ep.1
今日は、ロルデナ侯爵家にとって、喜ばしい知らせが届いた日らしい。
広間では、ベルティーナの婚約の報せに、召使いたちが浮き立った声を上げていた。
相手は、エンヴィリオ王国の第一王子──ポルフィリオ殿下である。
「まあ! 本当に、おめでとうございます、ベルティーナ様!」
「お祝いのお言葉、ありがとう。ふふ……夢みたいですわ」
妹は両手を胸の前で組み、花のつぼみのような微笑みを浮かべていた。
卓上には、祝いのために取り寄せられた焼き菓子と葡萄のタルト。
召使いたちはその味より、ベルティーナの可憐な姿に夢中で、ひとりひとりが競うように褒めそやす。
ベルティーナは、母に似ている。
薄桃色の頬、光を湛えた瞳。少し気の強そうな、けれど柔らかく甘やかな笑み。
そのすべてが、愛されるために選ばれたもののようだった。
──姉の、メリセラが死んでから、まだ三ヶ月も経っていないというのに。
「ステファニア。お前も、お祝いを言いなさいな」
母が面倒そうにこちらへ視線をよこす。
「王太子殿下のお気に入りは、あの子なのよ。あなたとは違ってね」
わたくしは、何も言わなかった。
言葉より先に、胸の奥が冷え込んでいたから。
ほんの数ヶ月前、あの広間で誰よりも笑っていた姉が、今では階段から転げ落ちて死んだ娘として、過去形で語られている。
事故だった、ということになっている。
でもあの夜、わたくしは確かに、姉の声を聞いた。
『もしわたしが、突然いなくなったら──。それは、事故なんかじゃないのよ』
そう囁いた、あのかすかな震えを。
誰も信じてはいなかった。けれど、わたくしだけは、忘れられなかった。
姉のドレスの裾が、あの階段でどうしてあんなにも引き裂かれていたのか。
使用人が掃除のためと称して、血の跡を丁寧に拭っていたのは、なぜだったのか。
……事故ではない。わたくしはそう思っている。
ただの不幸な転落死なんかで、姉の最期が終わるものですか。
ベルティーナが王子に見初められたのも、偶然ではない。
家族が、姉の死を踏み台にして、妹を押し上げただけのこと。
ならば──。
わたくしが裁きますわ。
姉の代わりに、誰よりも冷静に。
美しく、徹底的に。
姉は、完璧だった。
容姿、立ち居振る舞い、言葉遣い、教養──すべてにおいて非の打ち所がなく、それでいて誰にでも優しく、思いやりに満ちていた。
父も母も、メリセラのことだけは「我が家の誇り」と、顔を綻ばせていたのだ。
それが、ある日を境に、豹変した。
母は「躾がなっていなかったのね」と呟いた。
父は「勝手に死なれては困る」とだけ言った。
死者に向けて投げられるには、あまりに冷たく、あっさりとした言葉だった。
葬儀は小さく、簡素に行われた。
まるで、家族の中に失敗作が出たことを、なるべく早く処理してしまおうとでもするかのように。
その日、わたくしは姉の部屋に忍び込み、最後に話した時のことを思い返していた。
机の引き出しには鍵がかけられ、日記帳や手紙の類は一切なかった。
燃やされたのだろう。姉が何を思い、何を抱えていたのか、証拠となるものは何も残されていなかった。
けれど、あの夜の言葉だけは、わたくしの胸に焼き付いて離れない。
『ステファニア、あなたはどう思う?』
月明かりの下、二人きりで歩いた庭園の小径で、姉はふと立ち止まり、そんな風に問いかけてきた。
『人って、愛されている時は、気づかないのよ。誰かが自分を守ってくれているってことに』
そう言ったあと、メリセラは少しだけ笑った。
けれどその笑顔は、いつものような優しいものではなかった。
どこか、寂しげで──もうすぐ、何かから身を引く覚悟を決めた人のような表情だった。
『もしわたしが消えたら、それは……そういうことだから。覚えていてね、ステファニア』
──わたくしは、覚えている。
そして今、この家のなかで、それを覚えているのは、わたくし一人だけだ。
家族の誰もが、姉を裏切った。
そして今度は、何事もなかったかのように、妹の婚約と繁栄だけを謳っている。
ならば、この手で終わらせるしかない。
あの夜、姉が踏み出せなかった一歩を。
姉が命を懸けて遺そうとした真実を。
今度こそ、踏みにじらせたりはしない。
──わたくしが裁きます。
この家の罪を、姉を見殺しにした王子を。
愛のふりをして人を利用し、切り捨てたこの世界のすべてを。
たとえ、わたくし自身が、どんな末路を迎えることになろうとも。
──必ずわたくしが贖いますわ。