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作者: 本栖川かおる

もう少しで七夕ですね。

 私は薄手で花柄模様のワンピースを着て、少し明るめの口紅で顔色を整える。感情などない。動いているけど、私はただの箱になってしまったんだと、最後の一筆を塗り終えたとき感じた。


 あの日からちょうど一年。まだ梅雨の明けない七月七日。年々暑くなるのが早くなった気がするのは、温暖化の影響なのだろうか。そんなことを考えたけれど、来年の私にとっては関係ないこと。だって、この意味を持たない世界から今日逃げ出すのだから。


 化粧を終え、旅行へ行くかのようにお洒落をした私は立ち上がる。姿見に映る、どこか寂しげな自分を振り払うかのようにくるりと一回転した。ワンピースの裾がふわりと広がり、止まった私に絡みついた。

「ねえ。綺麗?」

 私は、鏡に向かって話しかける。ここには居ない、私だけの住人へ。


 雨上がり、見渡す限りの田んぼの群れに、アスファルトの道が一本だけ通っている。所々に街灯が灯る濡れた道。私は、踵の高い靴で鳴らしながら歩く。こんな時間にお洒落をして何処へ行くのだと、蛙が笑っていた。


 三十分歩いて目的の場所に着いた。この辺りでは一番大きな橋。古くからあり、黒ずんだ石の欄干がそれを物語っている。ただ、橋の中央付近の欄干だけ真新しい石で補修されていた。

「一年ぶりだね。やっと会える日が来たんだよ」

 補修されている欄干から川を見つめ、そう呟いた。やっと、やっとだ。この日が来るのをどんなに待ち望んだか。辛かった。苦しかった。

 今日を迎えた嬉しさに、涙が自然とあふれ出て頬を伝う。でもすぐに暗晦な感情がそれらを飲み込み、嗚咽を漏らした。なくなったと思っていた涙が更ににあふれだし、箱と化した肉体に心が戻り宿った。

 私は耐えられなかった。一年経った今でも、あの時のまま風化しない感情が心を締め付ける。苦しい。お願いだから誰か私を殺して。そう願わずにはいられなかった。

 私は、立っていることができずにその場に座り込んだ。身体全部が締め付けられて我慢することが出来ない涙と一緒に、鼻や口からも辛く悲しい思いを宿したものが滴り落ちた。


 車道と併設の歩道で座り泣く私の身体を、眩い光が包む。この時間にこんな田舎道を通る車は、周辺に住んでいる人の車しかない。そのまま過ぎ行くと思っていた車は私の隣で停車した。そして、人が降りてくる気配を感じる。

「どうしました? 大丈夫ですか?」

 その言葉を耳の奥で聞き、顔を上げた。声からして若い男性のようだが、ヘッドライトで影になり窺い知ることが出来ない。その男性が私の傍まできて手を差し伸べたとき、自分が目にしているものを疑った。

「なつひこ……。夏彦!」

 それは去年の今日、居なくなってしまった夏彦の顔だった。

「なんで……なんで……どうして私を残して行ったの!」

 手を差し伸べた男性に顔を押し付けてしがみ付く。そして顔を上げて再度男性の顔を見た。間違いない。夏彦だ。夏彦が戻ってきてくれた――


 一年前の今日、七夕の祭りに行くため、私を迎えに夏彦は車でこの橋を通った。所々にしか街灯がない薄暗い道。地元の人でも人影に注意しながら走るような道。そんな橋の真ん中には、まだ消えることなく残っているタイヤの跡。そのタイヤ痕が示す先には、補修された真新しい欄干がある。そう。急ハンドルを切った夏彦の車は、欄干を突き破り橋の下へと落下した。即死だったそうだ。警察の話では、動物か何かが飛び出して、それを避けようとしたのではないかと言っていた。原型をとどめない車内から、リボンが掛けられた箱が出てきたそうだ。


「そうだったんですか……思い出させてしまったかな」

 瓜二つの顔をしているが、冷静に聴くと声が違う。夏彦と言いながら腕にしがみ付く私に、名前は夏彦ではなく牽牛(けんぎゅう)だと教えてくれた。珍しい苗字だったけれど、どこかで聞いたことがある名前。

 ――そうだ。わし座α星で一等星のアルタイル。その別名が牽牛星だったことを思い出す。

 彼は歩道の欄干を背に私を座らせ、自分もその隣に腰を下ろす。エンジンがかかったままの車が、私の鼓動を表すように規則正しく黄色い脈を打っている。この場所であったことを彼に話した後に、私はそれに気が付いた。


「私、今日この欄干を乗り越えて死のうと思ったんです」

 事故を聞かされたのは七月八日になったばかりの時間だった。夏彦を失った世界で生きる意味を見失った私は、同じ七月七日に死のうと今日を待った。その気持ちは今でも変わっていない。例え今日生き残ったとしても、私の生きる意味がこの世界には無いのだから。

「家まで送りますよ。もう、こんな時間ですし」

 私は、一年ぶりに腕にはめた腕時計を確認する。零時三分。事故の知らせを受けた時間だった。ふとそう思ったが、良く見ると秒針が動いていないことに気が付く。夏彦がプレゼントしてくれた時計……。この時計も夏彦と一緒に時を止めたのだった。

「私と一緒ね」立ち上がりながら、私はぼそりと呟いた。

 私もあの日から時間が止まっているのだから。


 翌年、七月七日。同じ花柄のワンピースを着た私は、また三十分歩いた。相変わらず蛙が笑い、ヒールの靴音だけが夜空に響いた。

 橋が見えて来たとき、止まった車のヘッドライトに気が付いた。こんな場所で何をやっているのか。何も無い場所なので、すぐにでも移動するだろうと動くのを待ちながら歩調を緩め歩く。しかし、その明かりは移動することなく私の到着を待った。

 橋に着いたとき、運転席から降りる人影。目を凝らし見ると、去年ここで会った彼だった。

「どうして……」

 誰に言う訳でもなく、私は小さな声をだす。

「やあ。きっとまた来ると思ってたよ」

 死にに来ていることを言ったところで、止められるのがオチだ。別に彼と話すことは嫌いじゃない。去年もそうだったけれど、彼と話すと気持ちが穏やかになり自分が戻ってくる感覚を覚える。だから、また少し話そうと思った。


 翌年も、そのまた翌年も、橋に行く時間を変えようが彼は私を待っていた。七月七日。私がこの橋に現れるまで。


 あの事故から五回目の七月七日が、今年もやってくる。毎年、向こうの世界で夏彦と会った時のためにお洒落をしている。ただの箱である自分が服を着て、あの時間で止まった時計を腕にはめ橋にいく。身体が勝手にそうやって動いてしまうのだ。意志や感情など存在しない。プログラムされたロボットのようにそうしていた。

 私は最後に、濡れてシミになった箱から指輪を取り出してはめた。


 今年も彼はあの橋にいるだろうか。そんなことが、ふと頭を過ぎる。

 私は、一度指にしたものをはずし、元の濡れてシミになった箱へ戻す。なぜそうしたのかはわからない。なんとなくそうしたかった。そして、箱を箪笥の一番上に仕舞い、ドアを開け外に出た。


 今年の七月七日は、天の川が良く見える快晴だった。

 その一角に一等星のアルタイル――牽牛星も光り輝いていた。

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