6 王子の居室
まずは、新しい女を迎え入れる儀式は大浴場にてハレムの女達が、その女性を囲んで丹念に洗い清める事から始まる。
そこで徹底的に脚や腕など全身の毛を溶かす。
アズベールでは女性の身体の毛は御法度。毛抜きなどを使って丁寧に鼻の穴まで手入れを行なう。(男性は逆に毛深い方がカッコいいとされている)
そして、聖堂で改宗した後に、ようやく床入りが可能となる。
ジゼルが男子を産むまでは婚約者という曖昧な関係性が続くようなのだが……。
セルディーは子猫のようにクネクネと身体を揺すりながら甘えている。
「ええっ、お仕事なのぉ? あたい寂しいよう。そんなのやだよぉーー」
「あさって専門部署で会議を開く。その書類をまとめなければいけない。今夜は、おまえの部屋に行けそうにないから先に寝ていろ」
「ええっ。一緒にいたいよーーーー!」
ディディは、そこに存在していないかのように振舞わねばならない。
朱塗りの衝立の後ろに背を向けて立っていた。
偽者のセルディーの日常のどこを切り取って日誌として残せばいいのだろう。
いたたまれない気持ちで控えていると、不意に王子に呼ばれた。
「ディディ! 一緒に書斎に来てくれないか。仕事を頼みたい」
訳が分からないまま王子の書斎に向うと、彼の立派な机の上には紙の束が置かれていた。
「すまないが、正確に訳し直してくれ。朝までに全部だ! 右側の書類はアズベール語に翻訳してくれ。そして、左側の書類はルビトリア語にして欲しい」
「お言葉ですが、そういう事は専任の学者がやるべきなのではありませんか?」
「彼等は既に自宅に帰っている。今夜中に直す必要があるんだ」
それは困る。いつものように定刻通りに帰らなければ、ガガリア達が心配するに違いない。
「最初は一人でやろうと思っていたんだが、オレは日常用語を喋る程度の知識しかないんだよ。正直なところ、肝心の言語学者も役に立たない。これを読んでみろ。これらは行政官が訳したものだ」
ルビトリア語の原文と翻訳したものを手渡されて驚いた。余りにも、その中身が稚拙だったからだ。
これで翻訳したつもりなのか……。
『ルビトリア国境の州長官のアフメットの目は狭いようでござる。心も狭いようでござる。政治戦術はゆるく感じるかもしれないでごさる。故に、彼の地を統治するに値するに相応しい人物であるのかどうか、我々は不思議な気持ちを抱いて陰鬱でござる。さらばと言いたいでござる』
ディディは渋面になりながらも、書面に目を通し続ける。
「微妙に違いますよね。目が狭いじゃありません。視野が狭いと訳すべきですね。それと考えが偏っていると訳すべきです。それに、ここは戦術じゃなくて戦略という言葉になります。ござるごさるって……。変な翻訳ですね。すべてがこの調子なのですか?」
「そうなんだ。おまえなら、どう書く?」
「ルビトリアをどういうふうにまとめたいのかという設計図を描く能力が足りないバカな男を解雇して欲しい。そういうふうにアズベール語に訳しますね」
「そうだな。まぁ、これに関してはオレにも意味が分かるだけマシだ。とんでもないものもある。これがそうだ。見てみろ」
一枚目を読んだ瞬間、これはイカンと頭を抱えたくなってきた。
「うわーーー。誤訳だらけですよ。ルビトリアの薬司局に出す書類なのに薬草の名前を間違えていますよ! 飲んだ人が死んじゃいますよ!」
ああ、そういう事なのか。これは見過ごせない。
「分かりました。僕、頑張りますね」
「ここでは僕と言わなくてもいいぞ。質問に答えろ。なぜ、おまえは書記になった? わざわざ、男のフリまでしてやりたい仕事なのか?」
真の理由を素直に明かせるならば苦労はしない。
「あ、あたしは語学力を生かして働くことが生き甲斐なのでございますよ」
「どこで豊かな語学力とやらを身につけた?」
「独学でございます。こう見えて神童なのでございます」
生い立ちを詳しく聞かれると困るので仕事に没頭しようとする。
「ディディ、こっちを見てくれ。おまえに真っ先に訳してもらいたいのはこれだよ」
琥珀色の筒に見覚えがあった。ルビトリア製の組紐によって結ばれている。
(うそ、これ、お兄ちゃんに届けた筈なのに……)
顔を強張らせていると王子が詰問してきた。
「こないだ、おまえは兵舎の厩舎で若い男にこれを渡していたな? サリンダに色々と報告しているらしいな」
王子の射抜くような双眸に対しても、少しも動揺していないフリをしようとした。しかし、王子は抜目なく、ディディの顔色を窺がっている。
「娼婦だと名乗る娘が宮殿の書記になり、頻繁に機密文書や軍事関係の文書を読み漁っている。これは、どういうことなのか。さぁ、言え!」
「王子は、あたしを見張っていたのですね!」
「ディディ、おまえは知っているのか? 我が国の古い詩文では兄とは愛しい恋人のことをいうのだ。婚約している男性のことを兄様と呼んでいる」
それは知らなかった。不思議なことに話題が変わっている。
「どういう種類の兄なのだ? サリンダは恋人なのか? 一緒に暮らしているらしいな」
やだ。近い、近いってば! 遠慮なく迫ってくるものだから首筋を強張らせて後退しながら答えた。
「母親は違いますが、本物の兄です」
「それは妙だな。宮廷書記に採用される際にサリンダの存在を記していないぞ。何の為に宮廷書記になったのか言え!」
グッと、肩を押さえられて床に押し倒されている。えっ。ドキッと鼓動が上ずった。
ペーパーナイフを喉元に刀先を突きつけられて王子に脅されている。何だか、ヤバイ状態だ。
「言うまでは開放しないぞ。指を一本ずつ落とす。痛みで気絶する覚悟をしておけ」
「それが、王子の戦術ですか」
こんな時なのにクスッと笑ってしまっていた。もう、バレたら仕方ないという感じ。
「友好的に話を引き出という選択肢もあるのに、目の前にいるガキは平気でウソをつきそうな顔をしているから、恐怖で支配するのが有効だと考えたんですね」
いささか戸惑いながらも、王子は興味深そうに話を聞いている。
「オレに兵法の講義をするつもりなのか?」
「いいえ。こちらの条件を飲んでくれるのなら、真実をお話しますよ」
「条件とは何だ?」
「あたしの身体にのしかからないで下さいませ。重たいので離れて下さい」
「よし、いいだろう」
ディディは半身を起こして事実を告げることにしたのである。
「傭兵隊は、いつもやっかいな場所に送られています。詳しい戦略なども伝えられないまま、最前線に向かねばなりません。軍部は兄を疎ましく思っています。庶民に人気があることが気に入らない。だから、わざと何度も死線へと送り込んできたのです」
兄達が辺境地に向かうからには、現地の天候や地形や各地の部族の動向などの情報を入手する必要があった。
「詳細な国境の地図などは軍の秘密文書なので傭兵部隊は見る事ができません」
兄を救う為にデイディは書記になり、いろいろと探るようになったという訳なのだ。
「今回に関して言いますと、小さな泉や井戸などを示したものがあれば、遊牧民の追跡や防御の選択肢が広がります。過去に、起きた自然災害や危険な地域に関する記述を見つけては、兄に知らせていました」
告白を聞き終えた王子はフッと書簡の封を解いた。
「おまえの書簡は無事に届いている。これは贋物だ」
何も書かれていない真っ白な紙を見て面食らったが、もう、ここまで来たなら洗いざらい打ち明けてみよう。
「王子、どうか助けて下さい。兄の部隊は慢性的な食料難に瀕しています」
「食料のことなら、軍の補給部隊に要請したらどうなのだ?」
「兄は、遊牧民に食料と薬を渡す事で村には立ち入らないように交渉したいと考えています。軍は、軍部と敵対する遊牧民部族を見かけたら、男は殺して女は奴隷にしろと命じています。兄と軍部はいつも方針が違うのです」
「なぜ、おまえの兄は、そのような任務に就いたのだ?」
傭兵は金で動くのだから嫌なら断ればいい。むろん、これには深い理由がある。
「村人は、アズベールの正規軍の到来を怖れています。兵站を出せと言われて搾取されて、時には、女を差し出すように言ってきます」
遊牧民は食べ物を奪うが女には手を出さない。正規軍の方が、よほど、タチが悪い。
「村人に、助けて欲しいと頼まれたので兄達は、この役目を軍に志願したのです」
すると、軍部は、このやっかいな仕事を兄に任せた。
「そういう事なのか。それなら、傭兵部隊に食料を運ぶように知り合いの商人に手配してやろう。それにしても、不思議な奴だな。何もかもが謎めいている。おまえが娼婦というのは本当なのか?」
「えっ、ああっーー、はいはい、本当ですよ」
真実ではないけれども、今更、冗談ですと言えやしない。すると、からかうように問いかけてきた。
「オレは、おまえを買えるのか?」
「それは、王子の魅力と財力次第でございますよ」
「生意気だな」
そう言いながらも仕事の顔に戻っている。疲れの色が滲んでいた。ディディは横並びの机に向かいながら元気良く請け負っていく。
「あたしも頑張ります。明日の朝までに絶対にやり遂げて見せます!」
「頼もしいな。くれぐれも無理をするなよ」
やっと帰れると思っていたというのに、ドッサリと残業を命じられてしまうとは……。それでも、やってみせるぞと誓った。
生ぬるいコーヒーの入ったポットを掴み、コップに注ぐ。飲み干すと、頬を両手で打ちながら睡魔と闘う覚悟を決めて、そこからは一心不乱に取り組んでいく。
視界が揺れている。文字が二重に見える。もう、倒れる寸前になっている。
残り何枚? 改めて確認してみたところ、まだ三枚も残っていた。脇に視線を流すと、王子は机に伏したまま小さな鼾をかいていた。
王子は途中で力尽きたのだろう。
(この人は働き過ぎなのよ……)
アズベールには王の耳と呼ばれる組織があり、直属の監視官が腐敗や不穏な動きを報告してくれる。 それに加えて、地方議会の報告書、法案にも目を通して王が署名しなければならない。
時には、『夫が浮気しているから処罰してください』というような直訴状までもが王様のところにやってくる。
王様は事務仕事のすべてを他人に任せていたが、二人の王子達は律儀に職務をこなしている。
(要するに、王子への報告書があまりにも膨大なのよ。でも、すべてに目を通さないと、不正の種は見つけられないし、いい加減な翻訳をする不届き者も見つけられない……)
とは言うものの、こんなことを毎日やっていたなら、過労で倒れてしまうに違いない。
「はぁー、やっと終わったわ!」
我ながらよく頑張ったと褒めてやりたい。ディディは紙に記して王子の机に置くことにした。
『親愛なる王子様。残業の報酬として、傭兵に食料を送って下さいね。砂糖たっぷりの甘いお菓子などもあれば言う事なしです。それと、お兄ちゃんは、杏子のジャムが大好物です。では、おやすみなさーい』
金の蔦模様の刺繍を豪華に施した座布団に顔を伏せて目を閉じようとしたが、ふっと顔を上げた。風邪をひかないように王子の外套を背中にかけておくとしよう。
覗き込みながらも透明感のある精緻な寝顔に惹き込まれていた。王位継承に興味がないと言われているけれど、果たしてそうだろうか。
ディディの兄は、八年前に開かれた馬術競技大会に参加したのだが、すべての部門において兄が優勝すると思っていたが、障害物の部門で優勝したのは十三歳のレイ王子だった。
華麗に、誰よりも早く柵を飛び越えて見せたのだ。
『馬と王子は一体だな。あいつは馬の能力を引き出す力はズバ抜けている』
あの時、兄は、素直に褒めていた。
けれども、それ以後、レイ王子は大会に一度も参加していない。というのも、その年、王子は何者かに毒殺されかけて体調を崩したからなのだ。
ちなみに、アルバ王子は怪我をするといけないと王妃様から言われているので参加した事がない。
それにしても、アズベールの第一王子が贋物のジゼルと婚約するとは……。
ディディは拗ねた様に唇を尖らせていく。
「王子のバカ……。あたしは疲れているのよ。くたくたなのよ」
文句をたれながらも金色の刺繍を施したフカフカの座布団を抱きしめて、うつ伏せになっていると、意識が泥の底に吸い込まれていく。
そして……。遠くで鶏が鳴き始めた。すると、夜明け共に、ディディは間抜けな寝言を呟いていたのである。けっこう大きな声だった。
「王子の意地悪。負けないぞーー。キライ! いばりんぼ!」
「はぁ! 寝言か?」
隣に寝そべるディディの妙な声で目覚めた王子は顔を上げると、プッと吹き出した。
「無礼を許してやるよ。助けてくれてありがとう」
王子は、ディディの桃のようなツルンとした頬を撫でた。ディディの指先はインクで汚れている。
痩せた背中を丸めて眠るディディは天使のように愛らしい。胎児のような姿勢のディディの肩に、王子は自分の背中にかけれられていた外套を被せてやった。
「一日、ゆっくり休むといい」
いつのまにか空が青白くなっていた。夜が明けようとしている。宮殿の小鳥は早起きだ。
そのまま物音を立てることなく退室した王子は書類の束を抱えると、綺麗な足取りで円柱が続く渡り廊下を進んだ。
清廉な朝の光に目を細めていく。肩が痛い。過労と寝不足で疲れているけれども、頭の中では色々なことを取捨選択しようとしていた。
(カルゴを刺激しないように、農地の改革しなければならないのだが……)
軍部の予算を削減したせいで奴等は不満を募らせている。奴等はハイエナのように浅ましい。減らされた分をどこかで搾取して補足するだろう。
今年、ハレムの予算を削ったので王妃がブチ切れる事も分かっている。
(各州の税制度に関しても色々と改革したいのだが、今は無理だな。クソッ)
アルバは地方都市にも孤児院を作りたいと言っていた。アルバの妻は公衆浴場と無料食堂を増やしたいと考えている。まぁ、このふたつに関しては王妃一族も反対はしないだろう。
レイ王子としては、各地の灌漑施設を補強したいのだ。しかし、地方の既得権益が絡んでいる。地下水で利益を得ている地主が工事に反対する事は目に見えている。
色々と問題が山積しているのだが、不思議なことに王子の口元には爽やかな微笑が浮かんでいたのだった。