ep.10
地が裂けるような音が、議場を満たしていた。
魔力の奔流は止まらない。
ステファニアの身体から吹き出す漆黒と金の炎が、壁を焼き、天井を砕き、歴史と権威の象徴であった王宮そのものを──嘲笑うように崩していく。
「赦さない……わたくしは、絶対に赦しませんわ!」
彼女の声は叫びではなく、“咆哮”だった。
人の言葉を持った悪魔。
神の力を着た亡霊。
「燃えなさい……! 嘘も、血も、王家も、家族も──この国のすべて、灰に還りなさいッ!!」
その手が振り上げられた瞬間だった。
黒炎が渦を巻き、巨大な竜巻となって暴れ出す。
群衆は逃げ惑い、貴族は金切り声を上げ、
ベルティーナは泣き叫びながら倒れ伏し、
母は髪を掻きむしって「ごめんなさい」「わたしは悪くない」と嗚咽し、父は半狂乱で「家を守れ! これは陰謀だ!」と叫んでいた。
──そこに、焼け焦げた布をまとったひとりの男が現れた。
「ステファニア……!」
王子、ポルフィリオ・エンヴィリオ。
全身、火の粉に焼かれていた。
左腕は裂け、頬には火傷の跡。
けれど、その目だけは、彼女を見据えていた。
「止まれ──!」
彼の言葉に、ステファニアが振り返る。
「……おまえも、燃やしてやりますわ」
魔力が手のひらに集まっていく。
もはや彼女の目には、王も罪人も区別はない。
だが──
ポルフィリオは、ステファニアの目の前で膝をついた。
音がした。
あの誇り高き男が、地面に額をつけた。
頭を、土にこすりつけて、心をねじ伏せて、己のすべてを投げ出して──
「……俺が、君を焼いた……俺が、君を殺した!!」
炎の音が、わずかに鈍る。
「逃げたかった。……君の正しさが、怖かった。誰もが君を憎んで、君を妬んで……君は、あまりにも、まっすぐ”だったから……俺は、王太子として──いや、臆病な男として──君を火に投げた!!」
ステファニアの瞳が揺れた。
だが、火は止まらない。
「死んで当然と思ったか? 否。死んでほしかったのは、王家の体面だ! 君の命など……あのときの俺には、数字のひとつだった!」
「……だったら死になさい。今ここで、わたくしの数字になりなさい」
魔力が膨れ上がる。
まばゆい閃光が、ポルフィリオの頭上に──
「それでも!!」
男の叫びが、炎を裂いた。
「俺は死ぬ。君に殺されるなら、それでいい。だが……どうか、君が“あの人の願い”を裏切らないでくれ──!」
「……あの人……?」
「メリセラ様だ──!」
声が震えた。
懺悔でも、嘘でもない。
そこにあったのは、たったひとつの想いだった。
「彼女は、最後に俺にこう言った……どうか、ステファニアを守ってあげて。あの子はきっと、全部自分のせいにするからって……ッ」
ステファニアの手が、わずかに下がった。
魔力が乱れ、天に昇った炎が、くぐもるように震えた。
「わたくしは……全部、許さない……けれど……けれど……!」
その声は、悪魔の声から、人間の声に戻りつつあった。
燃え尽きる寸前の魔力の渦が、ひときわ強く唸りを上げ、そして──すべてが、ひとつの問いに沈む。
世界が、白く焼き尽くされようとしていた。
けれどその中心で──ひとつの手が、降ろされた。
ステファニアの掌。
握りしめていた炎が、音もなく、静かに溶け落ちていく。
熱は消えない。だが、方向を失った光は、ただ空へと散った。
そのときだった。
「もう、終えるのか?」
声がした。
誰のものでもない。
けれど、間違いなくあのとき、火刑の中で聞いた“声”だった。
──神。
あるいは、天の境界に立つ者。
ステファニアは、誰にも見えぬ存在に向かって、口を開く。
「わたくしは……殺すことを望んだのではありませんわ。裁くことを、選んだのです」
「それで、満たされたのか」
「いいえ。……永遠に、満たされません」
ステファニアは、俯いた。
「憎しみを抱いたまま、赦せないまま、それでも生きるしかない。それが──焼かれた者の生き方ですわ」
「赦せないのに、生きることを選ぶのか」
「ええ。わたくしは、選びます。彼らの命を奪うことで終えるのではなく、“忘れられない恥”として地に刻むことで、終わらせる」
沈黙。
その向こうで、何かが微かに笑った気がした。
「ならば……それが、お前の地上の裁きか」
「はい。これが、わたくしの答えです」
すると──
彼女の身体を覆っていた魔力が、ひとつ、またひとつと、霧のようにほどけていった。
焼けた空間は冷えていき、浮かんでいた瓦礫は地へと戻る。
倒れていた貴族たちが震えながら起き上がり、
泣き崩れたベルティーナは自らの吐瀉物の上で泣いていた。
だが、ステファニアは彼らを見なかった。
ただ、自分の掌を見ていた。
燃えていたはずのその手には、血が滲んでいた。
誰の血でもない。
炎では癒えなかった、自分自身の“焼け跡”。
「神よ。あなたが選んだのではなく、
わたくしが選んだ。──そう記しておきなさい」
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審問の場に、再び静寂が戻っていた。
だがその静けさは、ただの沈黙ではなかった。
──焼け残ったものの、重さ。
砕けた柱、焦げた床、すすけた天井。
それでもなお立ち尽くしている壇上に、王族の補佐官が一人、厳粛に立ち上がる。
「これより──ロルデナ家に対する王命の裁定を言い渡します」
ステファニアは、沈黙のまま立っていた。
目は伏せず、けれど、もう何も言う必要はなかった。
すべては“これから”が答えだった。
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◆ 一、ベルティーナ・ロルデナ
罪状:婚約詐称、証拠隠蔽、姉の死に関する重大な黙秘。
裁定:王家との婚約破棄、貴族籍剥奪、ロルデナ姓の使用禁止。
加えて、遠方修道院にて一〇年の労役を命ず。
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「いや……いやいや、そんなの……っ!」
ベルティーナは、椅子にすがりつきながら泣き叫んだ。
扇が転がり、髪飾りが外れ、化粧が涙に流れて落ちていく。
「お母様ぁ! お父様! 何とか言ってよぉ……!」
けれど両親は、何も言わなかった。
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◆ 二、ロルデナ侯爵夫人(母)
罪状:証言封殺、虐待的言動の常習、火刑時における沈黙と加担。
裁定:貴族特権の停止、王都社交界からの永久追放。
今後の公務・集会・施政参加を禁ず。療養院での保護対象とする。
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「わたしは悪くない……わたしは……だって、誰も……ねぇ、誰も止めなかったじゃない……」
夫人は、自らの袖を噛みながら震えていた。
誰の名前も呼ばなかった。
いや──呼べる名前がもう、残っていなかったのだ。
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◆ 三、ロルデナ侯爵(父)
罪状:死亡者に関する不正指示、名誉の不正利用、王太子への裏取引。
裁定:爵位剥奪。ロルデナ家の家名消失。
以降、禁固および家名断絶に準じる扱いとする。
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「ふざけるな……っ、こんな裁きがあるものか!
これは一人の女が……! この女が……王族を、政治を、滅茶苦茶にしたんだッ!!」
父の絶叫は、もはや誰にも届いていなかった。
重鎮たちは沈黙を貫き、王族の誰も目を合わせようとしない。
ステファニアは、そんな彼を見下ろしたまま、ただ一言だけを残した。
「わたくしの声は、届かない。けれど──記録は残りますわ。
あなたの罪が、名を奪われた者の重さとして」
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そして、最後に。
◆ 四、ポルフィリオ・エンヴィリオ王太子
罪状:火刑命令の発令責任。
裁定:王家からの公式謝罪文を起草。
加えて、自らの意思で補佐職を返上し、今後は王家顧問として“無位”にて国政参与。
王の名による恩赦により、命は問わず。
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彼は、壇上に立ったまま、何も言わなかった。
ただ、その身体が焼け、髪が焦げ、顔の左半分が今も赤く膨れ上がっていることが、
誰よりも雄弁に──焼いた者の報いを語っていた。
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すべての裁定が下された。
王族の鐘が三度鳴り、
審問の幕が──閉じられた。