*第二話*
「これは困ったことになったぞ…」
エンリケ氏は歩道の真ん中で立ち止まったまま、うつむき、肩を震わせた。まさか、ずる賢い地球人ではなく、同じ悩みを共有しているはずの冥王星人から脅迫を受けるとは思ってもみなかったのだ。このままでは勤務先に向かうことすら危なくなってきた。都会にいれば、他にも何らかの秘密を握っていて、彼を陥れようとする人間が現れるかもしれない。しかし、考えてみれば、この星で自分の価値を一番認めてくれたのが会社の同僚たちであった。彼らならエンリケ氏が異星人などとは疑ってもいないだろう。これまでの勤務の中での彼のふるまいは地球人よりも地球人らしいものだった。面白いニュースに人間らしく笑い、突如襲った不幸なニュースを我がことのように悲しんだ。遅刻も欠勤もなく面倒臭い仕事にも手を抜いたことはなかった。他の社員をなるべく上機嫌にして家路につかせることが彼の喜びでもあった。異星人だからという引け目もあったが、常に行動は遠慮がちで地球人の同僚たちに不快な思いをさせたことはなかった。もちろん、地球人ではあり得ないような怪しい行動を他人に見られたことは一度たりともなかった。完全に社会の歯車の一つとして回っていた。
「とにかく、会社まで行ってみよう。その上で善後策を考えよう」
彼はやっとの思いでそういう結論を導き出すと、よたよたとした足どりで会社へと向かった。受け付けで社員証を見せて一階の整理部へと入った。彼の仕事はこのフロアでの書類整理である。
ここは小さな新聞社だった。記者が書いたばかりの原稿を、パソコンに登録して他の階で紙面を組んでいる同僚のところにシューターを使って送るのが彼の第一の仕事だった。他にも各階から送られてくる書類の仕分けや試し刷りを記者の手元へ運んだり、責任校了が近くなると、必然的に床に散らかってくる試し書きのチラシや、出力しまくった試し刷りを手際良く片付けるのも彼が自然に担当するようになった仕事である。この日も席についてカバンを降ろすなり、正面の席に座っていた記者から声がかかった。
「おう、来たとこですまんけど、この差し替え頼むわ」
「はい、すいません」
彼は原稿を受け取ると、原稿の右上隅に書かれているID番号を素早くパソコンにインプットした。それが終わると原稿をくるくるっと丸めてプラスチックの筒の中に入れてシューターの中に放り込んだ。数秒もするとバンという小気味いい音がして筒は三階へと飛ばされていった。ちょうどそれと同時に入り口の方から駈けてくる足音が聞こえて、何者かが彼の机の上にどさっと荷物を置いた。それがトキナー嬢であることは誰もが知っていた。彼女はまだ学生の身分だが、新聞社に興味を持っていて将来はここで働くことを決めているらしかった。アルバイトの身分で、まだ、採用試験に通ったわけではないが、誰にでも愛想がよく話上手聞き上手なので、すでにこのフロアの人気者だった。
「ごめんなさい、電車が遅れちゃって」
「なに、ちっとも構わないさ」
彼女と会えた喜びを間違っても表には出さないように、彼は素っ気なくそう答えた。このフロアの大多数の人が彼女に好意を持っていたとしても、エンリケ氏だけは平静を保つ必要があった。もちろん、それは彼が異星人であったからで、もし、まかり間違って恋愛などに陥ってしまえば、自分の正体がばれる確率は格段に高くなると言えた。しかし、何か問題が起こるたびに、彼が彼女に対して一歩引いた冷たい態度をとればとるほど、このトキナー嬢は逆に彼に興味を持ってしまい、彼の近くにすり寄ってくるのであった。自分の都合の悪いときほど上手くいくというのは恋愛の常かもしれない。
「ねえ、朝のニュース見た?」
この日も彼女の方から馴れ馴れしく話しかけてきた。
「見たけど、それがどうかした?」
「どうかするわよ。前々から疑わしいとは言われてきたけど、ついに公式発表で異星人がこの星に住み着いていることが判明したのよ。私の学校でもみんな大騒ぎだったわ」
「ああ、そうらしいね…。でも、たかが20人だろ? 僕たちの暮らしに影響が出るとはとても思えないな。例えば、広い海のどこかには大王イカなんていう生物が住んでいるらしいけど、誰もそれを見たことがないわけだからね。どんなに粘着質なマスコミにだって見つけられないものはある。この地球は広いし、何十億の人間がいる。何千人も住めるような広い街が無数にあって、その中には聖人も変人もいろいろだ。たった十数人の異星人をがんばって捜索しても、本人たちの方から名乗り出ない限り、結局骨折り損で終わるんじゃないかな」
エンリケ氏は楽観的な希望を含めてそう返事をした。
「それはそうね、でも、私がずっと思っていた通りだったわ。小さい頃からね、絶対、この星には異星人が住んでいると思っていたわ。だいたいね、もう100年も前からUFOの目撃談はあったのよ。アメリカ軍の戦闘機が高速で移動する未確認物体を見たとか、あるいは、何人かの行方不明者がそれにさらわれたっていう噂だってあったわ。そういう話を人から聞くたびに、私は身近に異星人がいると思ってきたの。あなたはマスコミを買っておいでだけど、私は政府だって怪しいと睨んでいるわ。きっとそうだわ、私たちの知らないうちに、もうとうの昔から異星人との談合は始まっていたのよ。歴代の大統領が交渉役になって異星人との対話は細々と続いて来たんだわ。彼らは地球の侵略が目的で、俺たちには巨大な戦力があるんだ、さあ降伏しろと最終通告を地球の首脳に突きつけたけど、政府の役人たちは裏取引によって、のらりくらりとその要求を避け続けてきたの。きっとそうだわ、だから、時々テレビで報道されるでしょ、どっかの国の絶世の美女が忽然と行方不明になったって。ああいう事件で消えた人っていうのはきっと政府に秘密のうちに拉致されていて、異星人への貢ぎ物として檻の中に押し込められて、スペースシャトルで打ち上げられているんだわ。すでに今頃はどこかの星の……、まあ、火星でしょうね。あそこは野蛮な印象があるもの。火星の断崖に囲まれた岩屋の牢に囚われていて、夜な夜な火星人たちの慰みものに……。ああ、なんて恐ろしい!」
トキナー嬢は自分で勝手に作り出した恐怖心をエンリケ氏にも共有させたいようで、いかにも子供っぽい大げさな身振りを交えながらそう言った。
「それは少し考えすぎだな。まったく国民に知られずに数十年もそんなことをやり通すのはさすがに無理だよ。首相にはお付きの記者だっているんだぜ。毎晩何を食べたか、どんな人と面会したかまで調べられている。彼らの目をごまかしながら、他の惑星と頻繁に連絡を取り合うなんて非現実的だな」
「私はこれっぽっちも政府の報道を信じてないわ。きっともう、異星人との癒着はずいぶん前から始まっていたはずよ。政府は異星人たちがこの星に入ることを、ずいぶん前に認めてしまったのよ。最初は対等な対話だったけど、話し合いを重ねるうちに、相手の星の方が地球よりも圧倒的に進んでいることが判明してしまったんだわ。それで、地球の首脳たちは余計に遠慮した弱腰の対応をするようになってしまったってわけ。つまり、相手を恐るがあまり、低い姿勢で長いこと対話を続けてしまった……、そのツケで彼らはいつの間にか地球を植民地だと思うようになってしまった……。何人ものスパイをすでにこの星に送り込んで日夜調べまわっているのよ。地球人を晩飯のおかずにすることを何とも思わない連中が、すでにこの地域にも暮らしているんだわ。すぐその辺を残虐な異星人たちが当たり前のように歩いているのに、私たちが気づいていないだけなんだわ」
「しかし、例の報道が本当なら、出会える確率は単純に言っても何億分の一の確率だ。万が一、そいつが君の横を素通りしたところで、どうする? どうやって、異星人と地球人を見分ける気だい? ここに平気で暮らしている以上、奴らだってすでに地球の言葉を修得しているだろうし、地球のお金や衣服だって手に入れている。不正な手段を使って戸籍すら手に入れているかもしれないんだよ」
エンリケ氏は長々と話しているうちに、いつの間にか自分のことを説明しているようで不思議な気分になってきた。
「そうね……、私だったら、ここ数年以内に突然社会に現れた人を怪しむわね。いくら異星人でも映画みたいに身体を乗っ取ることはできないでしょ? つまり外見は元の惑星のものを使っているわけでしょ? だったら、身近にいる人達なら薄々は気づいているはずだわ。あれ、こんな人、昔はいなかったわ、いつの間にいたんだろうって。あるいはこの星にどうしても馴染めなくて、長年に渡って不審な行動を続けているかもしれない。怪しいと思われる人間を一人ずつあげていって、少しずつ捜査の範囲を狭めていけば、いずれ見つかるはずよ」
「おいおい、勘弁してくれよ。僕だって天涯孤独の身なんだ。真っ先に疑われてしまうよ」
エンリケ氏は疑惑から自分を除外させるために、あえて冗談めかしてそんなことを言った。トキナー嬢は軽く笑って首を振った。
「あなたは絶対違うわ。考え方が地球人っぽいもの。あなたは何でも常識から入るけど、異星人なら何か問題が起きたときに、もっと世の中の常識や道徳からかけ離れた考え方をするはずよ」
「おい、仲がいいのはわかったけど、そろそろ仕事をしてくれよ。原稿が溜まってしまうぞ」
離れた席にいた別の社員から声をかけられて二人の会話は中断した。エンリケ氏が4枚ほどの原稿を片付けた頃、ちょうど打ち合わせの時間になり、整理部の面々は二階の会議室に向かった。社員ではないトキナー嬢はその場に残ってテレビのバラエティ番組に夢中になっていた。
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