大学を卒業してニートな俺が公園で小学生の◯◯をガン見していた話
この話はフィクションです。
はじめに断りを入れておくが俺はロリコンではない。
そのうえ小学生を眺めるために公園に足しげく通うような変質者でもない。
これは俺が小学生だった頃の話だ。
その日は公園へ遠足だった。
まばゆく太陽が照らしつける一面の草っ原で、紅白帽子を被った小学生の俺は正座で昼飯を食らっていた。
虹色に着色されたビニール素材のレジャーシートを尻に敷いて、あちらこちらに小学生たちが点在している。
こういうときは、重力で引かれ合うみたいに、まず何人かの親密な仲間が集まって核を作り、その周囲も、およそ近くとも反発の少ない核によって埋められる。
とりわけ男と女とは別々の大グループに奇麗に分割されるものだ。
そのなかで俺はあらゆる掛算を拒否して居座るゼロみたいに自分だけの席を早々と確保して留まっていた。
まぶしさに目眩がするようで、聴覚にも支障を来たしたらしく、くらくらしながら「いただきます」の挨拶をした。
担任はすぐ近くにいるらしかった。
母の作った弁当を片手に、卵焼きを頬張る。
咀嚼しながらチラりと目線を前方にやると、程よい距離を隔てて、斜めを向いた一人の女の顔が見えた。
俺の目には少しも気付かず、和やかに談笑しているようだ。
その女の胸元からは微かな◯◯がこちらを覗いていた。
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なぜ俺はそれをガン見していたのだろうか?
目敏い女担任が、不可解な俺の様子を察したのに違いないが、彼女に声を掛け、ボディ・ランゲージで胸元に合図を送った。
事態を飲み込んだ彼女は、口に咀嚼物を含んだまま、担任の親切に報いるように軽い動作で服装を正した。
それから俺は担任に顔向けができなくなった。
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そのガン見は担任にとってよりも、むしろ俺にとって不可解だったと言える。
第一、俺はその女に惹かれてなどいなかった。
それにもかかわらず担任の咎めによってどうしようもなく恥ずかしい思いをしたのは事実であり、後にこれを思い出して悶絶すること頻りだったのを告白しておこう。
人間はなぜ乳房を特別視するのか?
それは単なる脂肪の塊なのではないか?
あのとき俺と女と担任との間で暗黙の前提とされていたのは、脂肪の塊が公然と露出するのを恥とする慣例だろう。
その文化的なるものがいったい歴史上、生物上の何に由来すると言えるかが肝心だ。
乳房を見て人は母乳を飲む喜びでも思いだすのだろうか?
確かに柔らかなものを口に吸う喜びはその時期に由来するかもしれない。
しかし口の触覚と味覚を喜ばせるものはけっして乳房だけではないのだ。
だからそれを特別視する理由としては不足だろう。
また、離乳食を食べ始める生後5ヶ月まで、まだ未発達の視覚で密着して眺める乳房が、生後いつまでも格別な印象を与え続けるとも、俺には思えない。
決定的なのは、赤ん坊にとっては単に視覚的な乳房は乳房ではあり得ず、味覚や触覚の上での乳房とは大きく異なるもののように思われる点だ。
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ここでの俺の提案は至ってシンプルだ。
五感(これに記憶力を加えて六感と考えるのが俺の習わしだ)から入力される情報のうち、少なくとも半分以上の容量を占める視覚が、乳児期以降は最も重宝される。
人は露わにされた乳房を目にするとき、あるいは想像するとき、そこに二つの目玉を認めて、女の隠された顔に恐れ戦く、というのが俺の仮説だ。
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豊かな表情に富んだ顔。
打てば響く顔。
代わり映えのしない日々に倦み疲れた俺は、無気力の底で、生きる上に新たな刺激を求め始め、そして、出会ったのが生きた女の顔だった。
俺の投げかけに一拍置いてただ応じてくれる顔。
諸君もそんな顔に道すがら出会わない訳にはいかないだろう。
無常では生きにくい。
けれども日常でもやっぱり生きにくい。
自分を否定されるのは好まないけれど、諸手を上げて肯定されるのもまた好まない。
予想通りと見当外れの奇妙な同居、そんな何かを俺は求めるようになっていた。
隠された女の顔が見当違いだったとしたら、諸君はどうするだろう?
あるいは今までどうしてきたか。
そんな俺はやっぱり・・・ロリコンではないとこれでお分かりいただけただろうか?
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