8 デイティの過去
「ふう、やれやれ。あたい、肩が凝っちまったよ。ディディ、あんた、飯を食ってないだろう。何か持ってこさせるよ」
ここは、セルディーの居室。
「もう、これで、ばばぁの顔も見なくて済むよ。アルバ様のお妃は優しい人みたいだけどね、それでも、あんま、会いたくないね」
王妃や、アルバ王子達とは別の棟に暮らしているので、ここにいれば、彼等の会わずに済む。
しばらくすると三人いる侍女の中で最も愛想がいい侍女のファティマがやって来た。砂糖をまぶした甘いパンとスープを置くと、セルディーは給仕を断り、面倒臭そうにファティマを部屋から追い出した。
「自分でお茶を淹れるよ。あんたは一階で休んでいりゃいい。あっちに行きな。用がある時は、呼び鈴の紐を引くからね」
セルディーは、甘味みのあるフェンネル茶を一気に飲み干すと、ドテッと仰向けに寝転がった。満腹だと言わんばかりに腹をさすっている。
「ぶはーーー。やっと落ち着いたよ。あのさ、気になっていたんだけど、あんたの兄ちゃんは死んでないよね?」
「元気だよ。一緒に暮らしてるよ」
「そっか、それは良かった」
その時、ディディは、モグモグとパンを咀嚼しながら目を伏せていた。
最近、あまり思い出さなくなっていたが、あの時は大変だった。ルビトリアという王国が完全に崩壊したのは八年前の秋。
異教徒に寛容なルビトリアはアスベールと交易を続けていた。
貴族達はアズベールの商人からお金を借りていたが返せなくなっていた。アズベールの王はルビトリア政府に向けて返済を迫るが、舞踏会や歌劇や賭け事に夢中な貴族達は浪費を続けたのだ。
金が払えないのなら土地を差し出せとアズベール側が告げると、ルビトリア政府は拒否した。逆に、借金を返すために、高い関税や高い港湾使用料を取ると言い出した。
『許さんぞ!』
銀行家達や貿易商はもちろん、アズベールの高官もブチ切れて戦争が始まった。兵力がまるで違う。短期間のうちに征服される事は目に見えていたので、兄のサリンダは父を相手に直談判した。
『お館様! この国に未来などありません! ジゼル様を逃がします』
最初に、アズベールの斥候が乗り込むのは、地理的に最南端に位置する父の領地だと分かっていた。ディディは少年の衣服を身につけると、兄の背中にしがみついていて馬に乗った。
その際に、葡萄畑に潜んでいたアズベールの兵に堰き止められたが、兄はアズベール語で言い放った。
『ようよう、同胞。こいつに気安く触らないでくれよな。オレ様の戦利品なんだぜ』
『おおっ、おまえはアズベール人なのか?』
『そうだよ。お城で捕虜としてこき使われて苦労したんだよ。ありがとな。こうして、あんたらが攻めて来たお陰で故郷に帰れるぜ。このガキは美少年だから奴隷として母国で売り飛ばすつもりで誘拐してやったのさ』
『おおっ、こりゃ上玉だな』
『触るなよ。坊やが怯えてるじゃねぇかよ』
兵士達は兄のサリンダを同胞だと思い込み、すんなりと通してくれた。
しかし、漁村へと向かう途中の林道で、今度は、ルビトリアの村人に囲まれてしまった。尖った農具で馬の脇腹を刺されそうになった。逃がすものかとばかりに毛羽立つ村人の顔と刃先が迫った時、ディディは兄の背後から叫んだ。
『あたしの護衛よ! あたしはジゼルよ!』
村人は、男装のディディの顔を覗き込むと恐縮したように呟いた。
『おおっー。何ということじゃ。ジゼル様! 浜から敵兵が押し寄せているのですぞ。城に篭城しなくてよろしいのですか?』
それに対して兄が悲しげに首を振った。
『敵兵の先遣隊が城の目前に迫っている。ジゼル様が敵の慰み者や捕虜になる前に逃げてきた。今後、続々と上陸してくるぞ』
そうなると村民達も無事では済まない。兄は厳しい顔で村人に忠告した。
『豚小屋に女達を隠せ。ヤズジュ教徒は豚を嫌っている。豚の血がついたものには絶対に近寄らない。女の顔や貴重品に豚の血を塗りたくっておけ!』
『だが、奴隷のキーリア教徒も王の親衛隊として戦いに参加しているのだろう?』
兄が皆を安心させるように説明した。
『親衛隊は形式上はヤズジュ教に改宗する。心の中ではどうだか分からないが、上官の前では戒律通りに豚を避けるしかない』
『そうだといいがのう』
アズベール人のおまえの言う事など信用できるものか。村人の目には憎悪の色が滲み出ていた。猜疑心を露にしていた。
あの村がどうなったのか……。風の噂によると、豚のおかげで女達は助かったらしい。
あれ以来、秋になると村人達は豚の尻尾を家の玄関に飾る奇妙な祭りを行っているという。
当時のディティは九歳。兄は十九歳で、アズベールのオアシス都市の検問所を通過するには、アズベールの州長官が発行する通行証を手に入なければならない。生憎、そのツテがなかった。その時、アズベールの属州である沿岸部の田舎町の粗末な宿屋でセルディー父子と出会ったのだ。
『なぁ、おっさん、用心棒になるぜ。一緒に王都に連れて行ってくれよ。オレ達は哀れなルビトリアの難民なんだ』
小柄で朴訥な商人と幼い娘と駱駝使いの小僧の三人で駱駝五頭分の荷物を積んで移動していたが、その旅は盗賊なに狙われる危険を孕んでいる。賃金なんていらないから仲間に入れてくれよと兄が売り込むと同意してくれた。
商団の旅券があればアズベールの王都に入れるので、沿岸から王都までの七日間の旅路をセルディー親子と一緒に過ごした。
デイディ達はすぐに仲良くなった。
『かぁちゃんは、あたいが七歳の時、サソリに刺されてくたばったんだ』
セルディーは明るい女の子だった。今と何も変わっていない。
荒野で野犬の群れに囲まれた時、兄が弓矢で追い払った。兎を捕まえて皆で食べた事もある。
ディディとセルディー親子は王都の入り口で別れたが、いざ西区に着いて荷物を整理してみると、家系図やディディの宝石が消えていたのである。
あの時、兄は、まぁいいさと言って鷹揚に笑っていた。
(あたしも、今更、窃盗のことでとやかく言うつもりはないわ。セルディー達のおかげで旅券がなくても王都に入れたんだもの……)
そんなふうに思い返していると、セルディーが鼻息荒く語り出した。
「馬鹿女が何を言おうと気にするこたぁないよ。あんたの兄ちゃんは誰よりもいい男だよ! どんな女もイチコロだ。覚えているよ。古井戸の水を使わせまいとして法外な金貨を要求してきた井戸番の男のこともねじ伏せてくれたよね」
セルディーの声を聞きながらも、ディディはどこかしら上の空だった。
(ルビトリアの人達は砂漠の民の血が混じっているお兄ちゃんを忌み嫌っていたのよ)
いつだって、兄の心は二つに引き裂かれていた。いくら自分の事を嫌っていようとも、ルビトリア人が死ぬことなど望んでいない。
丘の上に建つ城が燃え落ちていく。その中に使用人達もいる。沖の波間から赤い炎を見た兄はポツンと船尾に立ったまま声を押し殺して啜り泣いていた。
痛ましい過去を思い出してしまい久しぶりに切なくなってきた。
しかし、しんみりと沈み込むディディに向けて陽気に話している。
「ねぇねぇー、ディディ、あんたの兄ちゃんを紹介しておくれよ」
軽薄な物言いのおかげで、ディディの心を湿らす空気が一気に吹っ飛でしまう。
「やだ! あなたにはレイ王子がいるじゃないの! 王子のことを好きじゃないの?」
咎めるような口調になってしまう。すると、セルディーが、あっけらかんと答えた。
「惚れているっていうのとは違うのさ。あたいが妊娠したから仕方なく引き取ったんだよ」
「えっ、仕方なくって……。お腹の子は王子の子供なんだよね?」
「さぁー、どうだろうねぇ。あたいは娼婦だ。子供を連れて商売なんてやってられないよ。それなら、金持ちと結婚しちゃうのが一番いいと思ったのさ。あたいと王子は話が合うからね。楽しいよ」
複雑に気持ちが絡まっていた。なぜ、こんなにモヤモヤするのだろう。とりあえず帰ろうとしたのだが、セルディーによって引き止められた。
「やーだ。帰っちゃうの? ここに泊まりなよ。話し相手がいなくて退屈だよ」
「王子は?」
「王子は王の代理として第二都市に視察に行っているよ。当分、帰ってこない。五日程、留守にするって言ってたかな~」
「あたし、表向きは男だから、ずっと一緒にいるっていうのはマズイのよ。話し相手なら、侍女がいるじゃないの?」
「やだよ! あの娘達は軍の高官の娘なんだよ。気取ってやがる。あたいとは話が合わないよ」
消え入りそうな表情になっている。着替えを手伝ってもらったり、食事を運んで貰っているが、お互いに共通の話題がないことが問題だ。セルディーも何かと心細いのだろう。
「だいたいさぁ、下手なことを話して、あたいの正体がバレるとやっかいじゃないか」
「それなら、衣装やお化粧やお菓子の話をすれはいいのよ。王都では、コーヒーで占いするのが流行っているみたいだよ。女の子は占いが大好きだよ。占い師を招いたらどうかな?」
「やだよぉー。占いなんかしたら、あたいが姫じゃないってバレちまうよー」
「あっ、そうか……」
「話し相手がいないってのは辛いもんだよね。あたいは退屈で死にそうだよ」
それは何とかしてあげたい。
「書記長様がおっしゃっていたのよ。逆風でも帆の立て方次第で船は進むってね」
「何だよ、いきなり」
「いいから、ちょっと待ってて」
そう言うと、ディディは大急ぎで走ってハレムから飛び出すと市場に向かった。子猫を買い取ると、すぐさま戻ってきたのである。
「はい。子猫を飼うといいよ。侍女たちに世話をさせようよ。そしたら、猫ちゃんを通して会話が出来るでしょう?」
ほらね。もう懐いている。セルディーは猫を大切そうに抱えている。勝気そうな目尻がクニャっと照れ臭そうに垂れ下がっている。
「可愛い女の子の事をヘルワって言うって、キーリア教徒の男達が言ってた。ヘルワって名付けるよ」
子猫を気に入ってくれたようで良かった。
「あのね、キーリア教徒の間で流行っている宮廷恋愛の本を渡すと侍女達は喜ぶと思うよ。おばぁちゃまは、古くなったドレスを侍女にプレゼントしていたの。おばぁちゃまが教えてくれたの。仲良く暮らしたければ自分から相手に尽くしなさいってね」
母方の祖母の名はロメーヌ。つまり、今は亡き王妃のことである。
いつか結婚したならこうしなさい。旦那様には尽くしなさい。色んなことを教えてくれたけれども結婚どころか恋する相手もいないという事に気付いて少し虚しくなる。
さてさて、そろそろ家に帰るとしよう。
「それじゃ、またね」
「あいよー。明日も楽しみに待ってるよ」
午前中、宮殿に出入する紙問屋の小僧に伝言を届けてもらっている。
『おばちゃん。連絡遅くなってごめんなさい。昨日は仕事で帰れなくなりました。徹夜で仕事をしました。心配しなくていいよ』
それでも、過保護なガガリアとナーラがハラハラしながら待っているに違いない。だから、急いで西門を通過して家路を急いだのだが……。