ep0.Prologue
ニンゲンが一人、立っていた。
「……驚いた」
雨が降りはじめた。
〝ええ、驚きました〟
こんなことは生まれて初めてだ。
初めての体験が、ふたつも同時に起こるなんて――。
※※※
世界が終わりを迎えてから297年。
信じられないことだが、昔のニンゲンは太陽光の当たる地表に住んでいたらしい。
いまや地表は砂と熱と放射線の地獄だ。一歩でも迷い出れば即座に命を奪われる死の世界だ。そんなところにどうやって、と文献をあされば、そもそも当時は快適で過ごしやすい環境だったそうな。嘘だろ。
「んで、アレは何だったんだ」
〝さて見当もつきません〟
俺の視界の中で、球体に目と手足を生やしたもの――マスコット、と本人(?)は自称している――が、胴体ごと首をひねる。
〝検体番号20734098号、つまりはあなたが存命の間は、他のヒト型検体の生成予定はありません。また、あのような軽装備で外気中を活動できるとも考えられません〟
「でも現にいたじゃないか。あの陽ざしの中で立っていたじゃないか」
〝はい。謎です〟
数時間前。職務の定期巡回中、地表の見える点検窓から外を見下ろしたときだ。
蜃気楼にかすむ砂の上に、ニンゲンが立っていた。
そいつはかろうじて全身を覆う大きさのフード付きローブで体を保護してはいたものの、熱風にはためく隙間から腕と足の素肌が見え隠れしていたのだ。熱したオーブンの中で肌をさらせばどうなるかなど自明の理だろう。
ため息をついて右手を払う仕草をする。途端に目の中のマスコットが「ふわあぁぁ」と風に飛ばされたように視界外へ消えていった。
このマスコットは現実に――物理的には存在しない。俺が生成されたときに脳に受信機というものが埋め込まれて、母体から発せられた情報を受信したのちに脳内で信号変換処理されて、映像化されたものについてはこうして疑似的に視界へ映し出され、音声化されたものが話し声として認識される。
こうした知識も基本的には脳に直接届いて上書きされたものなので、真偽の程は不明だ。確かめようのある物事についてはなるべく自分の手でも実行してみることにしているが、今のところたしかに情報通りの結果が得られている。
と、風に飛んでいったマスコットがひょこっと顔を覗かせ帰ってきた。
〝ちなみに、あの天候についても未だ理由のつく分析結果に到達できていません。謎です〟
「……あれが雨、というやつなんだろう」
そして、だ。
自分以外のニンゲンという驚きに目を見開いた途端、さらなる衝撃に言葉を呑んだ。
雨だ。雨という水の粒が天から降ってきたのだ。
〝現在、地表上の水と呼ばれる分子結合体はすべて蒸発し、宇宙空間に放出されたと考えられます。雨とは大気圏内の水分子の循環作用で起こる現象ですので〟
「知ってる。沸騰で実験したやつだろ」
〝おおまかにその通りです。ですので、源となる水分が無い現在、雨という現象そのものが起こるはずのないことなのです〟
「でも降ったじゃないか」
〝…………〟
答えに詰まって、マスコットはひゅっと姿を消した。ので放っておくことにする。
雨は見る間に勢いを増し、さながら白いカーテンとなって視界を塞いだ。あの魂を揺さぶられるような激しい雨音は今でも耳に残っている。
やがて、それらすべてが白昼夢だったかのように、唐突に世界は熱と光を取り戻した。そこにあのニンゲンの姿はもう無かった。
――あれはいったい誰だったんだ。
297年前、ニンゲン社会は滅んだ。
俺が知る限りでは、最後はニンゲン同士の醜い争いの末に兵器というもので自滅したらしい。直接的な兵器の影響で99.98%のニンゲンが死に、わずかな生き残りも兵器によって成層圏に巨大な穴があいたために今に至る気候変動が起こって死に絶えた。
だが、ニンゲンは滅びてもニンゲンの創り出した文明は滅びなかった。
それが母体を主とする電子知能体だ。
母体は種の保存として保管されていた生命のもとを使い、現環境下でも命の繁殖が再開できるように各種実験を行っている。
その実験のひとつが23年前に生成された俺というヒト型生命体であり、日々俺に課せられる職務もまた、最終目的に達するための礎となる行いであるのだ。
左手を縦に振る。
視界内にウインドウが開かれる。サーチボックスにフォーカスし、「世界地図」と口頭でワード入力する。
すぐに視界の半分ほどが赤茶色の濃淡に埋められ、中央付近に現在地を示す点が赤で表示されている。
そこからさらに「旧世界地図」とワード追加すると、赤茶色に重なって半透明な青と緑がレイヤー追加された。
もう何度も何度も見た地図だ。
俺が今いるところは旧世界で言うところの北アメリカ大陸、その西岸あたりだ。
当時ここの地下には巨大な研究施設があり、世界の終わりを経てもなお機械動作的に生き残り、母体単独で独立した活動をはじめたのだ。
そして母体曰く、この地以外に生命体、また何らかの活動体の生き残りは世界規模で確認されていないとのことだった。ただしあくまでもレーダー感知できる範囲内でのことであり、地下深くや、起伏が激しく数千メートルも落ち窪んだような陽の届かない地表の底については未確認で、かつ生命が存在する可能性があるのもそういった地であるだろう、とも付け加えていた。
「ここから近い、生命体の存在しうる未確認地は」
ぽぽぽん、と地図上に点が穿たれていく。
旧世界の中米あたりにいくつか、北の果てにいくつか、点の密集地がある。
どちらにしても、この外気の地獄の中をここまで移動できるとは思えない距離だ。……しかもあんな格好でなんて。
――と、そんなことを考えていたときだった。
突如、けたたましい警報音が脳内に鳴り響いた。
〝緊急事態です。検体番号20734098号は即座に管理区域B-209へ向かってください。繰り返します。検体番号20734098号は――〟
マスコットとは違う聞いたことのない音声で指示される。そも、こんな警報もまた初めて耳にしたものだ。日に三度目の初めてだった。
何にせよ俺は取るものも取りあえず、防護スーツに袖を通して部屋を出た。
※※※
多量の雨が降ると水の流れ道が川というものを作る、というものを地学で学んだ記憶がある。この地表に残る跡がそれなんだろうか。
幾筋もの痕跡を見上げる。
屋外。光が降り注ぐ死の世界。
防護スーツ無しでは数分と生きていられない場所だと言われても、スーツさえ着ていれば涼しく快適に活動できるのだから実はまだよく感覚がわからない。
〝そこの階段を昇ってください。その先の設備でエラーが起こったようです〟
「はいよ」
マスコットとともに、俺は死の世界を歩く。
砂丘のようになっているそこは、当時はこの施設の地上建築物だったところだ。
メンテナンス用として歴代検体によって保持されてきた外階段をえっちらおっちら昇っていく。
「……おい、なんだこれ」
〝…………〟
そして、もはや本日何度目かもわからない驚きに包まれた。
直しにきた設備のカバーが強引に引っぺがされ、中のコード類がめちゃくちゃに引き千切られていた。
いや、それは良い。良くはないがまだ捨て置ける。
その設備の足元に、ニンゲンが転がっていた。
服装を見るに、さっき外で見かけたアイツだ。間違いない。
「何でこんなことしたんだ……」
〝解析・検証中です。しばらくお待ちください〟
いかにも機械的にマスコットが言う。マスコットを統括する母体の知能ですら即時処理できないほどイレギュラーな事態ということなんだろう。
〝お待たせしました。まずはそのヒト型が生命体かどうか、確認してください〟
「ど、どうやってだよ」
〝腕を取り、手首の内側に指を当ててください。外部センサーを使って生体機能を感知します〟
「触った瞬間に襲われたらどうするんだ」
〝あなたの防護スーツは人力の5000倍もの圧力にも耐えられる強度があります。このヒト型が未知の構造体であると仮定しても、この大きさの機構から計算上想定し得る発生エネルギーでは防護スーツに傷ひとつ与えることはできません〟
「…………わかった」
恐る恐る、手を伸ばす。
細かい作業用の微細アームではなく、スーツの手そのもので、そっと腕を掴んで持ち上げる。
スーツ越しなので感触もクソもないが、それでもなぜか柔らかいような、温かいような、不思議な感覚が掌に伝わってきた。
〝手首の内側に触れてください〟
「わかってるよ、ったく」
すぐに現実に引き戻され、俺は指示通りにする。
〝――解析完了。脈、血流をともなう生命活動を確認。体温は38.2度。体表簡易測定による水分量の不足を検出。これがヒトであるなら熱中症と考えられます〟
「ヒトであるなら、って……」
〝その議論はのちほど。ひとまずこの生命体を屋内へ運び入れてください〟
「こ、こんなわけのわからないモンを入れるのか!?」
〝生体管理はこちらで行います。あなたへの脅威度はゼロに保たれます〟
「……わかった。では予定を変更して、今からこのニンゲンを施設へ運び込む」
〝お願いします〟
――そう。
思えばこれが、そもそもの始まりだったのだ。
平穏で変化の乏しい俺の日常生活はこのときに終わりを迎えた。
俺の未来にとって――ひいてはこの地球における全生命体の未来にとっての転換点が穿たれたのだ。
それが吉と出るか凶と出るかは――――、まだわからない。
※不定期更新ですが数日中に次話更新の予定です。
また今後の参考、方向性決定のためにぜひ各話ごとの評価にご協力ください。