わればよかったのに。
家柄で封じられた告発。
泣き寝入りするしかなかった下層の女たち。
彼女の過去は、丁寧に塗り潰されている。けれど、それは消されたのではなく、眠らされていたにすぎない。
わたくしは、記録を手帳に書き写した。
それをただの復讐の燃料としてではなく、証言に育てるために。
わたくしの敵は、妹ひとりではない。
沈黙してきた者、見て見ぬふりをした者、そして──かつての自分自身。
そう思ったとき、不意に笑みがこぼれた。
紙に記された名前の筆跡を指でなぞりながら、静かに、心の中で問いかける。
ねえ、ベルティーナ。
あなた、本当に忘れてしまったのかしら。
それとも、忘れたふりのまま、最後まで演じ抜けるつもり?
……いいえ、どちらでも構いませんわ。
わたくしが、その幕を引く日までは。
メリセラの遺品は、家族によって「すべて処分された」とされていた。
けれどそれは、母と妹にとって不要だったというだけの話。
家中の誰もが彼女の存在を消そうとするなかで──たったひとり、そうしなかった人間がいた。
「……どうか、と思ったんですけどね。あの方のお部屋、なんとなく、気味が悪いってみんな言ってて」
当時、ロルデナ家の雑務を担当していたという、元侍女の老女はそう言って、紙包みを差し出してきた。
「でもわたし、どうしても捨てられなかったんです。あの方、とても優しかったから」
それは、丁寧に畳まれた古い布地に包まれていた。
小さな日記帳。花の香りは消え、革表紙は少し黒ずんでいる。けれど、頁は整っていた。
メリセラの筆跡も、変わらずに、そこにあった。
──あの夜、階段の上にいたのは、あの子だった。
誰にも言わない。言えば母が困る。父が怒る。あの子は泣く。
でも、わたしは、知っている。知っていて、黙っていた。
読み進めるうちに、喉が焼けるように熱くなった。
日記には、わたくしの名も何度か出てきた。
花を摘みに行った日のこと、図書室で笑った日、庭でわたくしが泣きじゃくっていたときのこと──
あの日、わたくしは、姉に甘えすぎていた。
その優しさに、何ひとつ返せないまま。
指が、震えた。
けれど涙は出なかった。
もう泣くには、感情のいくつかを手放しすぎていた。
日記の終わり近くに、破り取られた頁が一枚あった。
切り口は乱雑。墨の滲みが、隅に少しだけ残っている。
──それでも十分だった。
この手帳が残っていたという事実だけで、わたくしにとっては証言になる。
姉は、死ぬ前に何かを守ろうとした。
それは、わたくしだったのか、それとも──
……いいえ。問いの続きを考えるのは、もう少し先でもよろしいでしょう。
メリセラの日記を手にした翌日、王宮にロルデナ侯爵夫妻が招かれていた。
妹の婚約に向けた調整、という名目。
わたくしは献茶の係を命じられ、その場に立ち会っていた。
仮面をかぶるのは、慣れている。
注ぐのも、聞くのも。
「──まさか、あの子が選ばれるとはね。正直、驚いたわよ」
母は笑っていた。
淡く紅をさした唇で、軽やかに。
「まあ、メリセラがああして都合よく……ねえ。今となっては結果オーライでしょう?」
わたくしは、一度も目を上げなかった。
紅茶の香りが、ほんの少し重たく感じられた。
父は苦笑を浮かべながら、葡萄酒のグラスを回していた。
「まったくだ。今さら泣かれたって困るだけだ。あの子は真面目すぎたんだよ」
──都合よく。
母の言葉が、頭の奥で何度も繰り返された。
彼女にとって、姉の死は整った未来のための偶然。
計算でもなければ、悲劇ですらない。
ただの“運”だったのだろう。
(そうやって、終わらせたつもりなのですね)
ティーカップが揺れないように、ゆっくりと盆に置いた。
感情が顔に出ないよう、ほんの少し呼吸を整える。
そうすることにも、もう慣れてしまった。
誰が、何を、どのように語るのか。
聞き洩らすことはない。
この場の何もかもが、わたくしの手のひらのうえにある。
しずかに一礼し、その場を下がった。
足音は立てず、扉の向こうに消えていく。
──すぐに動く必要はない。だが、刻み込むことは必要だ。
記憶というものは、罰の味を決める調味料。
辛辣にするも甘くするも、さじ加減ひとつ。
それを間違えずに済むのは、ちゃんと味わって覚えている者だけ。
わたくしはまだ、忘れてなどいない。
誰一人として──