表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/11

ep.6

 朝の光が、王宮の回廊に斜めの影を落とす。

 その中で、ひときわ高い声が響いた。


「こちら、拭き残しがありますわよ。セラフィーナ。まったく、気が利かない方ですこと」


 ──また、始まった。


 床に膝をつき、磨き布を手にしていたわたくしは、動きを止める。

 けれど顔は上げなかった。

 仮面が、ここではとても役に立つ。


「申し訳ございません、ベルティーナ様。すぐにやり直します」


 柔らかく答えるその声は、もはや反射のように出てきたものだった。

 わたくしの顔を見下ろす妹は、満足げに鼻を鳴らす。


「やっぱり、平民出の方には貴族の感覚なんてわかりませんのね。まあいいわ、教えて差し上げますわ」


 貴族。平民。血筋。格の違い。

 あの子は、その言葉をどれだけ武器のように使い回してきたのだろう。


 彼女は知らない。

 わたくしが何者かも、どれだけの痛みを飲み込んできたのかも。

 ──知っていても、たぶん関係ないのだろう。


 この場にいるセラフィーナは、使用人のひとり。

 彼女の前で口答えすることも、視線を返すことも許されない存在。


「ねえ、皆さんもそう思いませんこと? この方、気が利かないでしょう?」


 周囲の侍女たちは笑わない。

 ただ、目を伏せる。

 顔に出せない哀れみが、空気に漂っていた。


(……これが、今の立場。ならば──)


 わたくしは手を動かす。

 無言で床を磨く。

 誇りも、怒りも、今はすべて静かに沈める。


 なぜなら、ここは戦場だから。


 復讐とは、刃を振りかざすことではない。

 じわじわと冷たく、皮膚の下に毒を流し込むようなもの。

 仮面の奥で、それを嗜む余裕がなければ、淑女の復讐は務まらない。


 わたくしは今日も、黙って跪く。

 けれどその指先に力がこもるのを、気づく者はまだ、いない。


 王宮の書庫には、誰にも見向きもされない棚がある。

 献上記録、奉仕人員表、舞踏会の余剰品──そんな誰にも必要とされない紙片たち。

 だが、わたくしはそれを証拠と呼ぶ。


「……ここですわね」


 一枚の紙を取り出した。

 王都東部、修道女育成院。

 三年前の報告書に、気になる一文があった。


 当時見習いであったベルティーナ・ロルデナ嬢の行いにより、献品一部が紛失。

証拠不十分につき、内部処理とす。


 名前は伏せられていなかった。

 むしろ、堂々と残っていたのはロルデナの名が、それだけ大きな影響力を持っていたからだろう。


(奉仕の修道女を……下働きとでも思っていたのかしら)


 ふと、灰色の記憶が蘇る。

 姉の慈悲深さに嫉妬するようにして、あの子が侍女を泣かせていた日々。


 ──ただの意地悪で終わればよかったのに。


 家柄で封じられた告発。

 泣き寝入りするしかなかった下層の女たち。

 彼女の過去は、丁寧に塗り潰されている。けれど、それは消されたのではなく、眠らされていたにすぎない。


 わたくしは、記録を手帳に書き写した。

 それをただの復讐の燃料としてではなく、証言に育てるために。


 わたくしの敵は、妹ひとりではない。

 沈黙してきた者、見て見ぬふりをした者、そして──かつての自分自身。


 そう思ったとき、不意に笑みがこぼれた。

 紙に記された名前の筆跡を指でなぞりながら、静かに、心の中で問いかける。


 ねえ、ベルティーナ。

 あなた、本当に忘れてしまったのかしら。


 それとも、忘れたふりのまま、最後まで演じ抜けるつもり?


 ……いいえ、どちらでも構いませんわ。

 わたくしが、その幕を引く日までは。


 メリセラの遺品は、家族によって「すべて処分された」とされていた。

 けれどそれは、母と妹にとって不要だったというだけの話。

 家中の誰もが彼女の存在を消そうとするなかで──たったひとり、そうしなかった人間がいた。


「……どうか、と思ったんですけどね。あの方のお部屋、なんとなく、気味が悪いってみんな言ってて」


 当時、ロルデナ家の雑務を担当していたという、元侍女の老女はそう言って、紙包みを差し出してきた。


「でもわたし、どうしても捨てられなかったんです。あの方、とても優しかったから」


 それは、丁寧に畳まれた古い布地に包まれていた。

 小さな日記帳。花の香りは消え、革表紙は少し黒ずんでいる。けれど、頁は整っていた。

 メリセラの筆跡も、変わらずに、そこにあった。


 ──あの夜、階段の上にいたのは、あの子だった。

 誰にも言わない。言えば母が困る。父が怒る。あの子は泣く。

 でも、わたしは、知っている。知っていて、黙っていた。


 読み進めるうちに、喉が焼けるように熱くなった。


 日記には、わたくしの名も何度か出てきた。

 花を摘みに行った日のこと、図書室で笑った日、庭でわたくしが泣きじゃくっていたときのこと──

 あの日、わたくしは、姉に甘えすぎていた。

 その優しさに、何ひとつ返せないまま。


 指が、震えた。

 けれど涙は出なかった。

 もう泣くには、感情のいくつかを手放しすぎていた。


 日記の終わり近くに、破り取られた頁が一枚あった。

 切り口は乱雑。墨の滲みが、隅に少しだけ残っている。


 ──それでも十分だった。

 この手帳が残っていたという事実だけで、わたくしにとっては証言になる。


 姉は、死ぬ前に何かを守ろうとした。

 それは、わたくしだったのか、それとも──


 ……いいえ。問いの続きを考えるのは、もう少し先でもよろしいでしょう。



 メリセラの日記を手にした翌日、王宮にロルデナ侯爵夫妻が招かれていた。


 妹の婚約に向けた調整、という名目。

 わたくしは献茶の係を命じられ、その場に立ち会っていた。

 仮面をかぶるのは、慣れている。

 注ぐのも、聞くのも。


「──まさか、あの子が選ばれるとはね。正直、驚いたわよ」


 母は笑っていた。

 淡く紅をさした唇で、軽やかに。


「まあ、メリセラがああして都合よく……ねえ。今となっては結果オーライでしょう?」


 わたくしは、一度も目を上げなかった。

 紅茶の香りが、ほんの少し重たく感じられた。


 父は苦笑を浮かべながら、葡萄酒のグラスを回していた。


「まったくだ。今さら泣かれたって困るだけだ。あの子は真面目すぎたんだよ」


 ──都合よく。


 母の言葉が、頭の奥で何度も繰り返された。


 彼女にとって、姉の死は整った未来のための偶然。

 計算でもなければ、悲劇ですらない。

 ただの“運”だったのだろう。


(そうやって、終わらせたつもりなのですね)


 ティーカップが揺れないように、ゆっくりと盆に置いた。

 感情が顔に出ないよう、ほんの少し呼吸を整える。

 そうすることにも、もう慣れてしまった。


 誰が、何を、どのように語るのか。

 聞き洩らすことはない。

 この場の何もかもが、わたくしの手のひらのうえにある。


 しずかに一礼し、その場を下がった。

 足音は立てず、扉の向こうに消えていく。

 ──すぐに動く必要はない。だが、刻み込むことは必要だ。


 記憶というものは、罰の味を決める調味料。

 辛辣にするも甘くするも、さじ加減ひとつ。

 それを間違えずに済むのは、ちゃんと味わって覚えている者だけ。


 わたくしはまだ、忘れてなどいない。

 誰一人として──

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ