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朝ぼらけ 有明の月と 見るまでに

作者: 日岡 咲織

 「梟」を「哲学の象徴」と認識したのは、小学五年生のことだった。公立小学校に通っており、ごくごく一般的なサラリーマン家庭に育ったから、その知識と邂逅を果たすのは、あまりに早すぎたことかも知れなかった。

 尤も、今日から朝香(あさか) 柚子(ゆづこ)と名乗らざるを得なくなったこの少女にとっては。その知識すら、自分のモノにした数多の刃の一つでしかなかったのだが。



 東風(こち)吹かば、匂ひおこせよ梅の花―――ね。

 新幹線の窓から外をぼんやりと眺めていた柚子は、頭の中で古歌を詠じて詰まらなそうに目を眇めた。ガラス一枚隔てた向こう側では、空が泣いている。冬休みが始まったばかりの日曜日。クリスマス一色と言っても過言ではない煌びやかに飾り付けられた東京駅を出たばかりの新幹線の上に、まだ白雪は舞っていなかった。気象庁曰く仙台は雪ということだから、この雨が暫くの内に雪に変わるのだろう――。柚子にとっては、雨でも雪でも、正直どうでも良かった。

 まるで、私がこれから流す涙を肩代わりしているみたい。

 そう、感じていたから。馬鹿な空想だということは、重々承知していた。けれど、本を通して自分の世界に逃げ込むことでしか安寧を得られない柚子は、この雨が長く降り続き、出来るだけたくさんの涙を肩代わりしてくれることを切望した。母の眼前で、みっともなく泣き崩れたくなかったから。絶対に。

 大宰府への左遷を嘆いた天才は、歌の力で梅を呼び寄せたという。でも、自分の歌では、言葉では。何も呼べない、叶えられない。数多の知識を言の葉に載せて、必死に闘えども。そう、知っていた。もう既に、思い知らされていた。

「―柚子(わたし)の言葉に、神は宿らない」

 隣で憔悴しきっている母に聞こえないよう、柚子は小さく呟いた。

 叶えられなかった。切実に願った。けれども、駄目だった。母の心は、限界を超えてしまった。もう、どうしようもなかった。最後の最後まで、祖母が追いつめた。

 お祖母ちゃんはきっと、お母さんを殺したかったんだ。

 そう信じていた。東に来ざるを得なかったのは、母が弱い人間で、祖母が最悪の姑だったからだ。都市化が進んだこの国で、左遷先が東か西かで生活レベルが大きく変わるわけではない。彼の天才の嘆きに比べれば、自分の嘆きはなんてちゃちなモノだろうかと。知っていた、分かっていた、それでも、悲観せずにはいられなかった。

 お母さんはきっと、もう二度と私に笑いかけてはくれない。

 祖母によく似たこの顔を、母は生涯愛でない。「柚子」と呼んでくれることも、ない。そう思って、泣きたくなった。



「あぁ、君が柚子ちゃんか――」

 柚子に合わせてわざわざ標準語を話す青年に、つい此間まで()() 柚子でしたがね、と柚子は心の中で毒づく。実際に返さなかったのは、彼が歩きながら情報を垂れ流してくれているからだった。玉石混交なのだが、母に聞いても「故郷」としか答えないこの東北の地の情報は有り難いモノだった。

「姑が直接原因で離婚ってのは最近聞かない話にはなってきてるけど、まぁ君のお母さんならあり得そうだよね。もうちょっと早く別れておけば、あそこまで傷つかずに済んだのにさ。―まぁ、激しさを他人に向ける人ではないからね、君のお母さんは」

 従兄弟に当たる大学生・朝香 燈梧(とうご)は初対面の柚子に対し、それ、小学五年生に言うのはちょっと…というような発言も平然と言ってのけた。会話の端々に挟み込まれるソレが非常に不快だったが、柚子は全て心の中に留め置いていた。祖母の時もそうだったから、知りうる総ての事が武器であり、タイミングを過たずに口から出だせば刃になり得ることは身を以って知っていた。

 『知識は武器になる。口に出だせば刃になる―――』。

 誰に教えてもらったのかはもう忘れてしまったけれど、まだ、覚えている。戦える。私は闘える。一人きりでも、孤立無援でも。私は――――。

 何度でも、祖母と闘うつもりだった。ただ只管(ひたすら)に母が為に。

「あぁ、柚子ちゃん。一つ教えてあげるよ。」

 彼は、着いたよ、と言って柚子を振り返る。真白い雪景色の中で彼の背後に広がる丸い湖だけが、恐ろしいほど青暗かった。

「知識は武器で、言葉は刃だ。どうして言葉は刃って言うか分かる?」

 唐突な質問に、柚子は軽く首を傾げた。彼はしょうがないなといった体でフッと笑う。

「――言葉が、諸刃(もろは)の剣だからだよ。言葉は、君も相手も傷つける。知識は護ってくれるけど、言葉はそうじゃない。君を独りにするし、巡り巡って君にそのまま還って来もする。君はもう憶えていないかもしれないけど―。因果応報って言ってね、還って来るんだよ。ちゃんと」


 彼は、(くら)く笑ってそう言った。背後に広がる黒い水面が、本当に恐ろしかった。真白の中にぽっかり開いた、果てなき闇への入り口―――。


 『知識は武器になる。口に出だせば刃になる。でも、刃は還って来る。だから、口に出さない、誰も傷つけない抗い方があることも覚えておくのよ―――?』


 あぁ、そうだ。自分は魔法の言葉を、母に教えてもらったんだった――。


「君は梟名(きょうめい)を得るだろう。感服するよ、君の情熱に。でも、わざわざ戦争を起こして回る必要はないだろ? 適度にふんわり笑って、上手く立ち回りなよ。柚子ちゃんには出来るから――」


 12月24日。

 朝香 燈梧は強引に柚子を連れ出し、雪の中を一時間半掛けて加瀬沼へ連れて行った。そして――翌日、大学のある東京へ去って行った。彼の言動全てが、恐らくは柚子の為だったのであろうということに気付いたのは、癪なことに彼が去った後だった。悔しさのあまり、柚子はその日のうちに彼への手紙をしたため、雪の中を祖父と二人して全力で最寄りのポストへ向かった。

 残りの冬休みは祖父母の家で家事を手伝いながらテキトーに過ごそうと思っていると、彼が去った翌日に同級生が柚子をスケートに誘いに来た。仙台弁で一気に捲し立てられて一瞬ひるんだが、不愉快極まりない彼の言葉を思い出して――。


柚子は彼女にふんわり笑って見せた。



「泣きたいとき、怒りたいとき、不安なとき――。絶対に笑いたくない時に笑えれば、それはもう――とてつもなく強いっていう証拠だよ。君は此処で、のびのびと、でも、強くなれる。お母さんとは違って、本物の強さを得られるよ?」


 彼はとても不愉快な人だった。けれどもこの時から、生涯を通して柚子の憧憬の的となった。


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