ep.3
静寂のなか、鐘の音がまたひとつ、時を刻む。
──ここは、神の御前。
……などと呼ばれる、王宮の内側にひっそりと設けられた修道院。
日が昇る前の礼拝堂は、冷たく、静かだった。
天井近くの窓から差し込む薄光が、ゆっくりと聖像の輪郭を照らす。
その足元に、黒い修道服を纏ったひとりの少女が膝を折っていた。
名は、セラフィーナ。
けれどそれは、わたくしが新しく与えられた名であって、本当の名前ではございませんの。
──ステファニア・ロルデナ。
火刑に処され、死んだはずの令嬢。
灰となって消えたはずのわたくしは、奇跡か呪いか、あるいは神の采配か──目覚めたとき、まったく別人の姿で生きておりましたの。
鏡のなかに映るのは、褐色がかった短髪と、やや細身の頬。
頬のあたりには薄くそばかすが浮かび、瞳は琥珀色。
声も仕草も、かつての自分とは異なる。
ですが、覚えておりますわ。
焼かれた時の熱も、民の嘲笑も、母の扇も、王子の瞳も──すべて、細部まで。
今のわたくしには、家も地位もありません。
けれど、自由と時間がありますの。
そしてなにより、誰にも気づかれずに動く身分という、最高の仮面を手に入れました。
「──清めの水を汲んでおいで、セラフィーナ」
「はい、マザー・イリス」
修道女長の声に、わたくし──いえ、セラフィーナは静かに頭を垂れる。
穏やかに、慎ましく、誰の目にも真面目で無害な少女と映るように。
そう、すべては──この王宮の奥底で、あの方々の罪を暴くため。
さあ、始めましょうか。
優雅に、静かに、誰よりも冷ややかに。
これはただの贖罪ではございませんの。
嗜み深き、淑女の再演──
幕は、もう上がっておりますわ。
王宮に併設された修道院は、静謐であるがゆえに、いくつもの秘密が交錯していた。
わたくし──セラフィーナの役目は、礼拝堂の清掃や、文書室の整理、時には高位聖職者への給仕も含まれる。
けれどその日、わたくしは自ら志願して文書室の整理にあたっていた。
「……ロルデナ家、ロルデナ家……あった、こちらですわね」
帳簿の棚に記された貴族名簿。
王族、四大公爵家、それに続く侯爵家の記録が整然と並ぶなかに、ロルデナの名があった。
ページをめくる。
姉──メリセラ・ロルデナの名前が、ひどく淡々と記されていた。
【故・メリセラ・ロルデナ】
没年:現王歴238年初夏
原因:屋内階段にて転倒、頭部を強打、即死
処理:事故死として記録、調査報告書は関係各所にて保管後、適切に焼却処理済
「……やはり、調査報告そのものが残っていないのですわね」
唇を噛む。
事故死。即死。焼却処理。
どれも“都合が良すぎる”言葉ばかり。
当時の使用人たちが語った、あの夜の騒動、も今では記録上ひとつも存在しない。
──何かがある。
明らかに何かを隠した手つきだ。
ロルデナ侯爵家ほどの家柄であれば、名誉に関わる件については隠蔽も可能だろう。
それも、姉の死を妹の売り出しに利用するというならば。
そう。
メリセラが死ななければならなかった理由が、そこにあるのだとしたら。
「……ふふ。ええ、構いませんわ」
棚の本をそっと閉じ、元の位置に戻す。
目元だけで笑ったわたくしは、静かにその場を離れた。
証拠を燃やしたのなら、燃やした痕を探せばよろしい。
わたくしは焼かれる痛みを知っていますもの。
この身が、灰から蘇ったことを──あなたたちが、最もよく知っているはずでしょう?
その日は、王宮の外苑にて、公式な午餐会が催されていた。
わたくしの役目は、給仕役のひとり。
修道服のまま、控えめな立場で立ち働く者など、誰もまともに見てはこない。
──けれどそれが、今のわたくしにとっては都合がよろしい。
陽光のもと、貴族たちは金糸を織り込んだ衣装を身にまとい、白いテントの下で芝生を踏みしめていた。
果実の酒と鳥のパイ。乾いた笑い声と、さざ波のように広がる拍手。
その中心にいたのは、あの女だった。
「まあ、ベルティーナ様。ほんとうにお美しい……」
「王太子殿下と、まさにお似合いですわ!」
──ベルティーナ・ロルデナ。
わたくしの妹にして、姉の死の直後に選ばれた婚約者。
金色の髪はやわらかく巻かれ、白百合を模したドレスに包まれた姿は、まるで祝福された王妃のよう。
そしてその隣には、黒髪の王子──ポルフィリオ・エンヴィリオ殿下が並んでいた。
……微笑んでいる。
あの王子が、あの冷たい目の男が、民の前で優しく笑っている。
ベルティーナの肩に手を添え、貴族たちの祝福に応じるように頷いて。
その仕草の一つ一つが、まるで最初から正しい組み合わせであるかのように、完璧に演出されていた。
──茶番。
そう言ってしまいたいほど、見事なまでの演出だった。
(わたくしを、火刑に処したあの手が。いまや妹の肩に……)
胸の奥に、冷たいものが滲む。
けれど、それを外には出さない。
グラスにワインを注ぎながら、無表情のまま視線を逸らす。
わたくしは今、ただの修道女見習い。
彼らにとって、名前も知らぬ無名の存在。
だからこそ、嗜んで差し上げますわ。
その完璧な幸福の裏に隠された、嘘の残骸を──ひとつ残らず、暴き出して。
ふと、背に冷たい視線を感じた。
グラスを運ぶ手を止めることなく、わたくしはほんのわずかに首を傾ける。
視線の主は──やはり、あの男だった。
ポルフィリオ王太子。
エンヴィリオ王家の第一位継承者。
この国の未来を預かる者であり、わたくしを火刑台へと導いた当人。
その王子が、わたくしのほうを見ていた。
まるで、知っているかのような眼差しで。
──まさか。
いや、仮に何かを勘づいていたとしても、それは直感の域を出ないはず。
わたくしは容姿も声も変わっている。貴族の名も、地位も、過去も持たない。
けれど、彼の視線はただの気まぐれではなかった。
立ち上がった王子は、グラスをひとつ手に取り、わたくしの方へとゆっくり歩み寄ってきた。
淡々と、誰にも気取られぬよう、会話のふりをしながら──
「……その目、どこかで見たことがある気がするな」
何気ない声。けれど、その言葉の奥に、鋭く潜む探針。
わたくしは丁寧に頭を下げ、まったく知らぬ顔で答える。
「恐れながら、わたくしには記憶にございません、殿下」
王子はグラスの中身をひと口含み、視線をそらすことなく言った。
「名は?」
「セラフィーナ、と申します」
「そうか……それにしても、不思議だな。まるで──一度、火の中で会ったような気がする」
その言葉に、わずかに心臓が跳ねた。
王子は冗談めかして微笑んだが、あの目は笑っていなかった。
じっと、観察する者の目。
仮面の下を暴こうとする目。
(……面白くなってきましたわね)
ならばどうぞ。
試すものなら、試してみればよろしい。
あなたがわたくしを焼いたその手で、再び触れることができるかどうか。
わたくしが誰なのか、知るその瞬間まで──
あなたの仮面も、剥がさせていただきますわ。