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誰彼の幸福論

作者: なち

 物心ついた時から「そこ」にいた。

 そこは客観的に言えば醜悪的で、不衛生な場所であった。

 石造りの筒状に、縦に長いその建物。外に出るための扉は鉄格子で、窓と思しき顔が一つ入るか入らないかくらいの穴には丁寧に格子が嵌められている。

 それも、大人二人分の高さがあるかないかくらいの場所に、だ。

 そんな場所に少女はいた。体はガリガリにやせ細り、ぶら下がるようにして伸ばされた腕には枷が嵌められ壁に括り付けられていた。

 動くことはできない。そもそもそんな力もなかった。

 彼女は、『ここ』の領主の奴隷であった。使いたいように使われ、使用されないときはこの牢獄のような物置部屋に放り込まれた。

 食事は一日二食。朝と晩。スープのようなドロリとした白い液体。それをただ体に取り込み、労働をする。

 虚ろな目には何も映らず、一言も発せずにただ何もせずそこにいた。



 その日、外はやけに騒がしかった。喧噪と、怒号。悲鳴。

 だがあまり彼女は、そのことに興味が持てなかった。自分に関わらないことなのだ。

 仕事の最中、自身に鞭が振るわれたことがある。その時痛みに自分は弱いと理解し、言われたことを忠実に遂行した。

 周りには自分と似た境遇の人がいた。助けてください、許して下さい。という言葉をその際耳にした。

 少女は思った。何故手も動かさずに、その人は鞭をふるう人物に向かって手を合わせるのかと。

 許すとは何なのか。何を許してほしいのか。

 少女は無視をした。悲鳴が背後で三度した。鞭が何度も鋭い音を立てていた。

 そんな彼女だからこそ、何も思わなかった。

 喧噪は半日続いた。半日眠り続けた。

 目を覚ました時、彼女の前に誰か立っていた。

「彼女は?」

 二人組だった。銀の鎧を身にまとい、その足元は赤黒く濡れている。

「おそらく奴隷かと。オットーは広大な土地を所有していましたからな。その管理の為でしょう」

「その割に彼女は一人だ。こんな牢獄に一人は随分と持て余しすぎじゃないのか?」

 一人は黒髪の妙齢の男性だ。口が見えないほどに髭もじゃで、少女の方を目を細めて見つめている。

 もう一人は金髪の若い男性だった。銀の鎧に見合うほどの壮麗な顔をしている。だが、その頬には返り血がついており、異常さを際立てている。

「ふむ、案外特別だったのかもしれませぬな。オットーは屋敷の地下に物置部屋を作り、無差 別に所有物を入れてると報告がありました:

「屋敷からは少し離れている。何かあったのかもな」

 そこまで、彼らは話してから、少女が目を覚ましていることに気が付いた。すると金髪の青年はにこりと、少女に笑顔を向けた。

「やあ君。大丈夫だったかい? 僕らの言うことがわかるだろうか?」

 少女は、一度うなずいた。

「それは良かった。君はどうしてここに?」

「わた……し?」

 そう言われ、相手の顔をよく見ようと、髪をかき上げようとして、自身の手が壁に括り付けられてないことに気が付く。

「そうだ、君の枷は外していおいだよ。扉の外に鍵が置いてあったからね」

「……なんで、ここに?」

「そうだったね。僕と彼は国の騎士団に所属していて、領主に用事があったんだよ」

「国……」

 国とは何なのか。そう思っているうちに再び青年が話し始める。

「まあこんなところで話すのもなんだ。一緒に外に出よう」

「外……?」

 青年が手を差し出す。よくわからずに少女はその手を握り返すと、そのまま体が持ち上がった。

「そうとも。もう君は自由なんだから」

「じ、ゆう……?」

「そう、自由だ」

 その言葉を最後に彼女は青年に連れられて外へと出た。

 外は、いつもと違い硝煙の臭いが立ち込め、仕事場であった屋敷からは煙が立ち込めていた。

 その近くで、見知った顔ぶれが肩を抱いて泣いている。「助かった」そんな言葉が聞こえていた。

「君の主人のオットー侯爵は悪いやつだったらしい。君たちは相当なひどい目にあったんだろうね」

「…………」

「でも、もう大丈夫だ。君たちの身の安全は国が保証するよ。きちんと、暮らしていける」

「これから君たちは、幸せになるんだ」

 その言葉が、やけに耳から離れなかった。理解も、できなかった。





 天気は晴れであった。

 広大な緑の平原に、太陽は燦々と大地を照り付ける。

 見渡す限りの緑緑緑。

 そこに、ひょっこりと顔を出す一人の少女がいた。

「あー、もう! どこに行った⁉」

 髪は黒の短髪。眉間に皺を寄せながら、表情は発した言葉通りのむすっとした不機嫌さが見て取れる。

「こうも広いと探すのも一苦労だわね……」

 そう呟きながら、少女は懐からパイプを取り出し、口にくわえる。

「こうも、草がぼうぼうだと火もつけられんか」

 草は少女の腰までたどり着いており、屈めば簡単に視界から消えることができる。

 この広大かつ、視認しにくい場所が、今日の彼女の仕事場だった。

「おおい、いるならさっさと出てきておくれ」

 口からパイプを離し、少女は叫ぶ。

 しかし、一向に気配を見当たらない。

「仕方ないか」

 そう呟き、少女はマッチを取り出して、叫ぶ。

「あー! 吹かしたいから火でもつけよーかなー! でもここ草ばっかだから火でぼーぼーになっちゃうなー!」

 がさっと、音が立つ。同時に風がなびき、草が緩やかになびく。

 その中で一つ、草が別方向になびいてる場所が一か所。

「そこだ!」

 パイプとマッチをしまって、全速力でその場所へと向かう。

「おら! 捕まえた‼」

「うにゃー‼ 放してよ放火魔‼」

 いたのは一人の小さい女の子であった。髪は金色。背丈は黒髪の少女の腰当たりしかない。

 ツインテールに結ばれ、白いワンピースを着た少女は、外見とは打って変わり、清楚さのかけらもない暴れ方をし、黒髪の少女に殴る蹴るの暴行を繰り返す。

「うるさい! 私はあんたを探してきてほしいって言われただけだ! さっさと帰るよ!」

「いーやーだー‼‼ おうち帰らないー!」

 言葉を聞かず、ぽこぽこパンチを軽く避けて腰を捕まえる。そしてそのままひょいと担ぎ上げた。

「やだやだー! 助けてー! でか女に連れ去らわれますー! 哀れな無力の私を誰か助けてー!」

「はいはい。あとは戻ってからね」

 肩に抱いたものが背中を叩く。頭上に輝く太陽を一瞥し、今日は何を食べるかゆっくり思案しながら街へと戻り始めた。



「どうもありがとうございました」

 金髪ツインテール少女を依頼主のもとまで送り届けると、依頼主である、母と思しき妙齢の女性は深々と頭を下げた。

「いえ、当然のことをしたまでです。」

 金がかかってるし、という言葉は無粋なので呑み込む。

「代金はそちらのギルドに送ってあります。今回は本当にありがとうございました」

「離せー! 私は権力に屈しないぞー!」

 隣には無理矢理頭を下げさせられている金髪ツインテールがいた。表情は手で頭を抑え込まれているため、見えないが屈辱的な表情をしているのだろう。

「……まあ、その様子じゃ今回が初めてじゃないんでしょうな。たいそうなお転婆で」

「お恥ずかしいことに……まさか街の外まで出るなんて……今回ばかりはきつくお仕置きしておきます」

「ヤメロー! 自由を我が手にー!」

「随分と語彙が豊かで。教育がいいんでしょうな」

「お恥ずかしい限りです……まだ11なんですが……」

「あたたたた! ヘッド! ヘルプ! 痛い! ヘルプ!」

 世間話もそこまでにして、少女は表に出る。ギルドに代金が支払われたので、長居をする必要もないからだ。

 外に出てから、パイプを取り出し、口にくわえてマッチで火をつける。

 口の中に煙を吸い込む。

「ゴホッ」

 吸いすぎて一度せき込む。

「あー」

 ゆっくり吸って、吐き出していく。

「家族、ねえ」

 二の句は継がず、歩き出す。一度立ち止まって背後を振り返る。

 豪勢な屋敷であった。おそらく、金髪ツインテール少女はお嬢様といったところだろう。

 良い金額がかけられていた。たかだか家出の捜索に。

「まいどありぃ、っと」

 良い金づるであった。それ以上は何も思わなかった。



「お帰りフィリス。お疲れ様」

 ギルドに戻ると、カウンターにいた男性が声をかけてくる。

 黒髪の少女―—フィリスはパイプを口にくわえてそのまま進んでカウンターの前に行く。

「来てるんでしょ、金。早く渡して」

 すると、カウンターにどんと、皮袋が置かれると同時に口からパイプが引き抜かれる。

「あっ」

「火気厳禁」

「とっくに火は消えてるよ。返してマスター」

 フィリスはパイプをマスターと呼んだ男からひったくるように奪い返す。そして、そのまま懐にしまった。

 その様子を見て、マスターは肩をすくめる。

「やれやれ、君は成人してるかしてないかの年じゃなかったっけ?」

「そんなの関係ない」

 そして皮袋を受け取ると、そのままカウンターから離れて外に出ていこうとする。

「今日はもう仕事はいいのかい?」

「いいよ。当分は食べていける金額だし」

 背後にかけられた声に振り向きもせず答える。

 ばたんと、少し強めに扉が閉められる。

「はぁ……」

 一度大きく息を吐く。

 ジャリンと、握られた皮袋から音が鳴る。

「帰るか」

 フィリスは再びパイプをくわえて、家へと戻る。

 十年。気が付けばそんなに年月が過ぎていた。

 日雇いに近い仕事を見つけては、その日を生きる暮らしを彼女は続けていた。

『王国』にもいられず、逃げるように飛び出し、それからは一人で生きている。

 あの騎士の言葉は、まだ理解できない。



「ただいまぁっと」

  我が家の扉を開けると、目の前にいつもの光景が広がる。

  物が乱雑に置かれた部屋が、フィリスの巣だ。

  その雑多な中でフィリスはゆっくりと身体を倒す。

「疲れた……」

  言葉にして吐き出す。さすがに子供の捜索は体に堪える。

 しかも、あんな大草原の中ではいくらなんでも気が滅入るというものだった。単純な脅しに引っ掛かったからよかったものの。

「あー……」

 目を閉じる。家事をしなければ。この前不可解な虫が前を横切った。この家は汚染されている。

「でもだめ。眠い」

 感覚が手足から薄れていく。瞼が重い。

 慣れたこの状態に、若干の焦りを感じつつも彼女は目を閉じた。



 人には親がいる。そう知ったのは王国に着いてからだ。

 あるものは親のもとに行き、あるものは子のもとへと戻った。

 残ったのは親のない子供と、子のない親のみ。

 そんな彼らは家族になったとかならないとか。同じ境遇を経て、絆を作り上げたとか。

 少女にはそんな機会が訪れなかった。

 少女には誰も話しかけなかった。少女も、誰も話しかけなかった

 だから、騎士団に一人拾われた。一人孤独の身では大変だろうと。

 彼女はその中でも、話すことは少なかった。話すといっても、話しかけられたときに答えるだけだが。

 ただ一度だけ、彼女から一人の騎士へ、話しかけたことがある。

 単純な疑問。当たり前すぎて誰も聞くことがなかったそれを、彼女は尋ねた。

「ねぇ、親って何なの?」



 フィリスが目覚めたのはきっかり八時間後だった。

 ぼんやりとした意識で、体を起こそうと腕を伸ばす。

「うわ」

 伸ばそうとした腕は上手く力が入らず、再びその場に転げてしまう。

「失敗失敗」

 誰もいない雑多な部屋で、一人苦笑する。

 再び彼女は腕に力をいれ、体を起こす。

 そして近くに置いてあったパイプの前まで行き、そのまま体を倒す。

「ふぃー」

 だらしなくうつ伏せのまま、パイプを口に咥えると、火もつけずにそのまま吸う。

「あー……生き返るわー」

 そう一人ごちて、パイプを口から離し、立ち上がる。

 さあ今日もやるか、そう口にしようとした時、

 ドーンドンドンドンドンドコドコドンドンドン!


 けたたましいドアのノック音が響く。

「っはぁ⁉」

 突然の騒音に思わず声が甲高く発される。

「な、な、なんだぁ⁉」

 自室と外をつなぐ木製の扉が今、太鼓か何かと間違えているほどの激しい叩かれている。

 それだけでものすごく出たくない。

(ロクでもないことは確かだ……!)

 本能は正直だ。しかし、このフィリスが根城としているのは、完全一軒家などではなく、アパートの一室を借りているだけの、大家に騒音問題で出て行けと言われたら何も言えないただの賃借人でしかない。

「ええぃ……!」

 ドーンドコドコドンドンドンドコドコ

 心なしかリズミカルになっているノックオンの手前まで行き、ゆっくりと鍵を開け、ドアノブに手を添える。

 体をドアに密着させ、鳴り続けるノックオンを体に伝えていく。

 そして思い切りよく扉を開けた!

「せいっ!」

 ゴン!

 そして、フィリスの狙い通り、けたたましい騒音を上げていた犯人の前頭部、拳に大きなダメージを与えた。

「っし! うちに何か用ですかね⁉」

 脅すようにして少し強めの口調を使って、正面にいる大敵へと視線を落とし……。

「……は?」

 そこにいたのは、小柄な体格にぴょこんと生えたツインテール。

 そして、印象的であった黄金の髪。

 視線を落としたフィリスが唖然と見つめる中、涙をためた彼女は、

「いったーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーい!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

 その日、最高の騒音と大家に怒られる原因となった声を上げた。



「んーーー。んふふふ! あまーい!」

 フィリスの巣を形成した、雑貨類の数々。その中心に置かれたテーブルの上には以前購入しておいた甘味……チョコレートがあった。

 泣く子は甘みで黙らせる……いつかの依頼で知った言葉だ。

「ねえねえ、この家にはチョコしかないの? 他にも食べたいよ!」

「馬鹿言うな」

 嗜好品というのは、いわば贅沢品。生活必需品は依頼の報酬でどうにか賄えるがそういった贅沢品は必需品の倍以上の値段がする。

 そもそも目の前の金髪ツインテールがまさに食しているチョコレートはフィリスが買ったものではない。報酬のおまけとして手に入れたものだ。

「まったく……それ食べたら帰れよ。こっちは遊んでいる余裕なんてないんだ」

 食べる気はなかったが、普段の値段を考えると、物々交換の類が可能になりそうなチョコレートを手放すのははっきり言って惜しかった。

 フィリスはパイプを口にくわえ、火をつけようとする。

「全く……どこから私の家を知ったんだお前は」

「イセラ」

「あん?」

 口に咥えたパイプが、ひったくられる。

「イセラ・トワイス。それが私の名前。人と話すときはタバコを吸っちゃダメって、言われなかった?」

「聞いたこともない―—―—返せ」

 フィリスがパイプに手を延ばそうとすると、イセラと名乗った少女は手を引っ込め、胸元に隠すようにして、見えないよう背を向ける。

「あなたに頼みがあるの。えーと……」

「…………」

「んーと、名前! 名前早く教えなさいよ!」

「……フィリス」

「ねえフィリス! 私、外を知りたいの!」

「……は?」

 取り上げようとした手が止まる。

「ちょっと待て。昨日、私が家に連れ戻したのは誰だ?」

「あなた」

「そうだろう。じゃあ、その私に、外を案内しろって言っているのはどこの誰だ?」

「私」

「ふざけるな、何とか家のお嬢さん。あんたの家族がわざわざ私みたいな奴を雇って探させたんだぞ」

 少し顔をしかめながら、伸ばした手をイセラの腕に手をやる。

「やっ!」

 するとイセラは首を戻してさらに腕と、上半身に力を籠め、丸まって抵抗をする。

「それをっ、わざわざっ! 迷子のお手伝いをっ! 私にっ! しろって⁉」

「だって、何でも屋でしょ⁉ いいじゃないこれくらい!」

「何でも屋って何だ! 私はただ仕事を紹介されたから探しに行っただけだ!」

「だって! どう考えても私を探しに来るなんて暇人じゃない!」

「はぁ⁉ お前、自分がどれくらいの値段で……」

 そこまで言って、止めた。

 わざわざ子供に、捜索の代金の話をするのがひどく馬鹿らしく、嫌に感じたのと、もう一つ。

 彼女のスカートの裾から伸びたソレに目が留まったからだ。

「……お前、それは」

 つかんでいた腕を放し、ソレを掴む。

「ひぃん!」

 すると、急にイセラは素っ頓狂な声を上げて、隠していたパイプがすり落ちていき、カタンと音を立てた。

 そして、バッとフィリスの方を向き、少し涙目になりながらにらみつける。そして、バッとフィリスの手からそれを引っ手繰る。

「これ……本物?」

 彼女のスカートの裾から、伝って太腿に、そして今イセラの手に向かって伸びた黒いソレは、

「尻尾……?」

 よく動物でよくみるソレは、手の中で身体と連動するように震えている。

「…………っ!」

 前に風の噂で聞いたことがあった。動物と動物を合成する組織があると。

 実験に、見世物に。売られていると、特に、

「お前、まさか……合成獣キメラなのか?」

 人間と獣を合わせたものは、高値で売られていると。

「見てみて! これ、美味しそう!」

 イセラは嬉しそうに、声を上げて道行く店の、一つ一つの前で立ち止まり、フィリスを呼ぶ。

 フィリスは大きく息を吐く。どうしてこうなったのかを思い返す。


 イセラ・トワイスという金髪の少女は、背部から細長い尾が生えている。

 普段は意識して隠すようにと、フィリスに依頼したであろうあの妙齢の女性……―—―—母に言われて育てられたとのことだ。

 普段から家から出ることを許されず、しかしそれでも比較的自由に過ごしていたから、あまりイセラは不満に思わなかったのだそうだ。

 しかし、成長していくに連れて、自意識が芽生えたのか、彼女の意識は家の内から外に向いた。

 知らないものを見たい。知的好奇心が彼女に行動力を与えた。

「そんなものなんかね……」

 曰く、家出はあれが初めてではなかったらしい。しかし、門の外―――—フィリスに捕まった平原に向かったのはあれが初めてだったのだそうだ。

「街の中ではいつも見つかってたのよ! 私が見て回る前に、すぐおじさんたちが捕まえちゃう」

 だから、外に出た。見つからない場所を求めて。


「ねーフィリスーこれ美味しそうだよー?」

 目の前で黒いドレス型のワンピースを着た少女は、フリフリとツインテールを揺らしながら上目遣いで見る。

「高い」

 フィリスはイセラの手を引いて一蹴した。

「ひどーい!」

 イセラの声が響くと、周りからくすくすと笑いを含んだ声が生まれ、フィリスの耳に届いた。

「…………」

 見世物にされているかのような、奇妙な感覚がフィリスを襲う。

 仕方ないのだ。どれもこれもイセラがさりげなく、しかししっかりと握りしめている物のせいだ。

「いいのぉ? このパイプ、大事なものなんでしょ?」

 キシシと、意地悪く笑うイセラ。そう、これだ。

 フィリスはパイプを返してもらう代わりに、街を案内するように約束させられたのだ。

「……これが終わったらさっさと返してよ」

「わかっていますー! 約束はきちんと守るわよー!」

 口が寂しく感じる。正直朝起きてから、碌なものも食べていない。

 しかし、無駄な出費は出来ない。生きていくには最低限度の食事しか今までしたことがない。

 今こうしてイセラを連れ立って(振り回されて)歩くこの繁華街は、本来フィリスは滅多に来ない。

 ここは、生きていくだけではあまり意味のないものしかない。

「わー、これ奇麗! ねえ、フィリス! 見てよこれ!」

 イセラが嬉しそうに、露天の品物を指さす。すると、店主がにこっと笑顔を作って、イセラに顔を向けた。

「お嬢さん、お目が高い! これはかの有名な、宝石王が所有されていた、指輪でして――」

「へえー! なんかよくわからないけど、すごそう! 欲しい!」

「そうでしょう! 今なら、これをなんと、この価格で……」

 フィリスはうんざりとする。話には聞いていたが、実際にこういう場に立ち会うのは初めてだった。

(高いし、意味が分からない。そもそも、なんで装飾品っていうのはこんなに値段が高いものばかりなの?)

「お金かー。やっぱり外はそれで取引してるんだよね。うーん……」

 イセラは少し悩んだ後、ドレスの懐を漁り始める。

「こういうはどうかな?」

 そう言って取り出したのは、金色に輝くコインであった。

「――――っ!」

 とたん、店主の目の色が変わる。それを見たフィリスも、まずいと感じた。

「興味ないです。イセラ、早くいくよ」

 フィリスはぐいと、少し強めにイセラの腕を引っ張る。

「あ、ちょっと! ま、待ってください!」

 追いすがるような露店の店主の声とともに手を伸びてくる。しかし、それよりも早くフィリスは早歩きで抜ける。

「ちょ、ちょっと! なんなのよフィリス!」

 イセラが少し戸惑ったように声をあげながら、引っ張っているフィリスの腕を掴んだ。

「――――。」

 しかしフィリスは、それを気にも留めず、引っ張って、路地裏に入った。

「ちょっと、放してよ!」

 入ったと同時に立ち止まったフィリスの手を、ようやく振り払う。

「…………。」

 そこでようやく、フィリスは振り返った。少し、困惑したような、あきれて表情で。

「お嬢さん、別に私はどうだっていいんだが、これを知っているか?」

 フィリスはポケットを漁り、取り出したのは、銅貨であった。

「? 初めて見るものねそれ」

「…………。」

 フィリスはため息がつきたくなる。現状取引されている、一番低い価値の貨幣だ。

 それを知らないと。そして、彼女が出した金貨は……。

「外に出なさすぎるのも考え物だ。私の報酬より高いのに……」

 愚痴がこぼれる。世間知らずのお嬢さんの相手は想像以上に恐ろしいものなのだと実感する。

「――――あ」

 不意に、手から銅貨が零れ落ちた。

「? 落ちたわよフィリス」

 イセラが、落ちた銅貨を拾い上げる。

「はい」

 そのままフィリスに向かって差し出す。

「――――いや、いい。それはそのまま持ってな」

 フィリスは苦笑いを浮かべる。

「え! いいの⁉ こんな珍しいものだろうに!」

「別に。それよりも、もういいだろう? 早く、パイプを返してくれないか?」

 フィリスは先ほど硬貨を掴んだ手とは、反対の手を差し出す。

 しかしフィリスは不満げな表情でフィリスを見やった。

「いやよ! まだ足りないわ! もっと、もっと楽しみたいの!」

「……そうか」

 差し出した手を下ろす。少し指が震えた。口が寂しい。

 そこで、ようやく気が付いた。

「お嬢さん、そのスカート……」

「えっ? ……きゃあ!」

 どこかで引っ掛けたのか、イセラのスカートの裾が破け、隙間から下着がちらついていた。

「や、ヤダヤダ! 恥ずかしい! 見られたくない!」

「落ち着け! とりあえず私の部屋に戻って――」

 そこでようやく気が付く。イセラのスカートの隙間から覗くモノに。

「……尻尾」

 言葉にしてようやく気が付く。そして急いで周囲を確認する。

 人の姿をした獣。人類の、神秘への冒涜の結晶。成りそこない。

 ギルドでも時折目にしていた。研究施設から逃げ出した獣探し。獣狩り。

 合成獣は、狙われているのだ。

「早く何かで……!」

 が、すでに遅かった。判断が甘かったのか、人気のない路地裏にわざわざ自分たちで向かったことも行けなかった。

「……何か、御用で?」

 見知らぬ男たちが、フィリスたちの退路を囲んでいた。



 フィリスは焦りを抑えながら、周りを観察する。

 自分より体格の良い男が三人。着ている物はお世辞でも清潔とは言い難い、ところどころ破れているシャツに布のズボン。

「御用って、わかってんだろぉ?」

 一人が口を開く。ねっとりとした、歓喜を抑える声。

「お前の連れている、それに用事があるんだよぉ」

 まっすぐと、イセラのほうを指さす。

 ひっ、とフィリスの後方から小さく悲鳴が聞こえた。

「合成獣。どっかの研究所から逃げ出したと言われている、人外生物バケモノ。このあたりで、知らない奴はいない。見つけて捕獲すれば一攫千金だ」

 つーっ、と男の指が動き、イセラの腰の位置、先ほどフィリスが気付いた尻尾の方へと指をさす。

「見えてたんだよなぁ、その尻尾。ヒトが生やすようなものじゃねえ」

「……さぁ? 作り物かもよ? 合成獣なんて、そうそういるもんじゃないし」

「おいおい、独り占めかヨォ? どうせこの後に売り飛ばしにでも行こうとしてたんだろぉ」

「……フィリス?」

 疑惑の目が、フィリスに向いた。

 一度フィリスはイセラを見て、ため息をつく。

「……やれやれ、お見通しか。ほれ」

 言って、一歩。フィリスは後ろへと下がる。

「本当はパイプを回収してからとっととおさらばしたかったんだがな」

「えっ、えっ。どういう……」

「この女はさあ、さいっしょから、そうするつもりだったんだヨォ、おじょーちゃん!」

 一歩、一歩と男たちがイセラに詰め寄っていく。

「お前はな、大切な大切な"お宝"なんだよ」

 血色のいい肌からから、血の気が引いていく。

 イセラはようやく、自分がどういう立場にいるのかを理解した。

「いっ……いや! ヤダ! ここで終わりなんていや!」

「終わりじゃねーさ。運がよければな」

 男たちの間を、イセラは割って入るように、飛び出し逃げ出そうとする。しかし、体格が二倍も近いほどの男たちの手にかかれば、あっさりと捕まってしまった。

 フィリスは何もせず、ただじっとその様子を見つめていた。

「放せっ、放せ!!」

 暴れるイセラを無理やり男たちは抑え込む。

「っと。子供に乱暴した大人って、いうのは心証が悪いか?」

「どうせ裸にすりゃ、こいつがヒトじゃないってわかるんだ。単なる金づるだよ」

 口々に、冷酷な言葉がイセラに浴びせられる。

「違う……私は、私は……」

「単なる化け物だよ。出来損ないが」

 吐き捨てるように言われ、男の一人に担がれる。

 先ほどまで、活発に動いていたはずの腕は、だらんと垂れ下がる。

「化け物とはいえ、単なる餓鬼だな。ホント」

「フィ……リ」

 力ないまなざしが、フィリスの方へと向けられる。

「やれやれ、私への分け前は無いみたいだな」

 淡々と、顔色一つ変えずにフィリスは言った。

 その表情に、温度に、気持ちが反転していく。

 なぜ。どうして。ただ知りたかっただけなのに。自分の足で確かめてみたかっただけなのに。

「だが、流石に借り物は返してもらうぞ。その子供のポケットにパイプがある。それは私に返してくれないか」

 男の手が、懐をまさぐる。他人に自由意思を奪われ、漁られる。

 気持ちが悪く、ひどく不快な気持ちが生まれる。

「これか?」

 少しして、男がフィリスに見えるように少し高く掲げる。

「おいおい、そんな年でタバコかぁ? 草なんていっちょ前に吹かしてヨォ」

「ああ。私が生きていられる理由だよ。生命線だ」

 ゆらりと、フィリスの体が揺れる。

「なかなか、それがないと調子が悪くてね」

「そーかい」

 カラカラと、乾いた笑い声をあげて、一人男がパイプを持って近づく。

「ほら、よ!!」

 そして、パイプを握りしめた手で、そのままフィリスの腹部を殴りつけた。

 ドッという鈍い音が、フィリスの内部からした。

「…………」

 フィリスの体が衝撃によって後方に跳ねる。そして、仰向けのままそのまま倒れこんだ。

「っ! フィリス!」

 反射的に、イセラの淀んだ思考を視界が押しのけて、叫びが声から漏れる。

 フィリスは動かない。

「黙ってそのまま逃がすと思ったカァ? おめぇには少しおとなしくしててもらうに決まってんだヨォ」

 そう言って、笑い声をあげながら男はしゃがみ込み、フィリスの服に手をやり、胸元をはだけさせた。

 フィリスは動かない。苦し気な声も上げない。ただ、その眼差しはじっと男の方を見ていた。

「けっ、こんな貧相な体じゃ、おもしろくもなんともねえな。っと、あったな。これか」

 つまらなそうな表情をしながらも、男の物色は一つのポーチを見つけたところで終わりを告げた。

 中には、茶色に乾燥した草が詰まっていた。

「んー、独特な匂いだな。どれどれ」

 男はフィリスの体を放って、立ち上がり、少量の草をパイプに詰めてマッチで火をつける。

「あー、なんだこりゃ。変な味だ」

 男はパイプを口にくわえ、少し渋い顔をする。一度大きく息吸って、煙にしてフィリスの顔に吐き出し、そのままフィリスのもとを離れていく。


 イセラを捕まえている男二人は、そんな二人の様子を半笑いで見つめていた。

「なんだよ、そんな変な味なのか?」

「味っつーか、なんつうか。甘いような、苦いような?」

「つうか、くせえんだよ。なんだよその煙ったさは、俺たちに向かって吹くんじゃねえ……そんなのが旨いとか思っている奴の気が知れねえ」

「まあ、その通りだわ。ま、けどせっかくだし、俺たちがもらっといてやるよ。お前はさっきの匂いで我慢しておけ。ほかにも、使い道はあるんだから……」

 そこで、パイプを吸っていた男が立ち止まった。そして、自分の手を覗き込むようにして見やる。

「アァ……?」

 次に足元を見た。正確には、自身に感じた足裏の違和感を探るために。

 そして、それは唐突に訪れた。

「アァ? …………アァァアア"ッッ!!!」

 突如男の体が左右に揺れたかと思うと、そのまま地面に転がり始める。そして、自分を抱きしめるかのように腕をクロスして全身に爪を立てる。

「なんだなんだなんだなんだこれなんだこれ。足が脚が足が脚が指、指爪、痛い痛い痛い痛い。いやだいやだいやだ気持ち悪い気持ち悪い」

 握りしめていたパイプを放り出し、ただひたすらに体のすべてを引っ掻いていく。

「なんでこんなの着てるんだよこすれて気持ちが悪いんだよなんだよこれなんだよこれ痛い気持ち悪い痛い痛い痛い痛い痛い」

 かきむしるかきむしる。皮膚から血が出た後も、その傷口に指を突っ込むようにして、ひたすらこすり続ける。

 やがて、白目をむいて叫びをあげようと口を大きく開く。しかし、その声すら、言葉にならなかったのか、かすれた喘ぎが漏れ出ていく。

 それは、周りの男たちにも伝播していた。二人の男たちは各々、肌を地面にこすりつけたり、頭をかきむしったりしている。

 担ぎ上げられていたイセラは当然、放り出されるようにして、地面に落とされていた。

 しかし痛みはない。ただ、今起こったこの様子と、先ほどまでの感情が入交じり、ただ壁際へと急いで張り付いた。

 ぐちゃぐちゃとした思考はひたすらここから逃げ出すための方法を繋げられず、ただそこで立ち往生をする。

「……さっさと私に返さないからそうなるんだ」

 そこに、一人の少女が来た。先ほどまで、倒れていた少女。侮蔑めいた、冷淡に男たちを見下ろす彼女。

 フィリスであった。地面を転がっていたパイプを拾い上げ、火をつける。

 ゆっくりと吸い、煙を吐き出す。

「おおおおおおおまえええええええええななななんでででででででえええええぇぇぇぇ」

 狂乱と畏怖の混じる表情が、フィリスを見上げる。

「何のことはない。私には、あまり感覚がないだけだ」

 パイプの中で燃える草がなければ、香りがなければ。研ぎ澄まされていく感覚がなければ。

「私は、単なる薬物中毒者ジャンキーだ」 



 半狂乱になっている男たちを尻目に、フィリスはゆっくりと、イセラの方を向く。

「そこまでだ」

 そこへ、路地裏に武装をした男たちが入ってきた。

 集団は一瞬でフィリスを囲み、二名ほどがイセラのもとに駆け寄り、タオルケットで体を包む。

 フィリスはそれを確認し、はっ、と一度大きく声を上げる。

「まあ、そりゃそうか。そうだよなぁ、本当に、大事にされてるんだ」

 イセラが男たちに連れ添われ、連れていかれる。不安と、恐怖が入り混じった目で、フィリスを見つめながら。

 残りはイセラを取り囲み、腰に付けた鞘から抜身の剣をイセラへと向ける。

「鼻、口を塞げ。あの煙は感覚を鋭くさせる」

 集団は、剣を向けたまますぐに布で口と鼻を塞ぐ。

「……そんなことしなくていい。私は従うし、これはもう今は十分だ」

 嘆息する。パイプを地面に向けて、残り香を落とす。そして、そのままそれを靴ですりつぶした。



 フィリスが連れてこられたのは、先日来た屋敷であった。

「昨日ぶりですね」

 玄関先でフィリスを待っていたのは、イセラ捜索に大金を積んだあの女性だった。

「どうも。この度はご迷惑をおかけしております」

 軽く会釈をする。彼女は無言でフィリスを奥へと案内した。


 広い空間のなかに、ソファが対面になるよう二つ。座るよう勧められフィリスは腰を下ろす。

 依頼主の女性は、自身も腰を掛けたところで、口を開いた。

「あの子のこと……知ったのですね」

「えぇ、まあ」

 今ならば、イセラの捜索になぜ大金を積んだかがわかる。

「どうせあなたのことだ、今回逃げ出したのだってすぐわかったのでしょう。」

 子供の発想では、この人から逃れることはきっとできない。

 きっと、あの日自分が探しに行かなくても、きっとすぐにイセラは誰かの手で連れ戻されていた。そんな確信がある。

「あの街は……この世界は、とても危険な場所です。あの子にとって。きっと、そもそも生まれたことすら間違いなのでしょう」

「…………」

「あの子の真実を知れば、血眼になって探すでしょう。たとえ他の人を押しのけても。不幸にしたとしても」

「不幸……」

「フィリスさん、あなた数年前にこちらへ流れてきた移民の方ですね?」

 意地の悪い、笑みを口元に浮かべ。しかしその目は笑っていない。

 知っているという事実を聞かせたかったのだと、フィリスは理解する。

「過敏草というのは昔、子供を求めた男女が芳香として使うそうです。しかし、効果はご存じの通り。当然それはフレーバーとして使うものではない」

 凶悪なものだと彼女は言う。

「そんなものを常駐的に使っているあなたは、異常だと言っても過言ではない。ですね?」

「…………えぇ。そうですね」

「恐らく、そのフィリスという名も偽名でしょう? そのご様子だと、随分と悪さをされていたと思うのですが」

「悪さ、ですか。まあ、そうなんですかね」

 フィリスは息を吐く。

「名前なんて、必要だからつけたものです。使う予定がなければ、名乗りなんて、そもそも意味がないものですから」

 男か、女か。屈強そうか、ひ弱そうか。視覚から理解する情報があれば大抵は何とかなる。

 人を認識するための、カテゴライズは名詞でなくともよい。

 イセラと名乗っていた彼女は、名前をしつこく聞いてきたが、それはあまり意味のないものであった。

 自分にとってはお嬢さん、で事足りてしまうのだから。

「そうですか……そうですね」

 少しだけ、目の前の女性の眉が下りたように見える。

「……あなたには、二つの選択肢を用意しています。一つは全てを忘れ、なかったこととする。もう一つは、」

 そこで彼女は大きく息を吸った。が、そこから先をためらっているのか、言葉はない。

「……一つ、聞きたいことがあるのですが」

「……どうぞ、フィリスさん」

 少し名前を強調したように、返答される。

「それは……あなたがあの子の……親、だからやるのでしょうか?」

 それは、いつかの誰かに尋ねた言葉。

「親っていうのは、そういうことをやる人のことを言うんですか?」

 その言葉に、彼女は少し驚いた様子を見せた後、ああ、と言葉の意味を解した。

「私とイセラは、そもそも親子ではありません」

「親子じゃ、ない?」

 はい、と彼女が頷く。

「そもそも、彼女が生まれたのは、この街ではなく、遠い、遠い施設です。一つの、とある実験に使われた施設」

 生き物と植物の特性を受け継ぐ、特別な生き物を作ろうとしていたという。

「それがあなた方の言う合成獣です。特にイセラは普通の人とは、違う。」

「尻尾のことでしょうか」

「それは特徴の一つにすぎません。彼女は、外部の刺激を打ち消すことが出来ます」

 例えばそれは、口から入った毒が、皮膚に触れただけで刺激を起こす液体が、体の中に入れた煙が。

「フィリスさんの嗜好品も、彼女には効きません。」

「それは……」

「ですが、それは逆に欠点にもなり得ます。彼女が傷を負った際、薬は使うことは出来ません」

 一度、イセラはひどい怪我を負ったことがあった。しかし、研究員たちが使った薬の効き目は全く見えず、自然治癒に任せるしかなかったそうだ。

「イセラのデメリットは大きいものでした。しかし、彼女のことを念入りに調べて、それを乗り越えれば、確かに彼女は誰かを助けることが出来るはずです。しかし、」

 一度、女性は大きく息を吐く。

「その時、私は気づきました。こんな、ヒトの為に彼女が犠牲になっていいものではないと。イセラの……あの子の命は、私たちが保護していかなければいけないと。だから……この街を作り上げました」

 傷つかないように、傷つけられないように。

「私は、"私たち"はその為にならなんだってやります」

 庇護されるものだから。それは、この状況を作り出した、償いのために。

「……それは、私が知っているものです」

 小さく、けれども確かに。吐き捨てる。

「大丈夫です。私は、お嬢さんのことは誰にも言いませんよ。私はあの子が路地裏で困っていたからたまたま近寄っただけです。たまたま、お節介を焼いただけだ」

「……そうですね。そして、私はあなたにお礼を言うために呼んだ。ですね?」

「そーですよ。それで、これで終わりですかね?」

 切り上げるようにフィリスは立ち上がる。これ以上は何も為にならない。そう判断をした。

「あいにくですが、一銭も金にならないようですし、ここらで失礼します」

「正直ですね。貴方はこの街にいる限り、どこにいても狙われますよ」

「どうぞご勝手に。誰にも言いやしませんよ。私は、ただのらりくらり目立たずに生きていくだけですので」

「…………」

 パイプを懐から取り出す。

「ああ、そうだ。どこかフレーバーの買えるいい場所はないですかね。多分、そろそろ今買っている場所は使えなくなりそうなので」

「そんな、中毒者の意見を私が聞くとでも思います?」

「ですよね。でもそれくらいのお礼は欲しいものですが」

「……考えておきます」

「ありがとうございます」

 そう言って、フィリスは背を向ける。

「一つ聞いてもいいですか、フィリスさん」

 フィリスは足を止めない。

「あなたは、若いのにそんな風になって……何がしたいんですか」

「何がしたいって」

 フィリスは振り返らない。

「知りたいだけですよ。」

 広間を抜け、入り口に向かう角を曲がる。一度、女性と、その隅にいつの間にかいたイセラが、視界をよぎった。

「ただ、幸せというのを」

 すぐに、二人の姿は消えた。




「親というのは、あなたを育ててくれる人たちのことです」

「ヒト……?」

「そう、あなたがここにいて、立って、生きていることを実感させてくれる人のことです。親は、子供のためならなんだってしてあげてもいいと思います」

「どうして」

「それは、あなたが生きているだけで幸せだからなんですよ。あなたは、幸せの結晶なんです。」

 では、その親というのがいなければ。

「それが家族です。家族は、一緒に幸せになるために、出来たんです」

 家族がいなければ。

「だから、あなたもいつか幸せを誰かに与えられることが出来るようになるはずですよ。そうやって、僕たちは続いていくんだ」

 幸せを知らないのであれば、どうやって与えるというのだ。




 外に出て少し離れたところでパイプに火をつける。

「ふぅ」

 脱力しかかっていた体に、活力がみなぎっていくような感覚を感じる。

 しかし、不思議と中身は胡乱な状態が続いているように思えた。

「…………やれやれ、せっかく生活に慣れてきたのになあ」

 口で大きく煙を吸い込み、吐き出す。煙はそのまま空へと昇っていく。

「なんだかなあ」

 煙を撒いた空は、青々と澄み渡っていた。傍らには太陽がさんさんと輝く。その手をゆっくりと光の方へかざす。

 そして、一度掴んでみせた。何の感触もない、ただ虚空を掴んだだけ。

「難しいなあ」

 そう独りごちた。




「なぜいる」

 それはイセラの屋敷に行った、二日後の朝であった。

「ふふふー。なぜでしょー?」

 借りていたフィリスの部屋がけたたましくノックされ、しぶしぶ出た先には、金髪ツインテールの、いかにもお嬢様な雰囲気の女の子がいた。

「……もっと監視を増やせ」

「そんなことしても、私はあなたのところに来たわよ!」

 一度にっ、と笑みを浮かべるイセラ。

「もう一度会いたかったの。あの時は、何も言えなかったから」

「ああ……私は二度と会わなくてよかったんだけど」

「そうはいかないわよ! ……ねえフィリス、助けてありがとう!」

 屈託なく、彼女はそう言う。

「…………別に、私がいなくてもどうとでもなったさ」

「そんなことないわ! 確かにいろいろ文句も言いたいけど、でも私は確かにあなたに助けられたの。だから、ありがとうフィリス」

「…………」

 フィリスは顔をそむける。

「あっ、照れてるー。かわいいー」

「照れとか、そうじゃない」

 ただ、どんな表情をすればいいのかわからないのだ。お礼なんて、初めてだし。

「それより、お前。」

「イセラ」

「お嬢さん、さっさとお屋敷に」

「イセラ」

「早く帰ったほうが」

「イセラ」

「……」

「名前、ちゃんと呼んでよ。一回も呼んだことないでしょ?」

「…………イセラ」

「うん、よろしい!」

 そう言うとイセラは大きくうなずいて、背伸びをしてフィリスの頭をなでる。

「よくできました!」

「あのな」

「きちんとうまくできたら、褒める! それが大事なんだって!」

 そう言って、フィリスの頭を優しくなでる。

「ちょっと、少しはかがんでくれてもいいじゃない」

「嫌だ……おい、もういいだろう。帰ってくれ」

「嫌よ! まだ来たばっかりじゃない!」

 ぶんぶんと首を振るイセラ。しかしすぐにやめる。

「目が回る」

 フィリスの口からため息が漏れた。

「まだフィリスにお願いしていることは終わってないわよ!」

 ビッと、頭をなでていた手を戻してフィリスの顔を指さす。

「あ、行儀悪いんだった!」

 すぐに下ろす。

「とにかく、私はまだフィリスにこの街を案内してもらってないの!」

「いや、別にいいだろう。もう私、パイプ持ってるし」

「ちゃんと! 他のを準備したわよ!!」

 キンキンと大きい声でしゃべるイセラに、フィリスは家主にまた文句を言われるのではないかと思い始める。

「わかった、わかったから少し声を小さく」

「幸せ‼」

 今までで一番大きい声だった。

「は?」

「フィリス、幸せを探しているんでしょ? だから、私が一緒に見つけてあげる!」

「いやなぜそうなる。別に私は探しているんじゃなくてだな、知りたいだけなんだが」

「知りたいのも探したいのも一緒だよ! そう、幸せはどこにでもある! 美味しいものを食べたり、新しいものを見たり、わくわくするのが、幸せなの!」

「……そう、なの?」

「そう! だから、早くいくよ! そろそろ見つかっちゃう!」

「は? えっ」

 引っ張られたフィリスは、とっさにパイプだけ掴んで部屋を出る。

 そのままイセラはフィリスの手を引いて外へ向かう。、

「いたぞ! 早くお帰りください! 転んだらどうするんですか!」

 背後から男の大声が聞こえる。先日にも聞いた声。

「おい、これじゃあまた呼び出しを食らうんだが」

「いいよ! 今度はちゃんと、私が話してあげるから! 私が依頼したのって!」

 走りながらそう叫ぶ。スカートの下からは、チロチロと尾が見え隠れする。

「お母さんはきっとダメって言う! でも、私は止められない! だから、止まらないの‼」

「いや、止まったほうが」

「"ここ"にいるんだもの! 私は、まだ何もしていない! だから、何かをしないと‼」

 それは、訴えであったのかもしれない。イセラの籠は、すでに彼女には小さすぎた。

「だから、見つけるのよフィリス! 私たち、二人で!」

「はぁ⁉」

 何を言っているんだこの子は。しかし、もう声が頭に追いつかない状態になっていたフィリスはひたすら引っ張られ続ける。

「きっと見つかるよ! あなたの幸せ! 私の幸せ!」

 誰かに決められたものではない、幸福の形を。

「だから、行くよ!」

 ぐんと、一気に掴む力が強くなる。そして、スピードが上がる。どこにそんな力があるのかわからない。いや、そもそも人ではなかったか。

 そんなことを思いつつ、フィリスは走らされ続ける。

 音が鳴る。声が響く。

 想像を絶する行動を実行する、お嬢さん……イセラに、一度胸の高鳴りを感じた。


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