*第一話*
その日はエンリケ氏にとって、思いもかけず危機的な一日になった。
朝いつものように分相応の安い朝食をとっていると、突然テレビが臨時のニュースを伝えた。それによると、ここ5年間の間に少なくとも21人の異星人がこの星に降り立ったというのだという。だが、一人も当局の手に捕まっておらず、異星人たちの目的は知れないという。政府は総力をあげてこれから調査にあたるという。アナウンサーは何度も原稿を読み返し、語気をどんどんと強めて、その驚くべきニュースを読み上げていた。普段から警戒心の薄い国民に緊迫感を植え付けようとしているようだった。まるで画面からその緊張感が伝わってくるようだった。しかし、朝のニュースはそれ以上の情報を与えてはくれなかった。少し目を離した隙にニュースからスポーツに切り替わっていた。エンリケ氏は努めて平静を装い、コーヒーカップを静かに置いた。
「なんてことはない、これから何があろうと、これまで通りの日常を送るだけさ」
しかし、彼はどれだけ心を落ち着かせようとしても、それはままならなかったし、自分でもそのことが理解できていた。これが彼の人生に訪れた最初の危機であった。彼は浮かない顔のまま視線を自分の左手に落とした。一見はどこにでもある人間の手に見えた。しかしよく見るとそこには6本の指があった。彼はそれを確認すると大きくため息をついた。世間に隠してはいるが彼もれっきとした異星人だったのだ。これまでは誰にも疑われたことはなかった。地球人と共に暮らしてきたあまりに平凡な日常に、いつしか自分が異星人であることを忘れてしまっていた。正体がばれる危険など生涯訪れないだろうという錯覚に陥っていた。とにかく、ばれていないことをひたすらに願いながら、これからも普通の生活を続けるしかなかった。
彼は完全な異星人であったが、忙しい日常に追われているうちに、この星に初めて降り立ったときのことなどすでに忘れてしまっているし、この地球という星を訪れることになった当初の目的も、今は記憶が薄れてしまっていた。上官からは地球という星の調査のことや、この星の高官との交渉のことなど詳しく聞いてきたような気もするが、地球という星での充実した生活に追われているうちに、自分の重要な使命のことなどほとんど忘れてしまっていた。今は地球人としての日常にすっかり慣れ親しんでしまっていて、自分が異星人だとばれたときの恐怖感の方が余計に大きかった。自分が地球人でないとばれたら周囲の人間たちは手のひらを返したように彼を非難し、差別し、もはやこの星には置いておけないから出て行けと言うかもしれない。これまで親切にしてくれた周囲の人々からそんな冷たい言葉を聞きたくはなかった。
すでに時計は7時をまわっていた。ぐずぐずとはしていられない。習慣を大切にする彼には遅刻こそ最も忌み嫌う行為であった。
「とにかく、ばれなければいいんだ。平静にいつも通りの生活を送ることだ」
彼はそう呟いてから、カップに残っていた最後のコーヒーを飲み干し、黒い革のカバンを手にとった。ドアの外には普段と変わらない日常が待っていた。夏もすでに近い、強い太陽の日差しに爽やかな風が迎えてくれた。
「そうだ、私が見つかるとは限らない。この世界には数えきれぬほどの人間が住んでいるんだ。変人だって、変わった身体的特徴を持った人だって多くいる。簡単に特定出来るわけがない。外見はこの通り、すっかり地球人なのだ。左手を見られない限り、私は安全なのだ」
エンリケ氏は穏やかな日常の中で朝の不幸なニュースを忘れ去ろうとした。そうさ、今日からはなるべくニュースを見ないようにしよう。会話の中でも異星人のことが出たらなるべく避けるようにしよう。口笛を吹きながらいつもの通りを歩いた。
「それにしても、マスコミの奴らは、あるいは政府の奴らかもしれんが、どうやって異星人の不法侵入を知ったのだろう? いくらこの星の技術力が優れていても、異星人を区別する方法は確立されていないはずだ。もしかすると、密告者がいたのかもしれない。やはり金銭に目がない火星の奴らか、それとも、性格がイかれている冥王星人かもしれない。自分の安全と引き換えに他の侵入者の情報をばらしたのかもしれない。とにかく、奴らは他の異星人を売ったのだ。腹立たしいことだ」
ところが、こんな日に限って自宅から100メートルも離れないうちに知人に見つかってしまうこととなった。
「やあ、エンリケさん、今日はいつもより出るのが遅いじゃありませんか。何かお困り事がありましたか?」
近くに住んでいる旧知の住民はいつもの笑顔で近づいてくると心を見透かすように尋ねてきた。エンリケ氏はギクりとした。
「いえ、特に何もありません。庭からね、あの例のどら猫が入ってきてしまって……、居間の花瓶を一つ割ってしまったんです」
隣の住民は彼の表情の変化を読みとろうとするかのように顔を覗き込んできた。
「そうでしたか、それは災難でしたな。しかし、不幸の後には幸運が舞い込むといいますからな、あなた、これは迷信ではないですよ。私もね、二年前の今頃、急に母親が亡くなって、誰も頼れる人はいない、これからどうしようと落ち込んでいたら、翌年にはまさかあんなに多くの遺産を手にするなんてね、今は境遇がすっかり変わりましたよ。まあ、これは蛇足でしたな。とにかく、朝のニュースには驚かれたでしょう?」
「驚くというと、何のことですか?」
エンリケ氏は感づいていたが、何も知らないことを装おうとした。
「何って、もちろん、異星人のことですよ。テレビをご覧にならなかったのですか? あなた、あれは近年では最大のニュースですぞ」
「ああ、異星人が侵入してきているということでしたか……、確かに興味はありますね……。しかし、私は文系の人間でして……。天文学には疎いのです。申し訳ない」
エンリケ氏は、もはやしどろもどろになってそう答えた。やはり、情報に飢えている一般市民どもは、あのニュースに夢中になっていた。これは彼にとって非常にまずいことだった。上手く切り抜けなければ、そのうちに住民同士の探り合いが始まるかもしれない。それは最悪の事態だ。放っておけば、周りがすべて敵になりかねなかった。
「ええ、そのニュースです。しかしこれは由々しき事態ですぞ。まあ、私もですね、これほど惑星間の探索が盛んな現代ですから、一人二人はこの星にも入って来ているのではと勘ぐっていたのですが、まさか、20人も侵入しているとはね、これは驚きでした。地球の防衛軍は何をやっていたんでしょう」
「まったくその通りです。はは、うまく入り込まれてしまったものです。しかし、偵察なんでしょうね? その入り込んだ異星人とやらは。それでは今頃、どこで何をしているのでしょう? 煙草を吸っているのか、娼婦を抱いているのか、案外、我々の身近に潜伏しているかもしれませんね」
エンリケ氏は話を合わせるために、無理にそんな話題を持ち込んだ。本当は異星人関連の話をするだけで手は震えだし、背中に冷たいものが走るのであった。しかし、彼のそんな気持ちを逆なでするように、隣人はこの話題を続けた。
「それこそ、笑いごとではありませんよ。あなたの仰るとおり、我々は彼らの侵入を許してしまいました。彼らは誰にも知られることなく、ことによると、もう数年に渡ってこの国に潜伏しているのもしれない。会社員に化けているのかもしれないし歯医者を装っているのかもしれない。あなた、ひょっとすると、すでに我々の近所まで忍び寄っているのかもしれませんぞ」
エンリケ氏は隣人のその言葉に心臓が浮くような気がした。もはや、上手い逃げの言葉が思い浮かばなかった。
「はは、軽い冗談ですよ。いくら異星人の変装が巧くても、この付近の住民ではありえない。みんな戸籍がしっかりしていますし、隣人同士の交流も盛んです。ここまで長いことばれずにいられるわけはありませんからな。では、私は急いでいますのでこれで……」
隣人はそれだけ言うと早足で去っていった。とりあえずは痛い腹を探られずに済んだ。エンリケ氏は胸を撫で下ろした。
エンリケ氏はそこから足を早めて駅へと急いだ。心は落ち着かなかった。道の途中で出会ったすべての人が今朝のニュースを知っていて、異星人が身近に迫っていることを気にかけているような気さえした。彼らはそのうち隣の家に住む住民の素性すら疑いだすかもしれない。しかし、実際のところは多くの民衆は自分の生活のことで手いっぱいで、異星人探しのできる余裕のある人間はほとんどいなかった。通勤時間帯の駅はいつも通り会社員や学生でいっぱいだった。エンリケ氏は誰も自分に注目していないことを確かめると安心して電車に乗り込んだ。
ガタンゴトンと列車は動き出した。誰も周囲に気を使っていないように見えた。そうだ、朝の数分足らずのニュースなど、誰も気に留めていないだろう。他に注目すべき事件事故だってあるはずだ。本当にいるか知れない異星人のニュースなど他国同士の戦争のようなものである。きっと人々はまだ日々の生活に追われている。彼は人々の弛緩した様子からそう考えたが事実はそれほど甘くはなかった。それからすぐに車内アナウンスが流された。
「お客様、今日も当電車をご利用頂きましてまことにありがとうございます。さて、皆様も朝のニュースでご覧になられました通り、この地球にも異星人が侵入していたことが明らかになりました。異星人どもは地球人の姿になり変わり、企業社会に潜入し、すでにこの電車にも乗り込んでいるかもしれません。乗客の皆様に危害を加えようとしているかもしれません。そこで、ご乗車の皆様にはお手数ですが、一度ご自分の周囲の人の風貌や行動を注意深く観察されまして、万が一、不審な人物を見かけましたときは駅構内におります係員にお伝え下さい。そのときには係員が直ちに地域の異星人取り締まり係に連絡致しまして、悪さをしようと、のこのこと、この地球に入り込んできた異星人をとっ捕まえる所存でございます。皆様、こうなってしまった以上、片時も油断してはなりませんぞ!」
最後に力強くそう叫んでアナウンスは終わった。エンリケ氏は思わず下を向いてしまった。乗客の中の数名が辺りを見回していた。
「宇宙人って言われたってわからないよねえ? 外見は普通なんでしょ。たしか……、火星人はうちらに比べて、少し背が高くてキツイ目つきをしているって聞いたけど……、それだって証拠にはならないよねえ?」
数名の女学生が困惑顔でそんなことを話していた。エンリケ氏は心の中で頷いた。そうだ、火星人の奴らだけ捕まってしまえばいいんだ。彼らは短気で粗暴でタチが悪い。道端で灰皿も置かずに平気で煙草を吸っていたりする。見知らぬ女の子の尻を触ることを何とも思わない。暴力的なシーンが繰り返し出て来る漫画を好んで読んでいたりもする。そういうガラの悪い異星人だけを捕まえて本国に送り返せばいいのだ。地球の住民が協力して幾人かの火星人を捕獲し、最新鋭のスペースシャトルにでも縛り付け、さあ飛んでいけ、もう戻ってくるなよとばかりに派手にうち飛ばしてしまえば、単純な地球人のことだ、それで満足してくれるかもしれない。さあ、あれほどの邪悪を放り出してしまったのだから、もう後は善人しか残っていないだろうと、勝手に錯覚をして異星人のことなど忘れてしまえばいいのだ。翌日からはまた無邪気な思考の彼らに戻って、ほうれん草が値上がりしただの、近海もののマグロの値段が高騰しただの、そんなことに神経を使う日々にまた戻ればいい。エンリケ氏がそんな想像を巡らせていると、すぐ隣にいた若禿げのサラリーマンが話しかけてきた。
「もしもし、あなた、さっきからどうも落ち着かないようですが、まさか、今のアナウンスに動揺しているのではないでしょうな」
「と、とんでもない。少し驚いただけです」
「それならいいですが、そんなに神経を尖らせない方がいいですよ。確かに、まあ、21人もの異星人に入られてしまった、これは重大なことですが、彼らとて良識はありますからな。すぐに悪いことをしでかすわけではない。そう、その通り、順序があります。まさか、その数人の異星人が本国の惑星と日頃から連絡をとりあっていて、明日、突然に巨大宇宙戦艦が攻めてくると、そういうことはまずあり得ません。悪気があるにしても、しばらくは様子見でしょう。それに、もしかすると、向こうもこの地球と仲良くやっていきたいと、そう思っているのかもしれませんからな」
「あなたの仰る通りだと思います。彼らもきっと自分の星のことで手いっぱいなんですよ」
エンリケ氏はそう返事をしたが、そのサラリーマンはすでに手元の新聞記事に夢中になっていて、彼からは目をそらしていた。これを幸いとばかりに一つ前の駅だったが、彼は電車から降りた。あのまま乗っていたら周囲の乗客に気づかれていたかもしれない。これはいい判断だった。彼は国道を道なりにぶらぶらと歩き、行き慣れた道を会社へと向かった。これ以上事態が悪くならないことを祈っていた。ところが、その途中で、手押しボタンのある横断歩道の手前で白いワイシャツを着た、少し目つきの悪い若いサラリーマンに話しかけられた。
「もしもし、ずいぶん体調が悪そうに見えますが、大丈夫ですか?」
「ええ、少しこの暑さにまいっているだけです」
その男は周囲を見回して、他に通行人がいないことを確かめると、注意深く話し始めた。
「実はね、私は異星人なんですよ」
「何ですって?」
エンリケ氏はわざと驚いたふりをして、大げさに応じた。
「そう、信じられないのも無理はありません。しかし、あなたも朝のニュースをご覧になったでしょうから、ご存知だと思いますが、この地球にはすでに数十人から数百人の異星人が侵入しているのです。そして彼らは何食わぬ顔をして人々の間に紛れ込み、地球人と同じ生活を続けているのです」
「そして、あなたもその一人だと言うのですか? 申し訳ないですが、ちょっと信じられませんね」
「私は冥王星人なんですが、五年ほど前に本国の方で移民法が制定されまして、すっかり人口の多くなった本国にいるよりも他の星に移住するほうが税金の上で優位になったのです。それを機会に私を含めて数百人の冥王星人が他の星へと移住したのです」
「それで、これからどうするおつもりなんです? 正直に役所に出頭されるのか、それとも、このまま何食わぬ顔で地球に居座るのか」
エンリケ氏は自分のことを棚に上げてそんな質問をした。ここでこの男に会えたのは良かった。自分はまだ態度を決め兼ねているが、朝のニュースを見て、他の異星人たちはどうするのか、自分の決断はそれを見てからでも遅くはないと思った。
「あなたはどうした方がいいと思いますか?」
異星人の男性は突然そう尋ねてきた。
「何を仰るんですか、私には異星人の気持ちはわかりませんよ」
そう答えると、男はふぅーんと一度鼻を鳴らした。
「私には直感があるんですよ。いや、もっと詳しく言えば、私は地球人と異星人の見分けがつくんです」
男の鋭い目線がエンリケ氏を捉えた。彼はとっさに目を逸らした。男は無気味に笑ってからエンリケ氏の肩をぽんぽんと叩いた。
「まさか、こんなところで仲間に会えるとはね」
「冗談はやめてください、私はれっきとした地球人です!」
エンリケ氏は怒鳴りつけるように言い返した。
「しらばっくれるおつもりですか? しかし、私が万が一当局に捕まったときに、実は他にも仲間がいると訴え出たらどうするつもりです?」
「何ですって?」
「私があなたも異星人だと訴え出れば、役所はあなたの身辺を徹底的に洗うでしょうね。あなたはそれでも自分は無実だと、完全な地球人だと証明出来るんですか? あなたの家に子供の頃の写真でもあるんですか? それとも、ご両親を紹介するんですか?」
「私を脅そうというんですか?」
エンリケ氏はすでに真っ青になっていて、拳を握りしめながら、なんとかそれだけ言い返すことができた。
「いえいえ、そんなつもりはありませんがね。しかし、どうです? ここはじっくりと考えてみては。今の快適な生活をたった一本の密告で失ってもいいんですか? それとも、この私ともう少し仲良くなって、今の平穏な日常をお続けになりますか?」
「私にどうしろと言うんですか?」
エンリケ氏は声を震わせてそう尋ねた。男はふところから煙草を一本取り出して、ゆっくりとした動作でそれに火をつけた。
「いやね、私はただの移住者ではありませんで、実は本国から偵察の任務を受けているんですよ。ここの言葉でいえばスパイというやつです。冥王星の首脳たちはこれからの太陽系内での地位の向上のために、何としても高度な文明を持った地球の情報が欲しいわけです。特に、この地球にはあって冥王星には無い物が欲しいわけです。ハンバーグなんてのは、あなた、どこにでもありますからな、はは。これは冗談。そこで私のようなスパイは自分の出世のためになるべく貴重なもの、本国では絶対に手に入らないものが欲しいわけです。それを奪えなければ潜入した意味がないですからな。そこで、私が目をつけたのが、あのダイヤモンドというやつです。あの硬くて美しい宝石。テレビで何度も報道されている。これを持っていればステータスになるとね。あれを持ち帰ってほらこれだと見せてやれば、首脳たちも驚くでしょう。私の出世は間違いなしですよ」
「ははは、し、しかし、ダイヤは高いですからな……」
エンリケ氏はごまかすようにそう言ってやった。
「そう、私の給料ではとても手に入らない。地球に来る前はまさかそんなに貴重な鉱石だとは思ってもみませんでしたよ。まあ、それも人為的なものかもしれませんけどね。何でも地球のお偉いさんはダイヤモンドの価格を維持するために、取れすぎたダイヤは海に捨てているとか……、まあ、それは蛇足でした。とにかく、私はダイヤが欲しい。要はあなたがそれを融通してくれればいい」
「私が? 冗談じゃない! 私の安い給料では、何ヶ月貯めても、とても無理ですよ」
「いや、そんなことでは困る。あなたには絶対に手に入れてもらいます。二人の異星人が互いに相手の秘密を握ったからにはね……。私だってあまり強引な取引はしたくないが、なにせもう時間がないんです。わかるでしょう? 地球人たちの捜索はすでに始まっている。このままではいつ警察の手が迫ってくるかわからない。しかも、我々は互いに相手が異星人だと知っている。今日中にもどちらかが相手を裏切って役所に訴え出ないとも限らない。とにかく、私には時間が無いんです。ダイヤを手に入れたらすぐに宇宙船で冥王星へ帰還するつもりです」
「そんなことを言われても、私にはどうすることもできませんよ」
「あなたには3日だけ猶予を与えます。その間に私を満足させるダイヤを準備してください。それができれば、あなたに何の迷惑もかけずにこの星から去ることをお約束しますよ。いいですか、3日ですよ」
男はそれを言い終わると素早い動きで横断歩道を渡って行ってしまった。エンリケ氏は肩を落とし、力なくそれを見送った。
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