*第六話*
エンリケ氏は軽く頭を下げてお礼を言って足早に役所を後にした。自分は異星人であると名乗ってしまえば、役所の内部はすぐに大騒ぎになって、真っ青な顔をした職員に警察を呼ばれることになり、やがてはどやどやと駆け付けたパトカーに逮捕される流れだと思っていたので、何を言ってもまるで相手にもされないという、この展開は意外だった。さりとてこのまま何もせずに会社に戻るわけにもいかなかった。相手にされなかった、まったく話を聞いてもらえなかった、などという結論では、部長やトキナー嬢を始め、新聞社の社員が誰も納得はしてくれないだろう。彼らは全面的な事態の解決を望んでいるのだ。自社の中に異星人が一人いるという日常が続くことを望んではいない。
彼は役所の駐車場の中にある歩道をつたって保健所の方へ向かった。無駄な時間を使っているうちに、陽はだいぶ傾いてしまっていた。しかし、エンリケ氏にとっての非日常はまだ続いていた。早く自分の思いを遂げたいと気ばかりが焦った。その思いとは裏腹に、その道の途中で思いがけない人物が倒れていた。
「フォックスさんじゃないですか!」
彼は慌ててその人物に駆け寄った。倒れていたのはかつての土星の官僚の一人でエンリケ氏より先に地球に飛び立った人物だった。彼と最後に別れてから、すでに5年の月日が経ってしまっていた。
「おお、エンリケ君か、久しぶりだな……」
フォックス氏は土星の英雄だった頃の面影はなく、すっかり汚れた山吹色の作業着を着て、脇腹を押さえた格好で倒れていた。辺りの道路には血が点々とついていた。
「いったい、何が起きたんですか! 誰がこんなことを?」
「気をつけたまえ、奴らだよ……。我々の様子を監視しているだけでは飽きたらず、ついに追っ手を差し向けてきたのだ。奴らは異星人すべてに敵意識を持っている。油断するな。君も狙われているぞ」
「奴らとは誰です?」
フォックス氏は少し驚いた顔をして首を横に振った。
「やれやれ、そんな大事なことも忘れてしまったのかね。君は私以上に地球の平和に馴染みきってしまったようだな…。土星の外交官をしていた当時の、隙のないふるまいとギラギラとした目つきはどこへ行ったんだ? 顔つきも、すっかり地球人のものになってしまったな……」
「それより誰に刺されたんですか? それだけでも教えてください!」
「私のことはもういい……。さっき、助けを呼んだから、間もなく本国から迎えがくる頃だろう。みんなより一足先に土星へ帰還するつもりだ。それより君の身が心配だ。まだ地球にいたいのなら、早く保健所に逃げ込んで地球人に保護を求めたまえ。君が善良な土星人だとわかれば、地球人も手荒なことはしないだろう。さあ、早く!」
急き立てられるようにして、エンリケ氏は役所の裏側にある路地に入った。向かって左側に三階建てのみすぼらしい建物があって、手前にある看板を読むと、どうやらそこが保健所だった。豪華な建物だった役所とは違って、駐車場も車三台分のスペースしかないみすぼらしいものだった。外から眺めて見て、自動ドアの内部はずいぶん薄暗かった。多数の人が押しかけて混雑していた役所とは打って変わって、中は薄暗く、ロビーには人っ子一人いなかった。各フロアの案内をしてくれる職員の姿もなかった。内部には薄緑色のタイルが敷き詰められていた。使われた形跡のない自動販売機が二台、廊下の隅で光を放っていた。入り口の正面にはエレベーターがあり、その横にある施設案内で、異星人課は三階にあることがわかった。今度こその思いを抱きつつ、彼は三階行きのボタンを押した。息を整える間もなくチーンという電子音と共に三階に到着した。三階のホールには赤いソファーが並べられていて、親の用事が終わるのを待っている子供たちが仲良く絵本を読んでいた。その横を素通りしてエンリケ氏は三階のフロアに踏み込んだ。
中には多くの職員、ざっと見積もって50人はいるだろう、が忙しそうに働いていた。しかし、ここにも役所で見受けられたような助けを求める人々の大行列は見られなかった。訪問客の姿はほとんどなかった。フロアはざわめきもなく、静かで職員が世話しなく、ぱらぱらと書類をめくる音しかしなかった。今日ここを訪れている市民の数は視界に入る範囲で二三人ほどだった。エンリケ氏は窓際の細い通路をつたってフロアの奥へと向かった。異星人課は奥から二番目のテーブルだった。そこへたどり着くと、奥の方から私服を着た一人の女性が話しかけてきた。
「こんにちは、どうなされました?」
「驚かないで聞いてくださいね。実は、私は異星人なのですが、先ほど、テレビの緊急放送で異星人逮捕のニュースを見まして、このままじっとしていては、自分もいずれはああなるのではと、すっかり怖くなりまして当局の手で追い詰められる前に出頭しようと思ったのです。地球人に害をなすつもりはさらさらありません。何か隔離の指示があればそれに従います。できれば、この星に住み続けたいのです。手続きをお願いします」
三度目の告白なので、今度こそは心を落ち着けたまま口にすることが出来た。
「ああ、異星人の登録手続きで来られたのですね。それではまず、地球への転居の書類の方を作成していただくことになります。こちらの書類に記入して下さい」
受け付けの女性は平静を保ったままそう言って、引き出しから白い用紙を一枚取り出した。受け取ってみると、そこには『異星人申請手続き書』と書かれていた。最初の設問には『あなたはどこの惑星の住人ですか?』と率直な問いが書かれていた。エンリケ氏は正直に土星人と記入した。書いた瞬間、前で見ていた女性の顔が少し歪んだような気がして背筋が寒くなった。
「祖国に帰りたいと思ったことはないんですか?」
ふいに女性は目線も合わさずに考え深げな表情でそんなことを尋ねてきた。
「もちろん祖国を思う気持ちもありますが、地球の居心地の良さについつい時を重ねてしまいました……。それと、帰ろうにも最近確認したところでは、宇宙船が故障してしまいまして、帰れなくなってしまったんです」
「それでは地球に永住なさるおつもりですか?」
「それができれば嬉しいのですが、もしかすると可能なんですか?」
女性はその質問を意外なものとして受け取ったようで、少し微笑みながら、「さあ……」と答えただけだった。『あなたが努力すれば可能なんじゃないですか』とでも言いたげだった。エンリケ氏は手元の書類に再び目を移した。次の設問は、『地球へやってきた目的は何ですか?』というものだった。エンリケ氏は困ってしまった。観光目的ですとでも気軽に回答すればいいのだろうが、土星の上官からは地球の人間たちの様子をさりげなく観察してきてくれとも言われていた。つまり、これはスパイ行為ともとれるのではないだろうか。しかし、この期に及んではそれを素直に言わない方がいいだろう。言ってしまえば、この星への悪意のある訪問者ということになってしまい、今後の展開が悪い方向へ進む恐れもあった。自分は地球人に害をなすつもりはないし、今までのところはスパイ活動をしたこともなかった。テレビや新聞をつたって耳に入ってくる情報は仕方ないにしても、それ以上の情報を不当に集めたことはない。そうだ、自分は地球に従順な異星人なのだ。そう思い直して彼はその設問に観光目的ですと答えた。女は彼がその文字を書くところをじっと見ていた。
「一つお聞きしますけど、スパイとか、したことはないですよね~?」
女は下を向き、書類に文章を書き込みながら、少し気だるげにそう尋ねてきた。
「ありません。自分で言うのも何ですが、根が善人なんです。地球人に背こうだなんて、一度も考えたことはありません」
疑いを払拭するために、彼ははっきりとした口調でそう答えた。鋭い女の洞察力に心臓は高鳴っていた。しかし、疑り深い女は、「みんな口先ではそう言うんですよね~」と下を向いたまま誰に言うともなく呟いた。最後の設問は『地球に来て一番驚いたことは何ですか?』というものだった。彼が覚えていることで言えば、一番驚いたのは地球人があまりにもデリケートであることだった。
ここまで読んでいただき本当にありがとうございます。この小説はもう少し続きます。今後ともよろしくお願いします。できれば、感想などお寄せください。