第二話【この街の話】
非日常的な光景。猫が一匹迷い込んだのとは話が違う、文字通りの緊急事態。ディフがデパートに現れた事自体は珍しい事でこそあれ大した事じゃない。問題はその大きさと、近似の姿のディフを見たことがないと言う一点。のしのしと大きな体を揺らしながら、その四足歩行のソレは階段から姿を現したのだろうか、天井に穴も開いていないあたり落ちて来た訳では無さそうだ。案外僕達同じ様にエレベーターで下りてきたか、上ってきたかもしれない。辺りの人影は彼に気付いて直ぐに別の階段なりで避難しただろうか、姿も声も確認出来ない。
視界に突然入ってきた黒髪に、僕はつい苦い顔をする。背も僕とそう変わらない華奢な少年。子供の頃からの親友が、ソラが立ちはだかる様に僕の前へ躍り出た。それはとても勇気ある事で、僕の親友達は平気な顔で当然の事としてやってのけるのだけれど……
「とりあえず、刺激しない様にゆっくり離れよう」
ソラはそう耳打ちする。彼のこの行動はとても嬉しいし、かっこいいと思う。かっこいいと思うのだから、僕としては“する”側に立ちたいのだ。僕は木下・エリエス・ルード。エルと呼んでくれる妙にヒロイック過ぎる親友達、アツキとソラに守られてばかりのチビ。もしかするとそういった評価を既に下されているのでは、とここ数年で抱き始めた十五歳である。
ふと頭上から女性の声が流れ出す。成る程的確だろう、避難アナウンスだった。二階に、つまり今僕たちの目の前に大型のディフが現れた、と。当事者はアナウンスに耳を傾けているかの様で、まるで象のような長い鼻に太い四肢の癖して、本当に傾けているのか判別致しかねる耳の無い単眼の異形。正面に一つ、飛び出るのではなく窪んだ眼孔の内でギョロギョロと動く真っ黒な瞳を見るに、視覚ではなく聴覚、嗅覚で周囲を感知することに長けているのだろう。尤も単眼であることのメリットは皆目見当もつかないが。
「……っ! やべ……」
注意を引きつけていたアナウンスも途絶え、頭とも胴体とも区別のつかない太い首をもたげ、周囲を伺い始めた。僕たちは間に合わなかった、と言うべきなのだろう。ディフは確実にこちらを視界に捉え、遂に体ごと相対する形となった。
流石に危ういとソラも感じたか、手を背中に回して指を三本立ててみせる。一本、また一本と指を折り、最後に拳が握られると僕もソラも踵を返して走り出した。
ディフは……どうやら追ってくる。それも速い。ハンガーラックや特売ワゴンの間を縫うように走り抜け、中央階段の手前にある一番太い柱を越えた。越えた所で僕たちはまた急転回して大回りに最初に下りてきたエレベーター横の階段を目指した。
「クソッ……⁉︎」
ディフは一頭では無かった。単眼の耳なし象のディフとは別に、はっきりと確認こそしなかったがもう少し小さい、人型か或いは猿のような長い手足で階段を上っている姿を捉えた。アレがこちらに気付いているかどうかも分からない以上兎に角走る他ない。幸い一頭目は僕たちを見失ったか、少し遠くで辺りを見回している。
そこからは……いや、それまでもそうなのだが必死に走った。走って走って、駆け下りて。
出口付近で僕たちはまた象型のディフと遭遇した。
「さっきの……いやさっきのよりデカイ……!」
二階で見たディフが仔象ならコレは親象か。一目散に走ってきて、特に隠れる場所もない食料品売り場の玄関前エントランスに奴は陣取ってこちらを伺っている。反対側、西玄関から出ようにも先ほどまでと違ってもう身を隠せるほど高い障害物は多くない。仔象の足の速さを考えるとまず逃げ切れない。つまり背を向けず正面から突破しなければならず、ただ突破したとしてデパートの外まで追って来ないとも限らない。
「…………はぁ……まあしょうがないよな」
観念したようにソラは嫌そうな顔をこちらへと向ける。ソラには申し訳ないけれど僕にとって……きっと僕やアツキにとってこんな展開は願ったり叶ったりだ。
「じゃあ……退いてもらおうか!」
外では少し遠いがサイレンが聞こえる。この世界に突如現れた謎の異形達、外生命体。それらは時にペットとして、時にゲテモノ料理として、そして外敵として然るべき対処をされてきた。小さく無害で人懐っこいまるで犬のようなディフには首輪を着けて。どう見ても全身触手、タコから生き物らしさを剥ぎ取って緑とも紫ともつかぬ色に染めたディフはごま油で炒めチリソースを付けて。そして人に襲いかかる獣のようなその異形には、かつてこの世界で“魔術や超能力と呼んだ人間の力”で。
「よーし、頭下げて! いくよソラ!」
空を翔ける青白い一筋の雷電。この世界において“魔法”とは即ち“魔に関する法律”つまりディフをどうこうする事と。
「ッッ⁉︎ 待てエル! それはやり過——」
ディフさえどうこう出来る“かつて特異だった現代の当たり前”の取り扱いについての取り決めの事である。
国立外生命総合大学、及び同附属高等学校。僕たちの通うこの学校は、ディフとディフの発生源である月と地球の中点についての研究と、現代の人々に須らく受け入れられている特異だった能力を制御、行使してディフの対処を行う為の訓練を行う“対ディフ専門”の学校である。そしてそんな学校の職員室で、一人は課題の不備、また一人は過剰な能力の行使、また一人は監督不届き行きによって説教を食らっているのが、僕と二人の親友達である。
これはこの世界の人々が送る非日常的な日常の、ほんの僕たちから見た小さな小さな物語である。
…………因みに今回デパートの被害は一階部分の冷蔵、冷凍庫半分と玄関の自動ドア及びガラス類の大半、それから入り口に配置されていたカートやカゴを始め大量の備品の電気的破壊と焼灼。総被害額は数百万だったそうだ…………