ep.5
昼下がりの庭園は、王宮のなかでもっとも人目を避けやすい場所だった。
それを知っている者だけが、わざわざ足を運ぶ。
──そして今日、その庭に現れたのは、ポルフィリオ王太子だった。
「またお会いしましたね、修道女殿」
声をかけられた瞬間、手にしていた花ばさみをわずかに握りしめた。
振り向けば、例の黒衣。
肩にかかる金の飾緒は王族の証、整った顔立ちは穏やかだが、目だけが冷たい。
「……恐れながら、殿下はお忙しいのでは?」
「暇はありませんが、興味深いものには目を留めますよ」
そう言って、彼は歩み寄ってくる。
白い靴が、芝を踏み、わたくしの影に入り込んだ。
「あなた、よく人の話を聞いていますね。誰にも気づかれず、どこにでも現れる。まるで──気配を殺しているようだ」
冗談めいた言い回し。
けれどその裏に、確かな観察と意図が潜んでいる。
「修道女とは、そういうものですわ。目立たず、穏やかに、そして沈黙を守る役目」
「それにしては──よく笑わない」
心臓が、一拍ずつ音を立てていた。
この男は、わたくしの仮面の縁をなぞるように、外から指先で押してくる。
仮面を剥がそうとしない。
けれど、本当に仮面なのか? と問うてくる。
たぶん、彼はもう半分以上気づいている。
わたくしの正体にではない。何かを隠しているという、その空気に。
「殿下こそ、お気をつけになって。沈黙する者は、記憶に強く残るものですわよ」
軽く礼をして、その場を離れた。
背中に視線が刺さっていたが、振り返らなかった。
ああ、これは探られている。
けれど同時に──
向こうもまた、“試されている”のかもしれなかった。
事件は、些細なことから起こる。
王宮という閉ざされた空間では、とくにそうだ。
その日、王妃付きの側仕えが使う香水瓶が盗まれた、と騒ぎになっていた。
薔薇の香りの輸入品。瓶は細工入りの銀。王妃の寝室から消えたとあって、使用人全体に動揺が広がっていた。
「全員の持ち物を調べるしかないわね」
そう言ったのは、ベルティーナだった。
なぜ貴女がその場にいるのかと問いたくなるが、今や彼女は王子の婚約者という立場。
礼儀の監視という名目で、こうした場にも顔を出すようになっていた。
「侍女頭様、こちらの者のかばんから──」
名もなき給仕係が、怯えた目で立たされていた。
わたくしが、前日声をかけたばかりの少女だ。
その手には、香水瓶。
誰がどう見ても、見つかったという構図。
けれど、その場に居合わせていたわたくしには、ひとつの違和感があった。
(その瓶……ふたが、違う)
王妃付きが持っていた瓶には、貴石の刻印があったはず。
今彼女が持たされているものは、それよりも微妙に安い複製品。
──罠だ。
わたくしは一歩、前に出た。
「お待ちください。それは本物ではございませんわ」
侍女頭が眉をひそめる。
ベルティーナが唇を歪める。
「まさか、セラフィーナさん。あなた、この者を庇うおつもり?」
「庇うのではなく、確認を求めているのです。どうか、王妃陛下ご本人に、お確かめいただけませんこと?」
ざわめきが広がる。
やがて、王妃が到着した。
そして、わたくしの指摘通り、それは“持ち物ではない”と断言した。
濡れ衣を着せられかけた少女は、がくがくと肩を震わせていた。
何も言えず、ただ地面に手をついて嗚咽を堪えている。
わたくしは、その横に膝を折り、小さく囁いた。
「もう大丈夫。……貴女が泣く理由は、何もありませんわ」
少女が顔を上げる。
涙の向こうで、目だけが強く輝いていた。
誰かの信頼を得るには、言葉より、行動。
この宮廷では、綺麗な言葉は誰の口からでも出てくるけれど──
誠意だけは、そう簡単に模倣できない。
白い回廊の先、王宮中庭の片隅にある藤棚の下で、ポルフィリオ王太子がわたくしを待っていた。
言葉にすればただそれだけの光景なのに、胸の奥が妙にざわつく。
「……また、お会いしますわね。殿下」
「そうですね。あなたとは、よく縁があるようだ」
彼は腰かけたまま、手にした書簡を閉じ、ゆっくりと視線を向けてきた。
その瞳はやはり、何かを測るように静かだった。
「今日の一件。見事な手際でしたね」
「偶然ですわ。目についたものが、たまたま違って見えただけ」
「偶然にしては──鋭すぎる」
そのひとことに、胸の奥がひやりとする。
けれど、わたくしは表情を崩さない。
崩せば、仮面にひびが入るから。
ポルフィリオは椅子から立ち上がると、わたくしの前に立った。
そして、一歩分の距離も空けずに言った。
「……貴女は、本当に、彼女ではないのですか?」
吐息のように、落ちる声だった。
問いかけではなく、確かめに近い。
けれど、そこに怒りも詮索もない。ただ、深い静けさだけがあった。
わたくしは、視線をそらした。
否定の言葉が、喉元まで上がっていた。
彼女とは誰のことか、なんて聞くまでもない。
でも、否定してしまえば、それは一種の喪失になる気がして。
だから、何も言わなかった。
無言のまま、礼をひとつ。
それだけを残して、わたくしは踵を返した。
足音が離れていくなか、背後の気配はしばらく動かなかった。
──けれど、遠ざかるにつれて、ひとつの問いが胸に灯る。
もしも彼が本当に、すべてを知っていたとしたら。
あの火刑台で、わたくしを燃やした理由は──なんだったのか。
鏡の中の自分は、あまりに別人だった。
短く切りそろえた髪、あえて血色を抑えた頬、控えめな礼装。
仮面などつけていないのに、わたくしの顔はどこまでも仮面に見えた。
「……ステファニア」
名を口にしてみる。
けれど、それはすでに他人のもののようで、胸の奥にだけ、微かな熱を残した。
今日、王子に問われた言葉が何度も頭をよぎる。
──貴女は、本当に、彼女ではないのですか?
あの瞬間、わたくしは何も答えられなかった。
否定もできず、肯定もせず、ただ沈黙を選んだ。
でもあれは、恐れからではない。
答えてしまえば、すべてが変わってしまう気がしたのだ。
正体を明かすということは、もはや“仕掛ける側”ではいられないということ。
守られる側に、成り下がってしまうということ。
わたくしは、守られるつもりなどない。
誰かに庇われる甘さで、生き残るつもりもない。
わたくしがこの名で、ここに立っている理由は、ただひとつ。
あの人の死を無駄にしないため。
あの炎を、ただの処刑で終わらせないため。
けれど──
涙は、落ちていた。
鏡の下、頬にすべる雫は、いつのまにかこぼれていたものだった。
それが自分のものだと気づいた瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
(……わたくし、どうすれば……)
仮面のまま生きるのか。
素顔を晒して、すべてを壊すのか。
どちらにせよ、もう元には戻れない。
それでも歩くしかないのだ。
これは裁き。
嗜みのように優雅に、けれど一度始めたら、最後まで引き絞るしかない。
わたくしの矢は、すでに弦の上にある。