*第七話*
一度会社の同僚との間で起きた不快な出来事を思い出した。その相手の女性は30代半ばの既婚の身であり、3歳になる息子がいた。彼女はおっとりとしていて和風の美人で人当たりがいい申し分のない女性だった。この年代の女性にありがちなとげとげしさがまったく見られなかった。新聞社という荒っぽい現場には不似合いなほど上品な雰囲気を持っていた。さらに大人しい気性で誰に対しても優しく差別をしなかった。ある日、その彼女と幼稚園に通い始めたばかりの息子の話をしていた。エンリケ氏が『今は子供さんのことが可愛くてしかたないでしょう? 』と尋ねると彼女は頬を赤らめて控えめに喜んだ。
「四六時中、子供の写真を見ていないと気持ちが落ち着かないんですよ」
彼女は財布に入れてある写真を差し出してそう言った。そこでやめておけばよかったのだが、エンリケ氏は調子に乗ってしまい、思わず、「次のお子さんをまだ産まないんですか?」と尋ねてしまった。彼女は突然放たれたセクハラまがいの発言に驚き、身をこわばらせ目にはうっすらと涙を浮かべて返事をしなかった。助け舟を出す同僚もいなかった。その場が凍りついたのは言うまでもない。エンリケ氏はそれからしばらくの間、職場で変人扱いされることになった。しかし、彼の常識ではこれは仕方のないことで、土星では子供を産む行為というのは、地球のように極まった愛情や痴情をともなう重々しいことではなく、別に愛し合うという感情も必要なく、誰とでも、通りすがりの人とでも、そういう行為に及ぶことができるため、レンタルビデオ店でアダルトビデオを借りるくらいの勇気があれば誰にでも子供が作れるのだ。地球人のように妊娠を恋愛活動の延長だとは、性的興奮の行き着く先だとは、そもそも誰も思っていないのである。女性の妊娠についても地球人のようなハレンチな行動を必要とせず、男女の頭についている二本の触覚を互いにこすり合わせることで女性側の生殖器は胎児することになる。土星では出会った人に多少の興味さえあれば誰でも恥ずかしがらずに道端でそれをやっているのである。街の喫茶店で出会ったイケメンと気軽に挨拶した5分後には妊娠していた女性もいる。避妊について学校で教えられることもない。自己責任だが、別に本人の名声にとってマイナスになるわけでもない。ひどい例になると、お互いに知り合いでも何でもないのに、交差点で信号待ちをしているときに、ちょっと身体がよろけた拍子に隣にいた中年の女性の触覚と触れ合ってしまい、それで妊娠に至ることもある。もちろん、その場で妊娠に気がついても、特別な驚きはない。お互いに少し残念そうな、あるいは面倒そうな顔をして「ああ、子供が産まれてしまうね」と呟くだけでそれっきりの関係である。女性は病院に通うこともなく、産婆を雇うこともなく、二ヶ月もすれば子宮から子供を生み出すが、それだって何の痛みもなく、何の感動もない出産である。男性側にも法的には何の責任もない。地球人でいえば排便くらいの行為である。子供は産み出されてから2分もすればてくてくと歩き出す。5分もすれば自我が芽生え、10分も側に置いておけば、やがてうんちくを語り出す。
「やれやれ、この家には召使いもいないようだ。ひどい家庭に生まれちまったな。おいおい、最初のミルクは誰が温めてくれるんだ?」
もちろん、こんな調子で次々と産み出されてくるため、産んだ女性に我が子を育てる義務などない。極端な例になると、女性は出産の5分後には赤ちゃんの顔も確認せずにそのまま出勤してしまい、子供の方も1時間もすれば勝手に歩き出し、自分で立ち上がって冷蔵庫を開け、食事を作って食べると大きなゲップをしてドタドタと玄関から出て行ってしまい、そのまま社会に溶け込んでいってしまい、二度と親子として会わないこともある。土星では誰かと血が繋がっているということに特別な親愛の感情は生まれないのだ。生みの母も、すれ違っただけの女性も価値は一緒である。目に映るすべての人間に等しく価値がある。こう言うと、土星という星が次々と生まれくる人間で溢れかえっているような印象を受けるかもしれないが、地球と違って生殖活動自体にさしたる魅力もないため、これほど簡単に新しい命が産まれてしまっても、総人口はさほど増えていない。自分の子供に愛情を持てないため、出産という行為にそれほどの魅力を感じられないのである。せいぜい、気になった異性とのやり取りの後、その記念に子供を作る若者がいるくらいである。土星人の寿命は長くても50年ほどで、地球人の半分ほどしかないこともその一因である。それも地球人のように少しずつ肉体が衰えてから草木が枯れるようにゆっくりと亡くなるのではなく、数分前まで狂喜乱舞して絶好調な状態であっても、寿命を迎えると同時にぱたんと倒れ伏して、まるで電池がきれたオモチャのように、そのまま一言も発せずにこと切れる。遺体も腐ったりはせず、15分も放っておけば自然に溶け出して土に帰っていくため、後の処理もいらない。後には、服と靴の切れ端だけが残される。生命の価値が薄く、サイクルが早いため、道端で人が死んでいくのを見ても哀しむ者はいない。病院も存在しない。怪我や病気は自分や身の回りの人間の医術で治せるかどうかの問題である。手がつけられないような重い病気にかかっても、末期癌が判明した地球人のように大騒ぎしない。土に帰るタイミングが他の人より早くなったとそう思うだけである。自分が消えてもこの街のどこかで新しい魂が生まれている。個人の意識というものに価値を見いだせない種族なのだ。以前に顔を合わせたはずの人たちも病気や事故で次々と消えて行く。葬式も通夜も行われないため、それを知ることは出来ないが、思い出だけは地球人と同じように貯まっていく。自分を世話してくれた人、窮地から救ってくれた人を忘れはしない。ところが、死んだ人が土に帰っていくところを自分で見ていない限り、誰がいつ死んだかもわからない。新聞の死亡欄に氏名と死因が掲載されるわけではない。朝食で隣の席に座っていた人が昼食には現れないかもしれない。帰宅途中に心臓麻痺を起こしていて、すでに地面に帰っているかもしれない。消えたのが知り合いであれば寂しいという概念はある。
『そういえば、最近あの人と会わないな。自分の知らないうちに土に返ったのかもしれないな』
地球で道端に落ちている蝉の遺体に誰も関心を払わないように、土星人の遺体も日常の風景の一部であり、誰も気に留めることはない。元々の生命の価値がそんなものであるため、土星では事故や事件にも関心が払われることはない。道端で通勤途中に誰かを轢き殺しても、気に入った娘さんを家に連れ帰っても自由である。そもそも犯罪という概念も存在しない。他人という存在のことを深く重く考えている人間がいないからである。自分と関わりのない他人は人格を持たない風景の一部である。さえずる野鳥や風に揺らぐ木々と同じである。そういう穏やかな風景を関心を持って描き留める画家が存在するように、そこに感動を見出す人もいるが、大多数の人間は他人の風貌には興味を持っていない。ほとんどの土星人にとっては自分の行動と欲求がすべてである。
「あの行為をやりたいけど、(勇気、財産、友人、時間、地位)がないからできないな」
多くの地球人はそう呟いて二の足を踏む。だが、土星人にはそういう抑止力はない。自分がやりたいことを遂行していくことの積み重ね、それが人生であると思っている。地球でなら、何をするにも他人の協力を得るか、あるいは障害を権力や金の力で強引に押しのけて進む必要があるが、土星では他人に対してそこまでの配慮を持っていないため、他人の思惑や行動は自分の行動の障害にはならない。他人の好きあっている女が欲しいなら、一直線に割って入って強引に触覚をこすりつけるだろうし、他人の住んでいる邸宅が気に入ったなら、今日から自分もそこの住民になればいい。赤の他人が突然自分の家に乗り込んできても、元々の居住者が怒りだすか恐がるかは確率的に半々だが、土星には警察も裁判所もないため、何が起ころうと当事者で解決する他はない。君が誰であろうと、何の権利を持っていようと、私が元々この家に住んでいたのだから、後から乗り込んできた君の方が悪者だろう、という他の惑星でありがちな理論がすんなりとまかり通ればいいのだが、相手も、しかしあなたとて、他人からこの住居を奪いとって、いつからか平気な顔をして住んでいる悪党かもしれませんね、それとも、これこれこの通り、何年の何月からここに住んでいるという確かな証拠でもあるのですか、と反論を投げてくるかもしれない。法律もない、登記も信用できない。歴史は意味をなさない。あるのは自分だけの正義となれば、どんな小さないきさつで発生した民事事件もやがては水掛け論となる。中には、物分かりがよく、確かにここはあなたの家だ、後から踏み込んできた私が無法者だった。これはすまなかった、失礼をした。と言って大人しく出て行く人間もいるが、そんなめでたしめでたしの事例は稀である。ほとんどの場合、どちらかが拳銃を抜くまで熱い議論の応酬である。決着は正論によって訪れるのではなく、ほとんどの場合、有無を言わさぬ暴力である。勝者がそこへ住む権利を手に入れるのだ。地球人は法律は紛争の解決手段として便利だと言うが、土星人は独裁者に自分有利のとんでもない悪法を作られてしまうよりは、法も道徳もない今の状況の方が住みやすいと感じている。小魚など気にも止めずに深海を気兼ねなく泳ぎ進んでいく巨大な鮫のように、他人を気にせずに生きていける人間にとっては、強固な自我があれば国家や法律などそもそも不必要である。法律も存在しないということは、基本的に何をやっても自由である。思ったことはすべて行動に繋がっていく。行動力さえあれば理想と現実の間に境界線などない。可愛い女も優れた乗用車も大邸宅も望めば少し手を伸ばせば自分の手に入る。地球人のように悪を悪と思わなければいい。他人という存在に心を砕かなければいい。自分以外の存在はすべて自分を飾り立てるために自分の利益になるために存在するのだと思えばいい。目に映る風景すべては他人のものではない、他人が築き上げた自分のものである。奪い取るに抵抗する者がいれば、道端の石ころのように蹴飛ばして進めばいい。全体がそういう考えに支配されているため、協力共存という概念もない。そのため文明の発達が異常に遅い。価値のある物が生まれると、それをいちいち奪い合っているため当然である。美しい資産も人の手を経る度に傷つき汚れていく。新しい資産を築こうとする善人はどうしても他人との争いに巻き込まれ、早く滅びを見る羽目になる。そういうわけで土星の建築物や貴金属は使い古されたものが多い。新しい希少なものはすべて奪い合いの対象である。奪うことと守ることを同時に考えねばならない。
教育の歩みも遅い。すべては独学である。黙っていても誰も勉強など教えてくれないため、いや、それ以前に誰も信用することが出来ないため、学校での教師からの教えや読書といったことも大多数はしていない。身近な人間への愛情も薄いため、家族も行方不明になっているケースが多い。成人しても文字を書けない人間が多い。もっとも、生まれつきに備わっている知性は地球人より高く、独学で素晴らしい発見や発明を繰り返す天才的な偉人も生まれる。ただ、そういう人間にも他の研究者との助け合いや後進の育成という考えを持っていないため、あるいはそもそも後輩を育てることに嫌悪感を持っていて、自分より才能の面で劣っている周囲の俗人を見下すことに喜びを見出す人間が多いため、一人の偉人が生まれても、それが次世代に繋がっていくことはほとんどない。数々の発明をした偉人の弟子や後輩は先輩の死後また一から研究をやり直すのである。そのため、生命学や天文学などの基本的な学問でも世代ごとに考え方にかなりの相違が見られる。地動説の後に再び天動説が登場することもある。前世紀は解けていたはずの数学の証明が今世紀に入って誰も解けなくなることもある。学者は金や社会的地位に興味を持たない人間が多いため、金銭での取引が出来ず、芸術家よりも余計に厄介である。偉人が書き残した偉大な書物も、それが正しく理解されなければ、後輩の愚か者に意味も通じなくなるほど書き換えられてしまい、どんな偉大な研究も一代限りの運命である。もちろん、地球でも元々優れていたはずの学問が、天才が世を去った後、代を重ねるごとに色あせていき、やがては衰退の道を歩むことがあるが、土星はより極端である。天才の次の代が凡人であったら、もう目も当てられない結果が待っている。復活には数百年を要するかもしれない。学業を伝えていくということの難しさに輪をかけて、土星ではものを教えるという慣習がないのである。
土星において大事なことはすべて自分でやるということである。パンを盗むのは自由だが、そもそもパンを売ってくれる人がいないため、結局は小麦粉を手に入れて自分で作る必要がある。他人のパンを奪うことも自由だが、パンに毒を塗りこむことも、パンを守るために他人を殺すことも自由なため、自分より強そうな人間には向かっていけない。資産をろくに持っていないのであれば、自分から余計な行動を起こさず、普通に生きている限り、争いごとも滅多に起こらない。誰もが他人との干渉を極力避けている。愛情は存在しない。道徳も存在しない。公からのいっさいの束縛がないということは、つまり、常に生き残っている人間が正しいということになる。他人の作った道徳や理念がどんなに素晴らしいものであれ、いや、客観的にそう見えたとしても、その人間が罠にはまって、あるいは正々堂々の決闘に負けて滅んでしまったのであれば、生き残った側の論理や方法が尊重されるのである。この淘汰方法であれば、まぐれで勝利してしまったろくでもない生き方や方法論がまん延するため、文明の発達はひどく雑なものになる。
「おい、おまえはどうやって生き残って来たんだ?」
それが大衆酒場での合い言葉になっている。60歳を超えて生き残っている人間は必ず悪事を働いて勝ち残ってきた人間である。知能が高い人間の方が悪事を思いつくため、上の階級にいけばいくほど年齢層は高くなり犯罪率は増加する。誰も公的な立場からそれを取り締まる者はいない。そもそも、ずる賢い人間が公的な機関を支配してしまっている。公的な機関には一応のルールがあるが、上層部の人間の得になるような規則しか作られず、下々の市民たちはそれを守ろうとしない。少数派によって時折芽生える正義は多数の悪に叩かれて、すぐに弱者として滅びる運命にある。これまでも少数の人間によって人間的な正義、種が繁栄していくための道徳、他人との助け合い、子供への教育の必要性、老人へのいたわりの推奨、そんなことが説かれたこともあった。
「みんな、よく聞け! このままじゃ共食いだ。俺たちは百年後も二百年後も同じことを繰り返すことになる。成長のない国家に繁栄や存続はない。今からでも遅くはない。助け合いのある世の中に変えていこうじゃないか」
一度や二度ならず、そんな主張をする人間が現れたが、その考えが浸透することはなかった。他人の意見よりも、今の自分の感情、自分の欲情を優先させたからである。結局、国家の変革を唱える人間はことごとく変人として消されていった。土星人はそれがどんなに聡明な意見であっても、自分の意志や行動を束縛するような変革を望まなかった。
上層部がそんな状態であるから、今さら自分の家族や親類に道徳をしつける者もいない。悪行はやったものがちだが、成功するとは限らない。そのため、総合的な犯罪率は地球と比べて大差ない。多くの人間は犯罪者になることを恐れているが、取り締まる機関がないため、同じ人間が味をしめて何度も犯罪を行う傾向にある。ただ、個人的な正義の名のもとに悪人を勝手に処罰をするのも自由である。犯罪が予見されて実行に移す前に処罰されてしまうかもしれないという恐れが、悪行の抑制に繋がっている。愛情や友情が存在しないため、笑顔も存在しない。デートもプレゼントもない。性的な活動は他人への興味から始まるのではなく、暇だから子供でも作るかという、極めて個人的な欲求である。他人が気に入らないという感情は存在する。いじめも殺人も涙も復讐もある。道端で気に入らない人間を殴り殺そうと思っても、その行為を見ている他の人間の独善的な処罰によって自分も消されてしまうかもと思うから、犯罪はなかなか成立しない。
今、どうしたいのかという個人の感情がすべてである。皆が皆、直線的な生き方を選択している。安全装置はいっさい働かない。悪意が心に芽生えた瞬間に指は銃の引き金を引いている。目的の人間が血を吐いて倒れたら、次は自分が狙われる番だ。敵を撃ち殺す前に警戒して地面に伏せなければならない。自分は相手を知らなくても相手は自分を知っていて、悪意を持ってこちらを見つめているかもしれない。犯罪はドミノ倒しのように次から次へと起こる。一つの感情のもつれが数十人の犠牲者をだす。相互理解は必要ない。なぜ、そんな殺人が起きてしまったのかと捜査をする人間もいない。解明する必要もない。自分も同じことをし兼ねないことを誰もが知っている。遺体も数分後には地面に溶けて消えている。他人を消すのに動機は必要ない。常にゆらゆらと揺れ動く熱く、それでいて冷静な感情がすべてである。
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