ep.2
──なぜ?
鐘が鳴っていた。
断罪の鐘。
──どうしてこうなった?
その音は、冷たい空を震わせ、王都の広場に集まった群衆の耳をいやでも打つ。
「──罪人、ステファニア・ロルデナを、火刑に処す」
宣言とともに、拍手が起こった。
祝福のように。娯楽のように。
民は笑い、面白がり、火あぶりになる令嬢の最期を、さながら余興のように見つめていた。
「見なさいな。あれが、あのロルデナ家の娘よ」
「ずいぶんと気高く振る舞っていたくせに。最後はあんなもの」
「ざまあみなさいって話ね」
わたくしは、微笑みすら浮かべなかった。
無言のまま、火刑台の上に立ち、鉄の枷に手首をはめられていた。
空は晴れていた。
よく晴れた空だった。
こんなにも陽が差しているというのに、地面から這い上がるような悪意だけが、わたくしの足元をひたひたと濡らしていた。
視線を向ければ、見知った顔がいくつもあった。
父は目を伏せ、退屈そうにあくびを噛み殺していた。
母は口元を抑え、涙の真似事をしている。けれどその瞳に、湿り気は一滴もなかった。
そして、ベルティーナ。
「──お姉様、さようなら」
わたくしにだけ聞こえるような声で、そう囁いた。
ベルティーナの唇には、紅い笑み。
その指には、エンヴィリオ王家の紋章があしらわれた指輪が輝いていた。
──ああ、そう。全てを呑み込んだ。
これがこの世界の裁きなのだと。
真実を知り、訴えようとした者は罪に問われ、何も知らないふりをした者が祝福される。
もうあきれて、反吐も出ない。
ならば、その秩序ごと、焼き尽くしてあげましょう。
この命尽きようと。
この身が灰になろうとも。
わたくしの魂は、終わらせたりはしない。
火が灯った。
ごう、と音を立てて、焚き木の山に火種が落とされる。
乾いた木々が一斉に唸りを上げ、炎の舌が空へと昇っていく。
真下から立ち上がる熱気が、わたくしの足元を撫でた。
まだ届いていない。けれど、遠くはなかった。
「……これが、わたくしの終わりですの?」
そんな声が、誰に聞かせるでもなく、唇から零れる。
誰も答えない。
ここには、助けなど来ない。
民も、兵士も、王族も──そして家族すらも、わたくしが焼かれることを、当然の報いとして見下ろしている。
けれど──
『ステファニア。あなたは強い子ね』
あの声だけが、はっきりと聞こえた。
火の粉の向こうに、メリセラがいた。
薄桃のドレスに、月の光を纏ったような髪。
微笑みはあたたかく、それでいて、どこか儚げだった。
『あなたなら、わたしの分まで、歩いていける』
「……姉さま……」
涙が溢れそうになった。
でも、泣いてはいけない。
ここで涙をこぼすことは、敗北を認めることになる。
哀れな娘として、死者として、この場で消費されるだけの存在になってしまう。
わたくしは──終わらない。
終わってなるものですか。
この理不尽を、正しいと言い張る世界に。
愛と忠義の名のもとに、誰かを踏みにじって平然とする者たちに。
必ず、償わせてみせる。
「わたくしは……まだ、ここにいますわよ」
そう囁いた時、炎が一段と高くなった。
衣の裾に、火が移る。
熱が肌に噛みつき、視界が白く染まっていく。
けれど、恐怖はなかった。
なぜなら、わたくしは知っていたから。
この死は、始まりにすぎない。
わたくしという存在が、ただの罪人では終わらないことを。
──これは裁きの始まり。
炎のなかで、微笑むメリセラが、それを静かに告げていた。
「これ以上、見苦しくならないでちょうだい」
その声は、火の音にも、民のざわめきにもかき消されず、はっきりと耳に届いた。
母だった。
ロルデナ侯爵夫人は、すっかり見慣れた上質の羽織りを身につけ、火刑台の前で、薄い扇を口元に当てていた。
そして、わたくしを見下ろすようにして、言ったのだ。
「さっさと燃え尽きなさい。あなたが生きていても、誰も困るだけなのだから」
わたくしは、それをただ静かに聞いていた。
痛みが、喉元までせり上がってくる。
けれど、それを叫びに変えることはなかった。
わたくしが泣けば、母の言葉が正しかったと、証明されてしまう気がしたのだ。
──どこまでも、見事なまでの“親”だこと。
まるで最初から、わたくしが生まれてきたこと自体が間違いだったかのように。
メリセラという完璧な姉の死に、耐え難いほどの空白が生じたことに、何も感じていないかのように。
そんな母の隣に立っていたのが、ポルフィリオ王太子だった。
きらびやかな王族の礼装。
無表情で、少し冷えた瞳。
父と母に一礼したあと、彼は火刑台に向かって、足音も立てずに近づいてきた。
「ステファニア・ロルデナ。──汝に、最期の言葉を許す」
静かな口調だった。
その声音には、感情も、怒りも、同情もなかった。
ただ、粛々と処刑を執り行う者のそれだった。
わたくしは、一度だけ目を閉じた。
そして、口を開く。
「……お忘れなきように。わたくしは、ここで終わる者ではございませんわ」
群衆から、何人かが笑った。
滑稽だと。哀れだと。
この期に及んで、まだ何かを企んでいるのかと。
けれど、王子は笑わなかった。
ただ、その瞳を細め、こちらをまっすぐ見つめていた。
まるで、何かを確認するように。
そして、小さく息を吐いて──宣言する。
「──火を、強めよ」
兵が、油をかける。
木々が焼け、炎が跳ね上がる。
熱が、肌を裂いた。
瞼の裏で、光が弾ける。
耳の奥で、何かが爆ぜるような音がして──そして、すべてが白に呑まれていった。
肉が焼ける匂いがした。
それが、自分のものだと気づいたのは──
肺の奥にまで熱が届き、呼吸をするたび、喉が炭のように焦げついていく感覚を覚えたときだった。
「……っ、く……」
声にならない。
叫びたくても、咳すら出せない。
身体中が、細かく砕かれていくような痛み。
熱と痛みとで、皮膚の感覚が剥がれ落ち、意識の縁がじわじわと崩れていく。
ああ、これが死なのだと。
こうして、人は終わっていくのだと。
どれほど綺麗に装っても、どれほど高貴に育っても──結末は、この有様。
けれど。
(……まだ……)
終われなかった。
このまま、敗者として焼き尽くされるわけにはいかなかった。
ベルティーナが、笑っていた。
民衆が、唾を吐いていた。
王子が、冷たい目をしていた。
母が、扇で口元を隠していた。
父が、どこかの貴族と笑い合っていた。
──これで、幕を引くなどと。
このままでは、姉の死も、自分の死も、ただの都合の良い偶然として忘れ去られてしまう。
ステファニア・ロルデナという女がいたことすら、誰の記憶にも残らない。
……それだけは、許せなかった。
ぐらり、と意識が揺れる。
視界が赤から黒へと反転し、耳鳴りが遠くなる。
鼓動が、どくん、と一度だけ脈打ったあと、音がすっと、消えていった。
まるで、音も熱も光もない、深海の底へ引きずりこまれるような感覚。
炎が、自分を焼いているというのに──不思議と、痛みはなかった。
そのかわり、胸の奥にだけ、確かな熱が残っていた。
怒りでもない。悲しみでもない。
もっと静かで、冷たく、燃えるような決意。
──まだ、終わらない。
そう告げる誰かの声が、暗闇のなかで響いた。
わたくし自身の声だったのか。
それとも、あの人の声だったのか。
もう判別はつかなかった。
ただ、ひとつだけ確信していた。
これは死ではない。
これは、裁きのはじまり。
わたくしの物語は、ここからようやく幕を上げるのだと──
──何?
突然のことだった。
──暗闇。
そこに、わたくしはいた。
痛みも熱も遠ざかり、身体の輪郭すら曖昧になる中で、意識だけがふわりと浮いていた。
どこか遠くで、自分の名前が囁かれる。
「……ステファニア……」
誰かが呼んでいた。
けれど、その声に応じることはなかった。
もうステファニア・ロルデナという存在は、火刑の炎に焼かれて、灰になったはずだから。
──ならば、わたくしは何者?
答えは、まだなかった。
けれど、感じていた。
何かが始まる予感。
誰かが終わらせなければならなかった物語が、今、別の形で動き出す気配。
音のない深い闇のなか、ひとつだけ確かに見えたものがある。
──薔薇だった。
焼かれ、踏みつけられ、すべてを失った灰の中に、それはひっそりと咲いていた。
燃え盛る紅ではなく、冷たい夜明けのような白い薔薇。
静かに、凛として。
(……わたくしは……)
あれほど恐れていた終焉の中で、ひとつだけ、確かに芽吹いたものがある。
それは、復讐と呼ぶにはあまりにも静かで。
憎しみと呼ぶには、あまりにも美しかった。
(──もう一度、この手で、裁いてみせますわ)
わたくしの物語は、あの火刑台で終わらない。
焼かれたのは、ただの役割。
ロルデナ侯爵家の次女という仮面にすぎない。
だから今度は、仮面を脱いで。
素顔のまま、声をあげる。
これは、わたくしが選び取った第二の人生。
姉の声なき声を継ぎ、誰にも届かなかった真実を、裁きの名のもとに暴くための。
──すべては、あの日の約束のために。
そう、微笑んだ気がした。
闇の中で、白い薔薇が、ひとひら、音もなく散る。