ep.4
午後の鐘が鳴る頃、文書庫の地下階にある王室記録閲覧室には、誰の姿もなかった。
ここは、王族の婚姻や継承に関わる重要な記録を収める特別保管区。
通常の修道女には立ち入りが許されないが、わたくしは──少々、手を使った。
「……エンヴィリオ家の正式記録……ありましたわね」
重たい革表紙の帳簿を開く。
そこには王子ポルフィリオを筆頭に、歴代の婚姻協定や破談記録、公式な婚約書の写しまでが整然と並んでいた。
そして──その中に、メリセラ・ロルデナの名は、なかった。
「やはり、婚約はなかったのですのね」
公式には、ポルフィリオ王太子とロルデナ家の令嬢との婚約など、一度も結ばれていない。
民衆が王子の婚約者はメリセラだった、と信じていたのは、ただの幻想。
──あるいは、誰かが故意に流した噂。
メリセラは、婚約者ではなかった。
けれど、誰よりも王子と親しく、王宮内で次期妃候補と囁かれていた存在。
それが意味するのは、たったひとつ。
(姉は──誰かに、邪魔だった)
婚約者ではないからこそ、正式な地位を持たない女として、消すことが可能だった。
文句ひとつなく。
悲しみだけを残して。
王子が、真実を知らなかったとは思えない。
むしろ、知っていたからこそ、何も語らずにいた可能性すらある。
──あの火刑台の冷たい瞳は、何を知っていたのかしら。
帳簿を閉じる指が、ほんの少しだけ震えた。
怒りではない。
悲しみでもない。
ただ、どうしようもないほどの空虚。
姉は、何も持たずに死んだ。
愛された記録も、誓いの証もなく、ただ“事故”という紙一枚で片づけられて。
ならばわたくしが、記して差し上げましょう。
この手で、正しい形で。
誰よりも美しく、そして誰よりも痛烈に──あなたたちの罪の記録を、刻んで差し上げますわ。
夜の修道院は、誰もが静かに祈りを捧げる場所──
けれどわたくしにとっては、思考と記憶がもっとも鋭く研ぎ澄まされる時間。
灯火だけの細い廊下を、静かに歩く。
足音を立てず、影を残さず、ただ前へと進む。
(あのとき──)
火刑台の上で、王子は言った。
『──火を、強めよ』
その言葉に、ほんの一片でも、迷いはなかったのか。
何かを知っていて、なお、あの命令を下したのか。
──それとも、本当に、ただの王子として。
都合の悪い女を、粛々と処すだけの存在だったのか。
「なぜ……助けてくださらなかったの?」
声に出した瞬間、自分のものとは思えないほどに、喉が痛んだ。
姉の死。
わたくしの火刑。
ベルティーナの台頭。
母の嘲笑。
父の無関心。
すべてが一連で繋がっている。
誰か一人が勇気を持って踏み出していれば、変えられたかもしれない運命。
けれど誰も動かなかった。
誰も差し伸べなかった。
だからこそ、わたくしが動くのだ。
「次は……わたくしの番ですわ」
声は静かだった。
けれど、胸の奥でははっきりと音を立てて、何かが燃え始めていた。
怒りでも、悲しみでも、憎しみでもない。
それらをすべて溶かし、沈めたあとの、澄んだ熱。
──復讐。
それはもう、激情ではなかった。
もっと冷たく、洗練された、淑女のたしなみ。
いえ、嗜むなどという生ぬるい言葉で括れるほど、甘くはありませんわ。
これは、ひとつの断罪。
姉の名誉と、わたくしの命をもって支払わせる、厳然たる罰。
誰一人、見逃さない。
その罪、その嘘、その沈黙を──
必ず、暴いて差し上げる。
人の口は、たいてい軽い。
そして、軽いからこそ、よく転がる。
給仕係、侍女見習い、衛兵の当番表──
王宮という場所は、格式と秘密で満ちているように見えて、その実、ほころびだらけだった。
「リネン室に一人で行くと、誰かに肩を叩かれるんですって」
「夜の台所に、殿下が誰かを連れ込んだって話もあるのよ」
「ロルデナ家の次女? 火刑? ああ、そんな話もあったわねえ」
どれも、馬鹿馬鹿しい噂話。
けれど、その断片が重なれば、やがて真実に手が届くことがある。
わたくしは、聞き役に徹した。
誰よりも丁寧に相槌を打ち、茶を運び、落としたハンカチを拾い、疲れたふりをして肩を揉む。
そうして、手に入れた。
彼らの心の緩み、言葉の温度、そして──必要な情報。
「それ、どなたにお伝えすればよろしいでしょう?」
そう言ってきたのは、名もなき侍女のひとりだった。
彼女は、下を向いたまま、わたくしの袖をきゅっと掴んでいた。
名もなき者ほど、名前を欲する。
だからわたくしは、優しく告げる。
「セラフィーナで構いませんわ。覚えていただけたなら、光栄です」
女の子はほっとしたように頷き、視線を上げないまま去っていった。
その背中を見送りながら、わたくしは思う。
名は、仮面であり、武器。
いまのわたくしはステファニアではない。
けれど、セラフィーナという名で、王宮の隅々にまで手を伸ばせる。
命じる必要はない。
恩を売り、礼を尽くし、心を掴む。
それで十分。
悪意を知るには、まず人の善意を見抜くこと。
その順番だけは、間違えないようにしなくては。
王宮の回廊は、どこも静かに磨かれていて、音がよく響く。
だからこそ、隠しきれないものもある。
「ですからっ、何度言えばわかるのですの! このリボンは左で結ぶと申しましたでしょう!」
甲高い声が、石造りの壁にぶつかって、反響していた。
聞き馴染みのある調子だった。
──あの女のものだ。
ベルティーナ・ロルデナ。
外面は花のように愛らしく、誰にでも微笑みを絶やさない令嬢。
けれど、それが演技であることなど、わたくしはとうに知っていた。
戸口の隙間からそっと覗くと、幼い侍女が涙目で頭を下げていた。
震える手には、薄紅のリボン。
ベルティーナはその手を払うようにして、苛立ちを隠そうともしなかった。
「使えない子ね。あなた、何のためにここにいるのかしら?」
子どもは何も言えず、ただかすかに首を横に振った。
ベルティーナは、それを見下ろして鼻を鳴らす。
「ふん。せいぜい、足を引っ張らないようにしてくださいますこと。わたくしの名に泥を塗られては困りますの」
その言葉に、室内にいた他の侍女たちは誰ひとりとして反応を示さなかった。
目を伏せ、声を押し殺し、黙って頭を下げるだけ。
──沈黙は、すべてを許す。
わたくしは扉の前から一歩下がり、何も見なかったふりをして歩き出した。
けれど、脳裏にはしっかりと焼き付いている。
ベルティーナの指先の冷たさも、罵声の温度も。
完璧な令嬢などという幻想は、あまりに脆く、雑に塗られていた。
あの仮面が剥がれる瞬間──
きっと、美しくはない。
けれどその醜さこそが、わたくしにとっての最高の賛美。