4 急展開
「おらおら、急げーーー。今年度の国家予算を決める大切な御前会議が始まるぞ。みんな、忘れ物はないな」
書記達が書類の束を抱えて走り出していていた。予算の編成の資料作りの為に徹夜した者もいるという。
アズベールの王であるファシマール・アルハスは、唐突に倒れて以来、歩くことさえも不自由になっていて、年に二度の御前会議も欠席している。
ディディは、日当たりのいい小部屋で翻訳ので仕事をこなしながら、先週の夜の出来事を思い返した。
あんな往来で胸を触るなんて、何て不埒な王子様なのだ。伝記に書き残してやりたい。あまりにも奔放すぎる。
けれども、あの瞬間のおどけたような表情は悪くはなかった。逸脱した表情はやたらと色っぽかった。思い出すと胸が騒がしくなってしまい、ポッと頬のあたりが蒸してきた。
書記達が会議室から戻ってきたのは午後一時で、いつもよりも会議が長かったのには理由があるようである。みんな、ずいぶんと興奮している。
「大変だ! レイ王子が婚約を発表されたぞ!」
こんな奇妙な第一報に職場の書記達が驚いて顔を上げて耳を傾けている。皆はザワついた。
「ついに、王妃様の姪と結婚するってのかよ!」
「それが、相手はルビトリア国の王の孫娘のジゼル様なんだ。なんと、姫君が娼婦に身を落としていたのさ。それを見初めたって言うんだよ」
ジゼル! ディディの心臓が激しく脈打つ。
(路地裏であたしにあんなことをしたのは、もしかして、愛の告白ってやつなの?)
一瞬、そう思ったのだが、すぐに己の勘違いに気付いた。いやいや、それは違う。
(娼館にいる偽ジゼルのことなのだわ。あの夜、あの子に会いに行っていたのね)
騙されているとも知らずに求婚しているのかと思うと哀れに思えてくる。
「おかしいな。確か、王妃様の姪のダータアリ・マーレリア様が有力だと聞いていたけどな」
婦人科の病気のせいで子供が産めない姪を押し付けようとしていたのだが、それは、さすがに娶りたくなくて断ったらしい。
「過去にも例があるので妃は異国人でもいいのかもしれないが、娼婦との正式な婚姻は王様が許さないんじゃないのか?」
「ジゼル様は身籠っておられるらしい。王は、彼女が跡継ぎになる男子を生んだのなら正式にジゼルを正妻として認めるとおっしゃったのさ」
王族の正妻は、有力な部族長や高名な学者の娘から選ばれる事が慣例になっている。だが、貴族なら異民族であろうとも妃にする事は可能なのだ。
少し戸惑ったが、デイディは肩をすくめた。
(レイ王子が誰と結ばれようと、あたしには関係ないことだわ……)
お昼休み、デイディは書庫に向かうと、赤の砂漠地帯の出来事に関して書かれている文献をすべて手に取っていた。情報か欲しい。
地形と水汲み場などや遊牧民の襲撃の経路や行動範囲。彼等が家畜を連れ歩く日程。夏の拠点地。移動する山道の地形。雪解け水が染み込む井戸。枯れた河が、いきなり氾濫する危険な時期などを書き記していく。
(急ごう。早く、お兄ちゃんに届けないといけないよね……)
早馬で駆けたなら三日以内に兄達が警護しているオヤシスの村に届くだろう。
軍部の建物の裏手にある厩舎に向かうと、人の目を気にしながら書簡を馬の世話係りの小僧に渡した。小僧はコクンと頷いて馬に飛び乗って走り出している。
使命を果たしたディディは、安堵の顔つきになる、そのまま何食わぬ顔で知恵の館へと戻ると、待ちわびたように書記長が話しかけてきた。
「どこに行っておったのだね。探したのだぞ」
「すみません。厠でございます。ちょっとばかり腹を壊しておりました。えへへ」
曖昧に微笑んでいると予期せぬことを告げられた。
「おまえも聞いたと思うが、ジゼル様が王子のハレムに来られるのだよ。おまえがジゼル様のハレムでの御様子を記録する事になった。レイ王子の御指名だ。誠心誠意、ジゼル様に尽くしなさい」
「なぜ、僕が行くことになったのですか!」
「おまえはジゼル様と同じルビトリア人なのだぞ。同郷ならば気が合うだろうという王子の配慮であらせられる。頻繁にジゼル様のもとに通いなさい。今やっている翻訳の仕事もあるので忙しくなると思うが頑張りなさい」
「……あっ、はい」
そうか、そういうことだったのか。変だと思ったのだ
あの夜、いきなり胸を触った理由は、これたったのか……。
(あたしは女だから、ハレムに送っても間違いなんて起きないものね。あの王子、意外にしたたかだわ)
ひょんなことから、本物のジゼルが偽のジゼルと王子の熱愛ぶりを克明に記録する事になった。
しかし、これはチャンスかもしれない。腕輪を取り戻せるかもしれない。よし、やってやるわと前向きにとらえる事にした。