2 レイ王子との出会い
宮廷の外廷の林にはアーモンドの花が咲いている。
このところ、ポカポカと温かくなり、心地良くて、いつのまにか爆睡していたようだ。
「ディディ、おまえは寝ているのかね!」
書記長の声で目を覚ましたデイディは、慌てふためくようにして周囲を確認した。机の上に書きかけの羊皮紙が残っている。
ここは、書記長の執務室だ。ディディは書記長の助手をしている。それなのに、とんだ失態をやらかしてしまっている。なんてことだ。
「も、申し訳ありません」
書記長のターバンは紫色で、これは、最高位の官位を表している。
宮殿行政機関の中で、書記が集う場所は『知恵の館』と呼ばれていた。移民のディディは異教徒なので、他の者達のようにターバンを巻いていない。その代わりに髪を後ろで束ねている。
「疲れているのだな。このところ、翻訳の仕事をまかせっきりにしていたから仕方あるまい。そうだな。少し、気分転換に散歩でもして休みなさい」
その声音は孫を見守るように穏やなものだった。この国で最も権威のある学者の一人でもある彼は、もうそろそろ七十歳になろうとしている。
「ありがとうございます。それでは、ちょっと散歩をしてまいりますね……」
せっかくなので、ディディは気分転換も兼ねて本を読みに行く事にした。
書記長の部屋は大部屋の一角にあり、そこから一歩出ると、大勢の書記達が公文書の作成に追われている。廊下を進み、公文書や古い書籍が保管されている地下空間へと続く階段を降りていると、先輩のババスが後ろから追いかけてきた。
「こんなところで休憩とはいいご身分だよな。おまえ、顔が可愛いからって書記長様に贔屓されてズルイぞ~」
あなたこそ、たまには仕事をしたらどうなんだと言いたいが呑み込む。
ババスは歯茎が丸出しで面長の顔を近付けて、にんまりと笑っている。ああ、やだやだ。
「おまえさぁ、オレのことが好きなんだろう? いつも、熱く見つめているよな。うんうん。分かってんだぞ」
いや、いつもウザイから睨んでいるだけだよと言いたい。それなのに、いきなり、背後から抱き締められてしまい、ギクッとなる。
「誤解ですよ! あなたのことは何とも思っていません!」
「おいおい、恥ずかしがるなよ」
何なのだ。こいつは……。ちなみにバスは面食いだ。相手が美形ならば女でも少年でも愛せる。
「おいおい、恥ずかしがるなよ。ズボンを脱いで見せてくれよー。玉無しなんだろう? ほんとは去勢してんだろう」
ディディの官衣のズボンを降ろそうと帯紐を解いている。ヤバイ。布地を摘んで引きずり下ろそうとしているみたいだ。
「やめて下さいってばーー」
宮廷の書記になれるのは男子だけである。ディディは両手で腰回りを押さえつつ懸命に踏ん張りながらも、あれこれと思案していく。ババスが無能で幼稚な事は同僚も知っている。仮に、こいつに怪我を負わせても正当防衛という事で許されるかもしれない。
パンツを脱がされて女だとバレると困るので先手を打つことにした。
兄から護身術として金玉の攻撃を教わっている。今こそ、その時だ。膝を上げて金玉を蹴ろうとしていると、凛とした低い声音が書庫に響いた。
「おまえら、そこで何をしている!」
ババスの背後にある棚の内側に誰かが潜んでいるようだが薄暗くて顔が見えない。
「おい、邪魔すんなよ。誰だよ!」
ババスが胡乱な目つきで見据えている。どうせ、こんな時間帯に埃の積った書架にいるのは、うだつの上がらない老いぼれの学者に違いないと思って侮っているらしい。だが、物陰から出てきたのは優美な顔立ちの若者で、空気の粒子が彼に集中しているかのような、そんな威厳があった。
「知らぬとは言わせないぞ。オレの顔は知っているだろう! ババス、おまえはここで何をしていたのだ?」
金色の巻き毛がターバンの縁からチラリと零れ落ちている。その鼻梁はまっすぐ整っていて、歯は真珠のように白くて肌は透けるように滑らかだ。灰色がかった青い双眸は宝石のように美しい。紫色の絹の光沢が艶やかな長衣を彩る縁取りの刺繍の意匠も凝っている。紫の衣は王族だけが着ることを許されているのだ。
「お、王子様……」
いつも無駄に大きいババスの声が縮こまっている。
高官の息子のババスはともかく、新入りのディディが王子と出会うような機会などない。
「レイ王子、申し上げます。不埒な書記が、わたくしを誘惑したのでございます!」
大きな目玉を引ん剥くような顔つきのまま、ババスはひれ伏した。
ディディはポカンとしていた。まさか、第一王子がこんなに美形だったとは知らなかった。
いや、見惚れている場合ではない。ディディもババスと同じ姿勢で膝をついて額をこすりつけていると、王子は睥睨しながら言い渡した。
「ババス。おまえの下手な言い訳は聞きたくない。消えろ。目障りだ!」
「お許しをーー。も、申し訳ございませんでしたーーー」
ババスが去った後、デイディは手を床につけたまま丁寧に礼を述べた。
「あ、ありがとうございます」
「言っておくが、あいつの父は地方長官だ。敵に回すとやっかいだぞ。さぁ、立て。おまえは新入りの書記なのだな? どうやら、キーリア教徒のようだな」
「はい。ディディと申します。八年前、戦禍を逃れてルビトリア南部の農村から亡命してまいりました。以後、西区の片隅で遠縁の者と一緒に暮らしております」
八年前の戦争に負けて以来、ルビトリア王国は砂漠の大国であるアズベールの政府機関よって統治されている。つまり、アズベールの属州となったのだ。
「おまえ、やけに童顔だな。新入りか?」
「こう見えて、もう十七歳でございます。一年前に欠員が出たので知恵の館で採用されたのでございます」
「そうだろうな。じぃ様は、おまえの顔が可愛いからという理由で採用するよう事はしないからな」
「も、もちろんでございます」
書記長は王の父方の叔父にあたる人物だ。大昔は、書記長も昔は王子様だったのだが、なぜか、生涯、独身を貫いていて今も宮殿内で暮らしている。
「あの、ところで、王子様は、このような場所で何をなさっておられるのでしょうか?」
「赤の砂漠に関する資料を探しに来た。おまえは反政府組織のことはを知っているか?」
「はい。赤の砂漠地帯にいる遊牧民達のことですね、オアシスで略奪を繰り返していると聞いております」
その時、王子は、手を伸ばして三冊の本をザッと掴んだ。あっーーと、ディディは叫びそうになるが、おっと危ない。かろうじて言葉を飲み込んだ。その時、王子はチラッとディディを見つめたが、ディディはお目当ての書籍を取られた悔しさを押し隠すしかない。
「そいつらは西区で出稼ぎをしながら仲間を集めていることをオレの密偵が聞きつけた」
その密偵こそが、ハマムでグンテルに食って掛かっていた生意気な少年なのだが、そのことをディディは知らない。
「それとは別に、王都の西区でサリンダが率いている荒くれ者達が、役人達といざこざを起こしているらしいな。反乱軍と関係あるのかもしれない」
「誤解でございます。彼等は荒くれ者ではありません。賄賂を要求する軍人や役人と対立しているだけなのです」
「ほほう、やけに、サリンダに関して詳しいのだな」
「ぼ、僕は、西区の人間でございますから」
「そうか。なるほどな。ところで、おまえは、ここで何をしているのだ?」
「僕と書記長様は伝記を編纂しております。しかし、僕は、この国の王家の歴史を知っているとはいえません。ですから、暇をみつけては過去の王様の伝記を読み込んでおります」
「それならば、今日のやりとりも伝記に付け加えるように、じぃ様に教えてやればいい。今から言うぞ。紙と筆を用意しょうか?」
「いいえ。暗記します!」
いきなり何を言い出すのかと思いきや、なぜか、澄ました顔で王子が朗々と語り始めたのである。
「それは、王子が二十三歳になったばかりの春の日の午後のことであった。王子が書庫で佇んでいると、女のように愛らしい顔の書記の少年が馬面の上司に襲われそうになったのだ。それを見かねて、王子は書記の貞操を守ったと書いておけ」
ディディが訝しげに見つめ返していると、彼は、フッと苦笑したように唇を歪めた。
「冗談だよ」
ドクンツ。麗しい顔に圧倒されてドキドキしながらも王子への好奇心が湧いてきた。王子は薄っすらと楽しげに微笑んでいる。
「残念だったな。先に読むぞ。おまえはしばらく待つといい」
彼は、ディディが読もうとしている事に気付いている。心の内を見透かされているようで落ち着かなくなる。
(やだなーー。この人、何かを疑っているような目をしているわ)
すると、なぜか王子はクスッと表情を崩した。
「おまえ、居眠りでもしていたのか? ほっぺたにインクがついているぞ。仕事場に帰る前に顔を洗っておけ」
紫色の絹の長衣の裾を翻すようにして書庫から立ち去っている。
(へーえ。あれが、噂の根暗な童貞のレイ王子なのね……)
みんなが言うような間抜けで内気な人には見えなかった。どちらかと言うと、その逆だ。
何にせよ、もう二度と会う事もないだろう。この時は安易にそう思っていたのである。
☆
アズベールは、キーリア教徒が暮らす大陸と隣接している。海峡を挟んだ南側に位置していた。キーリア教徒達からは砂漠の大国と呼ばれている。
しかし、王都は緑に溢れていた。カラカラに乾いているのは国の南部である。しかし、国内には大きな河か流れており、灌漑施設のおかげで南部にも農地が確保されている。
宮殿の西門を出たところには、青空市場。
活気があって気持ちいい。
安くて美味い食べ物を売る屋台がズラリと並んでいる。魚、肉、柑橘類、乳製品、野菜。衣服、金物。種類ごとに区分けされていた。
「揚げパンはいらんかねぇ~ ほらほら、そこのお役人さん、夕飯にどうだい!」
「羊の串焼きはアツアツだよ。三本まとめて買うと安いぜ! 早い者勝ちだよ!」
店主と常連客とのやりとりを見ているだけで楽しい。
準備中の店の引き戸を開いて帰宅すると厨房にいる若い娘が振り向いた。柔らかな笑みをこほししている。
「おかえりなさい、ディディ」
住み込みで働いているポッチャリ体型のナーラは、ディディよりも七歳ほど年上だ。
「明日、胡椒列島に帰国するお客さんに漬け物を頼まれたんだよ。イサドさんは大量に買ってくれるから有り難いよね」
そう言って微笑んでいるのは、ディディの腹違いの兄の叔母のガガリアである。ここの女将なのだ。二人は、夕方の営業の為に料理や、客が持ち帰る保存食の仕込みに追われているところだった。
(まだ、お兄ちゃんは帰って来ないんだね……)
そんな事を案じながら二階へと上がる。早いもので、兄が辺境地帯に旅立ってから三週間が経過している。
それは、ディディが夕食を食べ終えた後の事だった。ガガリアが、とんでもない事を言い出した。
「大変だよ。昨日、新入りの娼婦が、ルビトリアの王族の唯一の生き残りのジゼル姫だって宣言したらしいよ。そいつは、紋章入りの宝石を持っていたらしいんだよ。あんた、昔、宝石を盗まれたって言ってたよね……」
「うん、盗まれたよ」
いてもたってもいられなくなって立ち上がる。
なぜなら、デイディこそ本物のシゼルだからだ。
「あたし、偽者のジゼルの顔を見てくるわ」
すぐさま、ナーラが、昔、身につけていた娼婦の衣服を身につけて、念入りに化粧を施していく。歓楽街をふらつくなら、娼婦の装いをしている方が安全だ。娼婦には後ろ盾がいるので、酔っ払いや追い剥ぎも迂闊に手を出せやしない。
娼婦は日没からが稼ぎ時。複数の女性達が二階の各部屋のバルコニーに立って客を手招している。
はてさて、どの娘がジゼルなのだろう。客引きをしている若い男に尋ねると教えてくれた。
「ジゼル様ならあそこにいるぜ。緋色の服の背の高い娘だ。まさか、ルビトリウの王家の血を引く娘が、あんな場所で身売りしていたなんて哀れだよな」
真上の二階のバルコニーにその娘は佇んでいた。
黄昏時なので彼女の顔の細部までは分からないが、瑠璃色のグラスを細い指で握り締めて飲酒している。そんな彼女が左手に嵌めている緑色の腕輪に見覚えがあった。
ハッと心がざわめき始める。
もしかしたら、あの時の泥棒のセルディーなのかもしれない。八年前の出来事を思い出していたのだが、いきなり、彼女を問い詰める訳にもいかない。どうしたものか……。
その時、路地の向こうに目をやると、立派な馬を引いて歩いている細身の若者が見えた。
「うそ、なんで……」
レイ王子だった。今夜の彼はルビトリア人の恰好をしており、ターバンを巻かずに黄金色の髪を夜風になびかせている。
歴代の王は北方の異民族の娘を寵愛してきた。だから、彼のように金髪で青い瞳の子供が生まれることもあるのだが、ああやっていると、北方のキーリア教徒の坊ちゃんのように見える。
(レイ王子、なんで、こんなところにいるのよ?)
理由が何であれ、彼に、こんな姿を見られるとヤバイのだ。ディディは踵を返して走り去ろうとした。この界隈の路地は敵兵が攻め難いように驢馬が通るのが精一杯の幅に設計されている。ハァハァと息をこらしながら建物の角を右折しようとしていると、脇道からいきなり迫ってきた王子に肩を掴まれていた。
強引に壁と壁の隙間に引きずり込まれてしまっている。
「おまえ、なぜ、オレの顔を見て逃げようとしたんだ! 言ってみろ」
その横柄な物言いにムッとなる。
「生理痛がひどいのよ。手を放してよ。何なのよ。こんなことする権利はないわよ」
なぜだか分からないが、王子は唇を緩やかに吊り上げて不敵に笑っている。ディディの頬に片手を添えながら柔らかい声音で囁いた。
「おまえは小鹿みたいに元気がいいんだな」
ああ、いけない。王子の色気に気圧されて足腰が抜け落ちそうになってしまいそうになるが、その直後、王子の態度が豹変していた。いきなり、ディディの肩を掴んで引き寄せたかと思うと、胸へと指先を伸ばしている。ムギッと握られた。
そんな、まさか……。
「偽物の胸ではなさそうだな。念の為に確認しただけだ。悪気はない。気にするな」
パッと手を放している。しかし、ディディは顔を真っ赤にしていた。
「あたしは高級娼婦なのよ。ものすごーく高いのよ! 気安く触らないでよ」
なんてことするんだ。許さないわぞとばかりに眦を軋ませ、王子の脛を蹴っ飛ばす。
王子は、いてぇーと少しばかりよろめきながらも不敵に笑ってる。
「お詫びをする。いくら欲しいか言え」
「お、お金なんていらないわよ!」
その時、ふと、夜道の向こうから男達の笑い声が聞こえてきた。鼻先を刺激する妙な臭いが風に乗って流れてきた。工場で皮をなめす作業員だ。
彼等は、建物と建物の隙間にいるディディ達に気付く事もなく通り過ぎていく。王子はどこかホッとしたように言った。
「おまえは帰れ。いいな、夜は物騒だ。寄り道するなよ」
紳士的に軽やかにディディの背中を通りへと押し出している。ディディが歩き出すと、さりげなく囁いた。
「ゆっくり休むといい。勝気で威勢のいいディディお嬢さん」
えっ。驚きの余りバキッと目を開いて振り返る。
「……バレていたのですか」
放心したように見つめ返しながらも、不安な顔を見せていると彼は言い切った。
「ああ、化粧をしていも分かるよ。別に、書記として優秀なら女でも問題ない。黙っておいてやるよ。その代わり、今夜、ここでオレを見た事を誰にも言うなよ」
「……あっ、はい。もちろん言いません。でも、ここに何をしに……?」
「野暮な事は聞くなよ」
だしぬけに笑った。ここは、歓楽街だ……。いや、でも、あなたは童貞王子と噂されていた筈なのでは……。
「それじゃ、またな。近いうちに会おう」
アスベールの役人として女が働く事は禁止されているけれども、それを見逃してくれている。デイディはホッとしていた。
コツコツと足音を響かせて立ち去る王子の白っぽい上着のせいなのか背中が闇にポツリと浮いているように見える。
彼は、カツカツと踵の音を鳴らして角を左折する。デディの視界から消えた。しかし、いつまでも、ディディの心には残像として残っていたのだった。