タケル・アンドールという人間①
「タケル、そろそろ…」
ナタリアがちらちらと時計を気にしながら、そう口にした。
魔法というファンタジーと出会って正気を失っていたタケルだったが、既に落ち着きを取り戻していたため、こくりと頷きを返す。
「わかった、学校に行ってくるよ」
タケルは一度部屋に戻ると、部屋に吊るされていた制服を身に着ける。
見たことのない制服なのに、違和感がないのがタケルを少し不思議な気分にさせる。
学校指定と思われる鞄を手に取り階段を下りる。
玄関までくると、ナタリアが顔を出す。
「…いってらっしゃい」
「行ってきます!」
タケルは努めて元気に返事をした。
ナタリアは一瞬目を見開くと、優し気な笑みを浮かべて頷く。
タケルはそれを見届けて、玄関の扉を開いた。
少しすり減ったローファーが石畳をコツンと叩く。
そこでタケルはある問題に直面した。
「…学校ってどっちだ?」
タケルのこめかみを冷汗が伝う。
ナタリアはタケルの中身が入れ替わっていることなど、勿論知らない。
学校の場所なんか聞けば、またいらぬ心配をかけることだろう。
どうしたものか、と悩んでいると、不意に背中に衝撃が走った。
「タケル!」
「うおッ!?」
ドンッと激しく背中にぶつかってきたのは、見知らぬ女の子だった。
背中に顔をうずめるようにしているせいで、その顔は窺えない。
後頭部で結ばれた桃色のポニーテールがふわりと風に揺れた。
地毛だろうか。
地球では見ない色合いに、改めて異世界なんだと実感する。
「あの…」
俺の困惑を感じ取ったのか、その女の子がぱっと顔を上げる。
とても端正な顔立ちでクリッとした大きな目が特徴的な女の子だった。
今はその大きな瞳を潤ませ、タケルのことを見上げるようにしていた。
「タケル、学校に行くことにしたのね…」
恐らく、タケルの知り合いなのだろう。
しかし残念ながら、今のタケルにとっては赤の他人だ。
女の子の言葉になんと返せばいいか言葉に詰まる。
「え、えっと…」
「…聞いたわ。家で倒れていたんでしょ?」
タケルは一瞬目を見開く。
どうやら、この女のことは随分仲が良かったらしい。
まさか、タケルが自殺しようとしていたことまで知っているのだろうか。
「きっと大きなストレスがかかっていたんだわ。学校であんなことがあったんだもの…」
タケルはほっと小さく安堵の息を漏らした。
どうやらタケルがどうやって倒れたかまでは知らないらしい。
もしそこまで知られていたら、どう接すればいいか余計に分からなかっただろう。
「…そうだね。でも、もう大丈夫だよ」
あんなこと、というのが少し気になったが、無用な心配をかけないようタケルは返事をした。
「…そう、タケルは強いのね」
そこまで言うと、女の子はタケルの背中から身体を離した。
そして、ぽんと自分の胸を叩く。
「大丈夫!タケルのことはミリアが守ってあげるから!」
その言葉に、タケルは目を見開く。
そしてその目を柔和に曲げた。
「ありがとう、ミリア」
この女の子の名前はミリアというのか。
いい友達がいるじゃないか、タケル。
それなのにどうして自殺なんてしたんだ。
そんな思考は、不意に腕に抱きついてきたミリアによって中断された。
「それじゃ、一緒に学校に行きましょう!」
タケルの脳裏に嫌な予感が走る。
まさか、と思いつつタケルはミリアに問いかけた。
「あの、ミリア?僕たちって付き合ってたっけ?」
ミリアは一瞬キョトンとした顔をして、タケルの目を見返す。
「当たり前じゃない…と言いたいところだけど、まだ付き合ってないでしょ?私はいつでもオッケーだけどね!…それにしても今日は珍しいわね、いつも離れてって腕を振り払うのに」
「あー、ほら、今日は何となくそんな気分じゃなくてさ」
「ふーん、まあいいわ。行きましょ」
タケルはミリアに腕を引かれて歩き始める。
タケルは大人しくそれに従った。
(…ミリアがいてくれて助かった。それにしても――)
タケルは次第に思考を切り替えていく。
タケル・アンドールを自殺に追い込んだ何か。
それが待ち受けている学校に向けて、歩いていく。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆
第一印象は、自然…というか植物が多いなということだった。
校門を潜ってすぐに大きな広場があり、中央には大樹が聳え立ち日を遮って陰を作り出している。
舗装された道以外は草が生い茂り、時折校舎を上ろうとする蔓が目に入った。
タケルはミリアに手を引かれながら広場を抜け、校舎の一つに入った。
ミリアがいないと無理だったなと思いながら、校舎の中を歩いていく。
やがて、ミリアはある教室の前で立ち止まった。
引き戸の上にはパネルが吊り下がっていて、『3-α』と書かれている。
緊張するタケルをよそに、ミリアは慣れた様子でガラガラと引き戸を開ける。
教室の中にいたのは数人、机の数に比べて少なく見えるのは早めに登校したせいだろうか。
タケルたちが扉を開けたことで、何人かの視線がタケルの方を向く。
もれなくその全員がその目を丸くした。
タケルは何とも言えない居心地の悪さを感じる。
「タケル…」
唐突にミリアに声を掛けられ、タケルはミリアの方を見る。
ミリアはタケルを見ておらず、その視線を辿ると一つの机があった。
「あ…」
しまった、と声を出した瞬間に思った。
予想できたと言えば予想できたことだ。
他の机と比べて、その机は明らかに汚れている。
それも机の上に文字が書かれているという、人為的な汚れ。
タケルから漏れた声に、ミリアがびくりと体を震わせタケルの方を見た。
「タケル…あの、ね――」
視線をキョロキョロと彷徨わせるミリアの頭にポンっと叩き、タケルは机に歩み寄る。
『死ね出来損ない』
『無能』
『落ちこぼれの席はねえ』
見るに堪えない罵詈雑言が並んでいた。
じくりと心臓が痛む。
自分のことではないのに、これほどまでに悲しい気分になるのか。
タケル・アンドールは、どんな気持ちだったのだろうか。
タケルが机を撫でながら立ち尽くしていると、ドンっとタケルの隣に何かが置かれた。
それはバケツだった。
バケツの中では水がゆらゆらと揺れている。
「え?」
タケルの呟きに返答はなく、代わりにミリアが雑巾を握りしめて机を拭き始める。
一瞬呆気にとられて見ていたタケルだったが、すぐにミリアを手伝い始めた。
「ありがとう、ミリア」
タケルのお礼に、ミリアは答えなかった。
ちらりとミリアの様子を窺うと耳が僅かに紅潮している。
どうやら照れくさいらしい。
思わずタケルの顔に笑みがこぼれた。
「心配しないで。タケルは一人じゃないから」
「…うん」
逆かもしれない、と思った。
なんでミリアがいるのに自殺しようとしたのか、ではなく、ミリアがいたから今まで耐えてこられたんじゃないかと。
多分だけど、この桃色髪の少女の存在は、タケル・アンドールにとってとても大きなものだったに違いない。
少しの間、タケルとミリアは黙って机を拭き続けるのだった。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「ようやく綺麗になったわね」
ふうーっとミリアは額の汗を拭うような仕草をする。
ミリアの言う通り、しっかりと磨かれた机はキラキラと輝きを放つほどに綺麗になっていた。
「うん、ミリアもお疲れさ――」
「ほんっとだりぃよなー」
ミリアに労いの言葉をかけようとした瞬間、ガラガラと扉が乱雑に開き、三人の男子生徒が中へと入ってきた。
先頭に立つ男子生徒とタケルの目が合った瞬間、男子生徒の顔がニタァと愉しそうに歪む。
「あれあれあれ、いるじゃんこいつ!やっりー、賭けは俺の勝ちね!」
「はあ?なんでいるんだよこいつ。死んだんじゃねーのかよ…」
「親父の形見とかいう杖まで叩き折って捨ててやったのに、ちゃんと学校来るとか優等生過ぎて鳥肌立つんだけどww」
(あー、なるほど)
その三人の言葉を聞いて、タケルは悟った。
「…お前らか」
タケル・アンドールを死に追いやったのは。